夕焼けに煙る【短編小説】#月刊撚り糸
涙が出そうになった。ヤマさんが吐き出す煙草の煙が目に染みる。煙の中にいるのは嫌いじゃないけれど、閉め切られた車内は暖房が効きすぎて、すこし息が詰まる。横目で覗き見てみると、吸っている銘柄がセブンスターで、昔から変わっていないことに驚いた。一途さはこういうところにも表れるものなのかもしれない。
「窓、開けてもいい?」わたしが尋ねると、
「ごめん、煙たかった?」そう言って、ヤマさんは視線を前に向けたまま、煙草の火を消した。ときどき、同級生でも煙草を吸いながら運転をする人はいるけれど、慣れていないみたいで、見ていて不安になる。彼らもいつかこれくらい器用に煙草を吸うようになるのだろうか。
「ううん、すこしだけ風を浴びたくて」
窓を開けると、冬の冷たい風が勢いよく車内に吹き込んだ。暖房や煙草の煙で淀んでいた空気が一気に入れ替わる。冬の大気は乾燥しているけれど、後腐れのなさが潔くて好きだ。
今日はいい天気で良かった、葬儀の日は雨だったもの。雨の中、葬儀場に現れたヤマさんは葬儀には参列できなかった。のぼるちゃんの訃報をはじめに知ったのはヤマさんだったのに。「ミサキちゃん、ごめん。のぼるのこと守れへんかった」傘もささずにわたしの前で呆然と立ち尽くしたヤマさんの姿が目に焼き付いて離れない。
納骨へ向かう車内で、わたしはのぼるちゃんとはじめて会った日のことを思いだしていた。窓の外では、子どもが凧をあげている。凧は風になびいて、どこまでも、高くあがっていく。
「これ、おじさんのところまで届けれる?」リビングで宿題をしていたわたしに母は尋ねる。わたしはちらりとカレンダーを確認する。ちゃんとスケジュール通りに進めているから大丈夫だ。夏休みの一週間前には課題を終えて、塾の予習に充てることができそう。
「ええよ」母の真似をして得意げに答えた。母はさすが、うちの子や、と言って、わたしの頭を撫でた。わたしは母が酔っているときにだけに使う方言が好きだった。知らないことばを使っているはずなのに、どこか懐かしくて安心することができる。それに、真似してしゃべると、母はとても喜んでくれるのだった。
「これなあに?」母が渡してきた紙袋はずっしりと重たい。
「おじさんの好きなものよ」ひじきにきんぴらごぼうに鶏肉としめじの炊き込みご飯、それから筑前煮、こんな時期だし、あまり日持ちしないからすぐに食べちゃってねって伝えてね。
「いいなあ、おじさんはお母さんのご飯食べられて」わたしが言うと、母は困ったように眉を八の字にして、一緒に食べておいでと言って、総菜を少し多めに包み直してくれた。
わたしはお気に入りの麦わら帽子を被り、すこしだけヒールがあるサンダルを履いて、いってきます!と振り返った。母はビールを片手に手を振っていた。
「のぼるおじさん、いますかあ?」わたしはドアを開けて、尋ねた。のぼるちゃんのアパートは私の家からバスで3駅ほどの場所にあった。学校までの途中に住んでいるなんて知らなかった。問いかけに、返事はない。すこし怖くなって、ちいさな声でおじゃまします、と呟いて、部屋の中へと進んだ。
むせ返るような煙の中に、のぼるちゃんはいた。窓もカーテンも閉め切られた部屋は暑さを吸収して、凄まじい熱気を帯びている。あまりの暑さにわたしは異国に迷い込んでしまったように感じた。薄いカーテンは遮光しきれず、中にいる数人のシルエットをぼんやりと映している。ひとつの影が動いた。
「だれや」聞いたことのない荒々しい声にわたしは身体が強張る。暑さのせいだろうか、額や脇や膝の裏まで、至るところから汗が噴き出してくる。
「こんにちは。ミサキです、母から言われてきました」わたしの声は震えていたけれど、普段からあいさつに厳しい父のおかげで、一応、声がでた。すると、ほかの影が動く。
「ミサキか!大きくなったなあ」ほら、火い消して、窓開けろ、ほかの影に指示をする。カーテンと窓が同時に開く。眩んだ瞳で捉えたのは、おじさんとは、ほど遠い金髪の若いお兄ちゃんだった。
「おじさんじゃない」わたしが呆然とつぶやくと、周りのシルエットだった人たちは大笑いした。姪っ子か、かわええな。
こっちにおいで、手招きする腕には落書きが入っていて「なんで、腕に落書きしてるの?」私が聞くと、またみんなが笑った。その笑い声は不思議と嫌じゃなかった。それに、かれらのこともちっとも怖くなかった。かれらが使うことばは母とおんなじだったからだ。
はじめてのぼるちゃんに出逢った9歳の夏から4年間、わたしは毎年夏になると、のぼるちゃんのところに訪れた。怪訝そうな父と反して、母もそれを嬉しく思っているようだった。帰るころには煙草の匂いが染みついてしまうので、父にバレないように、消臭スプレーが欠かせなかった。
わたしはのぼるちゃんの部屋でさまざまことを知った。のぼるちゃんがいなかったら、世間知らずのお嬢さまのままだったと思う。
腕の落書きは、刺青といって、彫ってあると温泉などに入れないこと。カーテンを締め切るのは煙草の煙を外に逃がさないためだということ。ヤマさんは山田という名字だということ。麻雀はポンジャンの上位互換だということ。お酒は不安になるから、飲むのだということ。大事なことは隠しておいたほうがいいということ。
「ヤマさんとのぼるちゃんは家族と一緒に住まへんの?」いつの夏だったか、ソーダアイスを頬張りながら、聞いてみたことがあった。ふたりはけらけら笑った。わたしが真似して話すと、ふたりはいつも笑うのだった。エセ関西弁、なんだって。
「もう家族と住んでるやん」のぼるちゃんが言うので、誰と?と聞くと、こいつと、のぼるちゃんはヤマさんを指さした。
「ボーイフレンドやから」ヤマさんはやめろや、とのぼるちゃんを小突いたけれど、とても嬉しそうだった。
「ふたりは付きおうてるの?」
付き合うなんて、ミサキちゃんよく知ってるなあ。今の子にとったら、ふつうなんかな?ヤマさんは心底不思議そうに腕を組んだ。わたしはなんだか得意気になって、普通よ、そんなこと、と言ってみた。
「付きおうてるよ」ヤマさんは怪訝そう顔をのぼるちゃんに向けたけれど、のぼるちゃんの顔は真剣だった。
「でも、姉ちゃん、いや、ミサキの母ちゃんには内緒にしとってな」
「どうして?」
ああ、そうなるか、そりゃそうなるよなあ。のぼるちゃんはひとりごとのようにぶつぶつと呟いて、頭をかく。
「おれらあんまり知られたくないねん」代わりにヤマさんがそう言った。「ミサキちゃん、大事なことは隠しておいたほうがいいんやで」
わたしはなんだか泣きそうになった。ふたりが仲がいいということは幸せなことなはずなのに、知られちゃいけないのはどうしてなんだろう。それ以上は聞けないことが、もどかしくてわたしは閉め切られたカーテンと窓を一気に開いた。突然に差し込んだ光にふたりは目が眩んでいるようだった。わたしは光の中を突き抜けると、ベランダに出て、叫んだ。
「しあわせやー!」
なんでかわからないけど、わたしは叫んだ。今すぐに全世界に伝えたかった。わたしたちはここにいるよ。三人で雑魚寝をすると埋まってしまうようなワンルームで、生きてるよって。団地は声がよく通るみたい。洗濯物を干していた母親らしき人がこちらを向いた。
「わたしもふたりと家族になりたい」振り返って、伝えると、のぼるちゃんはわたしに隣に立って、肩を抱き寄せた。
「ええやん、おれら三人、今日から家族や。どっちがおかんやろ?」
「のぼる」
「のぼるちゃん」
「なんでそこハモんねん」のぼるちゃんは怒っているような、笑っているような、泣いているような、いろんな顔をした。
「のぼるちゃん泣いてる?」
「泣いてへん」
「泣いてるやん」
そのまま三人で並んで、しばらく夕日を眺めた。オレンジ色のペンキを被ったみたいに全身が染められて、そこにはまるでオレンジ一色しか存在しないみたいだった。家族っておんなじ色になることなんだなあ、とわたしは思った。
それから、中学校にあがったのを皮切りにわたしはのぼるちゃんのところへ出向かなかくなった。理由はよく覚えていない。勉強や部活動、習い事と忙しくなっていったから、当然のことでもあった。夏休みも予習復習に追われるので、小学生のころに比べて、楽しみではなくなった。
それに家族でのぼるちゃんの話はなんとなくタブー視されていて、父はよくのぼるちゃんのことを、心の弱いろくでなし、だと言っていた。母はのぼるちゃんのことが話題にあがるたびに親族内で肩身の狭い思いをしていたので、わたしは空気を読んで何も言わなかった。肯定も否定もせず、過ごした。だから、三人で過ごしたあのアパートに、もう誰もいないことを知ったのは、のぼるちゃんが死んでしまったあとのことだった。
「おれが、隠したいなんて言うたからなんかな」運転のせめてものお礼にとコーヒーを買って戻ると、ヤマさんは遺骨の入った骨壺を抱いて、後部座席に座っていた。わたしはコーヒーをカップホルダーに入れて、隣に座った。何も言えなくて、ただ膝の上で手を固く握っていた。
「あいつはさ、やさしいからさ。いつもミサキちゃんの母ちゃんに気使ってたよ。おれがいるから、あねきは幸せになれないんだ、ってよく言うてた。あそこはミサキちゃんのお父さんが貸し付けてくれてた部屋だったから、ミサキちゃんが来なくなって、すぐにふたりで地元に帰ったんだ。おれもいたから余計に気にしてたんやろな。こんなことなら、甘えてでも、あそこにいればよかったのかもしれない」
わたしはそんなことないよ、となんて言えなかった。どっちにしても、わたしたちはのぼるちゃんのことを救えなかったような気がしたから。のぼるちゃんはほんとうにいつもやさしかった。
そのあとわたしたちは、車を降りて、西日を眺めた。ヤマさんはわたしの肩を抱き寄せたまま夕焼けを眺めていた。のぼるちゃんの遺骨を抱えた腕が、じんわりを熱をもっていく。雨の中、焼けていったのぼるちゃんの魂が今もまだここにある気がした。オレンジに染められて一緒に燃えていく。あの日のわたしたちはたしかにここにいた。
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