密なる法網 豊臣・徳川時代1概説

「なんぞ、法網の密なるや
―史料集成『言論・表現の自由』受難史」(豊臣・徳川時代 1)

≪概 説≫ 徳川幕府の言論政策
1603年(慶長8)2月12日、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、260余年にわたる「江戸時代」が始まった。
徳川幕府の言論政策は「知らしむべからず、よらしむべし」を基本にした言論統制策で、触書では「書物類古来より有り来り通りにて事済み候間」として新版無用とされ、「新作のたしかならざる書物商売すべからざる」事という大原則をかかげ、出版許可主義を貫いた。ニュースとしての読売も許されなかった。
徳川幕府がその政権を維持するために、個人に強いたのは官許の学問は儒教、朱子学であり、官学思想・官製道徳であった。これらに異を唱え、反抗した人たちに対しては過酷な弾圧が行われた。両性関係の文学表現に対しては、江戸の戯作者たちに対する圧迫であった。
また、鎖国政策によって、長崎奉行のオランダ通詞に、口頭の通訳は許したが、文書の翻訳は厳禁し、外国書の輸入も禁止された。
筆禍中の要目は版本版絵に属するものだが、1596年(慶長1)以降初めて版刻の技が普及、学者著述家の輩出とともに、盛んに文画の公刊公行を見るに至り、其頻出につれて政策的の禁遏を受くる者が多くなり、筆禍の史実は徳川時代に入りて、政治史の片影とみるべき社会的事象の一つと成った。(「筆禍史」)(双川喜文「言論の弾圧」法政大学出版局)

徳川開封のはじめから明治維新前に至るまでの出版著述について発布された法規・法令は、いわゆる不文法で、これこれの法を犯すといかなる刑になるかという明文規定は無く、臨機応変に裁断処分した。
▽法制の沿革は大要次の通り。
・元和偃武以降寛永末(1615~1643年)までは、出版に関する法令はない。
・延宝年度(1673年~)に初めて発令、幕府の事は勿論、諸人が迷惑すること及び新奇の説を記述出版する際は允許を受けること。
・貞亨1年(1684年)、よからぬ小唄、珍事、異聞の版行、読売を禁止。
・元禄年度(1688年~)、風俗を乱す図書文書の出版を禁止、書物問屋、絵草紙問屋組合を設け、月行事を定めた。
・享保年度(1716年~)、徳川家代々将軍の事蹟は版行、写本とも禁制、また人の家筋、先祖の事蹟及び猥なこと、異説取交ぜた記述の出版禁止。すべての書物に出版者の署名が必要。
・寛政年度(1789年~)、享保令の趣旨を敷衍し、なお別に絵双紙、錦絵など風紀に害あるものを禁止。
・文化年度(1804年~)、絵双紙類に天正以来(1573年~)の武者姓名を記入し、或いは紋所などを使うことを禁じ、絵画はすべて墨摺のみとして彩色を施すことを禁ず。
・天保年度(1830年~)、享保、寛政の旨意を継承して、さらに暦学、天文学、阿蘭訳書、いずれも年寄館を経て、奉行所に伺いを立て、差図を受けること。また、風俗上宜しくないという理由で、人情本の売買貸借を禁じ、俳優芸娼妓の容姿を書いた錦絵を停止し、錦絵の彩色精巧を禁じ、売値16文以上を禁じた。また、別に重版偽刻などすべての私有版権に関する規定を定めた。(「徳川政府の出版法規」)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?