豊臣・徳川時代2-1 1649年「古状揃」没収・絶版~

「なんぞ、法網の密なるや
―史料集成『言論・表現の自由』受難史」(豊臣・徳川時代 2)

1649年(慶安2)
「古状揃」没収・絶版
 「大坂の書估、西村伝兵衛方より発兌せし古状揃の一書は忌諱に触るる所ありて、没収絶版せられ、蔵版主伝兵衛は死罪に処せられたりといふ」。江戸時代、国書のうち禁書処分を受け、著作者・出版者・販売者が処罰を受けた最初の筆禍事件とされ、斬首となった伝兵衛は、徳川幕府禁制の初犠牲者となった。
伝兵衛が出版した「古状揃」は習字手本書簡翰集で、「今川状」「初登山手習教訓書」「義経含状」「弁慶最後書捨」「直實送状」「腰越状」などが収められていた。咎められたのはその中の家康の「大阪進状」と秀頼の「同返状」であった。
大坂進状=今度片桐市正をして条敷(くわし)く申越し候処一円(一向)同心なく、剰(あまつさ)え諸浪人を抱え篭城の用意其聞就中先生秀頼下知を為し、石田治郎少輔逆心を動かし、其注進聞き届け関東より時日を移さず駆け上がり濃州青野合戦(関が原合戦)に切勝頗る北国西国の諸軍勢を追い払い本望を遂げ、加うるに石田治郎安国寺等を生け捕り、京都の移し家康会稽の恥辱を雪ぐ。其の刻討果すべき所太閤報恩の故殊に縁者たるものの間助命立置候処還て謀叛を企つる事蟷螂の斧を以て立車を覆すが如し。縦え一城に鉄網を張り唐の咸陽宮に学び驢馬童に籠らすと雖も、出陣に及べば即時に踏落とし、秀頼の首を刎ねることを踵を回すべからず候恐々謹言
慶長一九年                               家康
大野主馬殿
 秀頼返状=芳墨披見せしめ候仍て仰越さる難題の趣聊かも承引すべき事無之候然れば父太閤秀頼一五歳に及ばば天下相渡すべきの旨日本諸大名数通の起請文上り候事紛れあるべからず候。然る処先生石田治郎少輔一身の才覚を以て天下を覆すと雖も不運にして本望を遂げず其次国々異見謂れなく候。剰え秀頼逆心の様承何ぞ幼少にして別心を知らんや併も家康表裏の侍前代未聞に候太閤の厚恩を忘れ秀頼に一ヶ国も宛行わず孤となし今又討果すべきの企是非に及ばず候。一国一城にて日本を引請け腹切る事弓箭の面目たるべく若し関白天道正理に叶い仏神三宝の納受これあらば家康父子の露命危ぶむべき者也猶一戦の節を期し候恐々謹言
慶長一九年                              秀頼
進上家康公                   (「言論の弾圧」「筆禍史」)

「家康表裏の侍前代未聞に候太閤の厚恩を忘れ太閤の厚恩を忘れ秀頼に一ヶ国も宛行わず・・・」のくだりが、前任者への賛辞を嫌う徳川幕府には最も痛いところであった。宮武外骨は著「筆禍史」の中で「如何に自家防衛のためとはいえ、父祖の暴戻を顧みざる酷薄の処分といわざるべからず」と評している。
もっとも、家康の名だけ削除して、その後も売られ、1755年(宝暦5)には、版元が<大坂状>を削除する旨、京都書物問屋仲間行司に届けをしており、事実上は禁書を免れたといえる。

<先人評>
 権力者は、いつの時代も「前任者」賛美を快く思わず、封じ込めようとする。それが、わが身を守る事にもなるからである。その事例は数多い。
・1659年(万治2)、「朝鮮征伐記」発禁 
森杏庵著、著者没後2年のこの年に刊行。藤尚国編「絶焼録」の絶版書目のひとつに上げられているが、初版の時期、禁止理由は不明。秀吉の威勢を知らしめることになるので禁止されたのではないかと見られる。(「筆禍史」)
 ・1672年(寛文12)5月、「日本人物史」宇都宮由的、禁獄
碩儒宇都宮由的が寛文12年(1672)5月、「日本人物史」(全7巻)を出版。
歴史上の人物を、武将(25名)、亡将(25名)、闇将(8名)、名家(9名)、忠臣(9名)、逆臣(11名)、姦しん(9名)、義士(12名)、勇士(23名)、儒林(8名)、医林(17名)、列女(27名)、芸流(38名)に分けて、簡潔な評伝を加えたもの。
この書物が罪に問われたのは、第4巻「勇士の部」の中川清秀伝に「弘通耶蘇宗」の文字があったから
だいわれている。清秀は、信長・秀吉に仕え歴戦の武将として著名で、秀吉に属して柴田勝家軍と戦って壮烈な戦死を遂げた。信長が清秀にキリスト教保護を約束して荒木村重を裏切らせており、清秀がキリシタン大名だったことに触れたのが筆禍の直接の原因となった。諸家創業期のさまざまな下克上の行動事実やキリスト教との関連事実が出版書に載せられるのは、幕藩にとっては厳に警戒しなければならなかった。(「江戸の禁書」)
宇都宮はただの5文字で幕府の忌諱に触れ、禁錮数年の処罰。(「筆禍史」「江戸の禁書」)
・1698年(元禄11)8月、「太閤記」出版禁止
春、江戸書肆鱗形屋より太閤記7巻を刊行せしところ、8月松平伊豆守掛にて、版元はお咎めの上、絶版を命じられた。太閤記絶版の濫觴なり。
 家康が譎作権謀をもって、豊臣家を滅ぼし、自己が大将軍職に就きしことは、家康子孫の脳裏にも、其
の亡恩破徳の暴挙たるを認識せるがため、豊臣家の事蹟を衆人に普知せしむるを欲せず、随って其の宣教
伝記の出版を禁止するの暴挙手段を執りしなり。(「筆禍史」)
・1704年(宝永1)、「東国太平記」絶版
1570年(元亀1)~1591年(天正19)のころの東国諸軍の概略を記述、1704年(宝永1)杉原彦左衛門が1706年(同3)に出版。伊達政宗の秀吉に対する行動が醜態だとして「仙台侯へ板木買上の上絶版致候」となった。(「筆禍史」)
・1719年(享保4)、「赤城義臣伝」発売禁止
 大阪の片島深淵編述。「精忠義臣伝」も同一人と見られる。「義士神埼則休、前原宗房、木村貞行の3人が自ら国難の顛末を語り、それを3人の自刃後、野村某が補筆、編者自身がさらに奔走して事実遺蹟を究めて増補し、義士17回忌に大成。幕府の忌諱に触れ、発売禁止となる。
 幕府は、自己の政治上に関連する事実の報道を嫌忌し、義士の伝記公刊をも禁止していた。(「筆禍史」)
・1804年(文化1)5月、「絵本太閤記」「太々太閤記」「化物太閤記」など絶版
寛永年間(1624~1643)に浮世絵師・近藤清春が太閤記の所々に挿絵をして出版したのが始ま
りで、寛政(1789~1800)のころになると、難波の画工・法橋玉山が「絵本太閤記」を発行、あまねく流布した。江戸では1803年(享和3)、嘘空山人著「太々太閤記」、十返舎一九作「化物太閤記」など太閤記の名の付く多くの書物が出され、続いて勝川春亭、歌川豊国、喜多川歌麿などの浮世絵師が太閤記の挿絵を書いて3枚綴り錦絵を制作。子供までが太閤記の登場人物を評するようになった。豊臣家から徳川家への政権の移動、徳川家の祖や功臣について民衆の批判が及ぶことを恐れ、幕府は「絵本太閤記」はもとより草双紙武者絵の類凡て絶版を命じ、多くの者を処罰した。
幕府が絵草紙問屋行事に次の禁令を発した。
「絵草紙類之儀に付、度々町触申渡之趣、有之候処如何成品商売致、不埒之至に付、今般吟味之上夫々咎申付候、以来左之通可相心得候
一、壱枚絵草紙類、天正之頃以来之武者等、名前を顕はし、画候儀は勿論、紋所合印名前等紛らは敷認
め候儀も、決而致間敷候(武者絵に紋所合印名前等紛らはしく認めらるるものを使ってはならない)
一、壱枚絵に、和歌之類並景色之地又は角力取、歌舞伎役者、遊女之名前等は格別、其外之詞書一切認間敷候(壱枚絵でも和歌之類、景色之地、角力取、歌舞伎役者、遊女の絵に名前をつけるのは差し支えないが、詞書を加えてはならない)
一、彩色摺致し候絵本双紙等、近来多く相見え、不埒に候、以来絵本双紙等は墨斗にて板行致し、彩色を加へ候儀無用に候」(絵本絵双紙類は爾今色刷を禁じ、墨摺ばかりで板行すること)」
肝煎名主四名を定めて草双紙を検閲させ、錦絵も地本行事の査閲を要するようになった。一枚絵草双紙類に、武者の名など書くことが禁じられた。1722年(享保7)の幕府令では「権現様(家康)の御儀は勿論総て御当家の御事の板行書本自今無用に可仕候」とされたが、今回は家康のみならず、天正以来(1573年~)の武将に関することをも厳禁。「これは家康が奸計を以て、天下を横領した事実を諸人に知らしめざらんとするにある」。(「筆禍史」)
当時の武者絵は精巧を極めた上、二枚摺、三枚摺はもとより、七枚摺まで登場した。北の政所、淀君ら美女に囲まれ、石田三成の酌を受けている太閤秀吉を描いた「太閤五妻洛東遊観之図」などを発表した喜多川歌麿が、五〇日手鎖の刑に処せられた。描かれた艶なる婦女の容姿が、「風俗を紊す虞」ともされた。このほか、画工・歌川豊国、勝川春英、喜多川月麿、勝川春亭、作者・十返舎一九らも、手鎖五〇日に処せられた。(「言論の弾圧」)。板元も一五貫づつの過料、錦絵没収を命じられた。
・1837年(天保8)、「御代の若餅」絶版、処罰
 歌川芳虎筆の一枚版行絵。武者たちの餅つきの図だが、人物の紋章などから、信長が明智光秀と二人で餅をつき、秀吉が餅を延ばし、家康は座って餅を食べている図。「君が代をつきかためたり春のもち」の俳句が添えられており、家康がうまく立ち回って天下を併呑し、なんら努力せずに大将軍の座に就いた家康の狡猾さを風刺しているのは明白で、1804年(文化1)の禁令により、忽ち絶版の厳命が下った。芳虎と版元は手鎖50日、版木焼棄。(「筆禍史」)
1666年(寛文6)
10月3日、「聖教要録」事件。山鹿素行、配流。
儒学・兵学者の山鹿素行著「聖教要録」が、朱子学批判の「不届きな書物」とされた。朱子学は、当時の官学であり、これに異を唱えることは許されなかった。本来の筆禍に値する禁書処分を最初に受けた事件(「江戸の禁書」)とされる。
事件の発端は、素行が1666年(寛文6)4月27日、自宅近くの牛込・法泉寺で板倉重矩と
面談したことに始まる。4月5日、素行は板倉の老中昇任を祝い、父逝去の際の慰弔への礼も述べ
るため板倉宅を訪問したが不在であった。このため、法泉寺に墓参へやって来た板倉の招きで会談
したのであった。その席で、板倉から「保科肥後守殿御学問の筋は、如何承り候哉」と問われ、素
行は「保科公へ御目に懸かり奉らず候間、存じ奉らず」などと初めは言い渋っていたが、板倉が再
三に渉り執拗に問いただしたため、素行は「風聞迄に申上げ候はば、御学問の筋、慮外ながら私共
存じ奉り候とは、相違御座候様に存じ奉り候」と答え、板倉も「此の方(自分)も左様に思召され
候」と述べた。
 板倉は、素行に兵学を学び、服喪中の素行に度々使者を遣わしているほどで、個人的には好意を寄せていた。しかし、素行の「聖教要録」を問題にしていた保科正之(幼い四代将軍家綱の補佐役)の意を受けてそれとなく素行を取り調べたのではないかとされている。
果たして、9月21日、石谷市右衛門が「聖教要録、世に流布し、人以て誹謗を為す。且保科肥後太守しきりに之を怒る」との板倉の命を素行に伝えて来た。素行は、板倉に聖教要録述作の趣旨を書き送ったり、要路の人々に手紙を書いたり、直接話するなどの善後策を講じた。
「聖教要録」は「山鹿語録 聖教編」の要約で、1666年に出版され、後の「中朝事実」と共に素行の主著とされている。聖人、知至、聖学、師道、立教、読売、道統、詩文、中、道、理、徳、仁、禮、誠、忠恕、敬恭、鬼神、陰陽、五行、天地、性、心、意情、志気思慮、人物之生、易有太極、道原の上中下巻28節から成り、「朱子学の空理に拘するを疑い、周公孔子を祖述すべしと唱え、忽ち師家たる林家と衝突」、幕府御用学問、官学である朱子学や陽明学を学問的見地から論難、否定した。
しかし、幕府の政治を批判したわけではなく、封建社会を肯定し武士階級に奉仕しようとするもので、封建社会の根本的改革ではなく、日用事物、浅近卑下の問題の改良を目指し、朱子学に代わって封建的支配者に奉仕する御用学問たらんとした。素行は、衷心からの幕府政治謳歌者であり、現状肯定主義者であった。
問題とされたのは、まず上巻「道統」の章のあたりと思われる。「周公など十聖人は、その徳その知、天下に施して万世その沢(めぐみ)をこうむる。周の衰うるに及んで、天、仲尼(孔子)を生ず。生民ありてより以来、未だ孔子より盛んなるはあらざるなり。孔子没して而も聖人の統ほとんど尽く。・・・聖人の学ここに至りて大いに変じ、学者儒を陽にし異端を陰にす・・・」とあり、素行は御用学者・林家の朱子学に対し、真っ向から挑戦した。素行は、朱子学の主張する「性善説」を攻撃、また居敬窮理(内に省察、外に静座)という修養法にも「静座なぞ人間が小さくなるだけ」と批判した。要するに「孔子に帰れ」であった。
4日後、本多忠将が来訪、「聖教要録の罪、公儀既に定まる」と告げた。そして、10月3日、大目付・北條安房守から「相尋ぬ可き御用之事候間、早々私宅迄、参らる可く候。以上」との自筆の召喚状が届けられた。素行は「追付参上仕候」と返事。
呼び出しを快諾したものの、素行は「若し死罪に候はば・・・」と、「盥漱して神主(亡父の霊)を拝し」「妻子に觴し」て次の遺書を書いた。「蒙(われ)二千歳の今に当りて、大いに周公・孔子の道を明にし、猶吾が誤りを天下に糺さんことを欲し、『聖教要録』を開板するの処に、当時の俗学・腐儒は身を修めず、忠孝を勤めず、況や天下国家の用は聊か之を知らず。故に吾書に於いて一句の論ずべき無く、一言の糺すべき無くして、或は権を借りて利を貪り、或は讒を構えて追従す。世皆之を知らず。・・・夫れ我を罪する者は、周公・孔子の道を罪するなり。我は罪すべくして、道は罪すべからず。聖人の道を罪する者は、時政の誤りなり。古今天下の公論、遁るべからず。凡そ道を知るの輩は、必ず災に逢う。其の先蹤尤も多し。乾坤倒覆し、日月光を失う。唯怨むらくは今の世に生まれて、時世の誤りを末代に残すことを。是れ臣が罪なり。誠惶頓首
十月三日                       山鹿甚五左衛門
北條安房守殿    」

言論・出版の自由を極度に蹂躙する封建専制主義に対する深刻・痛烈な攻撃であるとともに、強権に対する学問研究の自由独立を高唱した内容であった。
この後、素行は「若党両人召連れ、馬上」で出頭した。そこで「其の方事、不届成る書物仕候間、浅野内匠頭所へ御預け成され候由、御老中仰せ渡され候由、申候」と宣告された。これに対して、素行は「先ず以て御意の趣、畏まり存じ奉り候。然し乍ら御公儀様に対し、不届き成る儀は、右の書物の内何れの所にて御座候哉、承り度き儀に存じ奉る」と問い返したが、北条氏はこれには答えず「申わけも之有る可く候得共、斯くの如く仰せ付けられ候上は、申し分には及ばず候御事」と傍らの目付に申しつけ、素行も「御意の上は、兎角と申上ぐ可き様、之れ無く候」と述べ、そのまま浅野家に引き取られた。ただ、宣告の際、北条氏の付き人が「硯を持ち候て、申し遣し度事は申次ぐべく候」と配慮を示したが、素行は「常々家を出候より、跡に心残り候事は之れ無き様に勤め罷有候間、書付越し申すべき事、御座無く候」と断った。浅野家には8日まで逗留し、9日未明江戸を発ち、東海道を経て赤穂へは24日に着いた。
素行に10日遅れて、妻子も赤穂に着き、同居を許された。浅野家の待遇は、衣食住の不安のない賓客並みのもてなしだった。また、江戸に残した母などとの音信も交わすことが出来、弟や姉、知人の来訪も認められ、不自由のない生活であった。素行にといって、1日中がほとんど自分の時間であり、「謫居童問」「中朝事実」「配所残筆」など多数の編著をなし、日本中朝主義の境地を開拓した。
1673年(延宝1)6月18日、上野東叡山輪王寺門跡(後光明天皇の弟)へ赦免を願い出て、嘆願運動をはじめた。1675年(同3)1月、54歳となった素行は「今年は配所に参り10年(足掛け10年、満8年2ヶ月余)に成候。凡そ物必ず10年に変ずる物也。然れば今年、我等配所に於て朽果て候時節到来と、覚悟せ令め候」と、死期の近いことを予感して書き残したのが、自叙伝「配所残筆」であった。一方、4月から6月にかけて矢継ぎ早に「書を江武(江戸)に奉る」と記録している。その哀訴運動が功を奏し、7月3日、「去月24日御赦免の告、今日朝来著す」と赦免の通知(4月の日光山家密25回忌法会の大赦による)がもたらされた。同25日、妻子を残して赤穂を出発、8月11日昼、品川で弟や門弟の出迎えを受けて、江戸に到着。先ず、浅野邸に入り、板倉長矩から「著衣上下を賜り」「酒肴饗応」を受けた。その後、老母を訪ねたり、老中への帰府あいさつ回りなど多忙な日々が続き、23日には妻子も帰り、1678年(同6)7月26日、母親ともども新居に移った。
帰江後の素行は「以前よりの近付衆へは出入仕る可く候。浪人など集め候事、無用に仕る可く候」と言い渡され、完全な自由の身というわけではなく、「素行方々徘徊の説あり」との嫌疑を掛けられたほどであった。やがて其の嫌疑も晴れ、1679年(同7)になると、「聖教要録」の講義もできるようになり、「中朝事実」も刊行され、素行の思想・学問は危険視されなくなった。1685年(貞享2)9月26日、黄疽病で64歳の生涯を終えた。

事件は、幕府が本格的な教学統制に乗り出したことを示すものであった。素行は寛文年間(1661年~)に入ると、朱子学を否定し古学を唱え始め、周公、孔子の理論は後世の学者の説によるのではなく、原点に戻らなくては正しく学ぶことはできないと主張。これを一番問題にしたのが山崎闇斎の影響を受け熱烈な朱子学信奉者になっていた保科正之。素行との対立は、「言を巧みにし、人の迷と相成候者に付」、社会を混乱に導く虞があるとする儒学上の批判だけではなく、北条流と山鹿流という兵学上の対立もあった。兵学者・北條氏長の兵学は、単なる戦争学ではなく、仏・老・神・儒(特に朱子学)を包摂した士たる者の道を説くものであり、一方、素行の兵学は、「専ら近代鉄砲仕用の実践を講究するを以て、名声一時に高く、諸大名往々弟子の礼を取るに至り」、北条流の別派として「武教」と称した。氏長がかつての愛弟子・素行の名声を嫉視し、北条流兵学の立場から保科正之の挙を助けたことは疑いない。
 老中のうち三名は、素行に兵学を学んでおり、素行処罰には消極的であったが、上位の保科の意向に逆らうことは出来なかった。「聖教要録」は「具体的な政治・経済問題を論じたものでも、幕府を誹謗したわけでもなく、単に幕府要路の保科正之との学問上の見解対立のために弾圧された」もので、現に保科没後には、許され、その思想も禁圧されることはなかったという。「山鹿の冤罪は、いふも更なり、当時の処置、甚だ圧制にして非道なりき」(「徳川政府の出版法規」)
保科は将軍秀忠の庶子で、将軍家綱の補佐役として19年間、老中、幕臣を統率し「寛文の治」を果たした。
1643年(寛永20)、肥後から会津に封じられた際、自分の居城内で生まれた素行には特別の関心を持っていて、それが却って逆縁となったらしい。
この事件は、第一には、官学の私学に対する弾圧であり、「寛政異学の禁」の先駆となるものであったこと、第二には、先に由井正雪の「慶安の乱」取締りの余波として、当時の牢人中の中心人物で、諸大名の尊信を一身に集めていた天才・山鹿素行の将来を警戒した幕府の一種の内乱予防策とも見るべきである。(「言論の弾圧」)。
「慶安の乱」とは、1651年(慶安4)7月に発覚した浪人らによる幕府批判騒擾事件。「由井正雪の乱」「慶安の変」ともいう。関が原の戦いや大名改易によって多数の浪人か発生する一方、元和偃武以後諸大名が武士の召抱えを控えるようになり、浪人が、巷に溢れるようになった。こうした中、江戸で軍学者として名をはせていた由井正雪が丸橋中弥らと謀り、浪人救済を掲げて、江戸、駿府、京、大阪で騒動を起こすことを計画。しかし、密告によって、計画が発覚、次々に捕縛され、駿府の宿にいた由井も追っ手に取り囲まれ、自害した。(「人物叢書 山鹿素行」堀勇雄、吉川弘文館)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?