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【華夷思想4】 孟子(もうし)の華夷思想:夷狄に生まれた聖人(1)

1,夏と中国の「周公や孔子の道」

前回まで、『孟子』の原文に見える“夏"と"中国"について考察した。
そこで見えたことは、以下の通りである。
すなわち、"夏"とは、夏王朝以来の時間的系譜を表現したものであり、"中国"とは、夏王朝が発生して以来の世界の中心にあたる地理的空間なのである。

さて、しつこいようで恐縮だが、【華夷思想2】、【華夷思想3】と同様、あらためて例の一文を掲げてみたい。

私は、①中国(原文では“夏”)によって夷狄が変わったという話を聞いたことがあります。
ですが、これまで、①中国(“夏”)が夷狄に変わったという話は、聞いたことがありません。

あなたの師匠である陳良(ちんりょう)どのは、楚で生まれました。
ですが、周公や孔子の道に喜んで、北までやってきて、②中国(“中国”)で学んだのです。

北方の学者でも、彼よりすぐれた者はおりません。
彼こそが、いわゆる豪傑の士というものです。

(『孟子』滕文公上①)

さて、今回注目したいのは、楚の陳良という人物が、「周公や孔子の道」に喜んで、中国(原文も“中国”)にやってきたという部分である。

当然ながら、「周公や孔子の道」は、夏王朝の系譜を引き継ぐ「中国」と呼ばれる地域の文化、学問を指している。
なるほど、周公は、周王朝創建の元勲にして王室であり、孔子は、周公の息子を祖とする由緒ある魯国の出身である。いずれもまさしく「中国」に生まれた人物である。
だが、では周公や孔子に加えて、孟子が崇拝する聖人たちが全て「中国」生まれなのかと言えば、そうではないのである。

2,舜は東夷、文王は西夷

『孟子』の後半には、以下のような一文がある。

は諸馮(しょひょう)の地に生まれ、負夏(ふか)に移住し、鳴條(めいじょう)の地で亡くなった。つまり、東夷(とうい)の人なのである。

文王は岐周(きしゅう)の地に生まれ、畢郢(ひつえい)の地で亡くなった。つまり、西夷(せいい)の人なのである。

 …… 先代の聖人、後世の聖人、どちらも考えることは一緒だったのである。」
(『孟子』離婁下)

舜は、尭とならび孟子が崇拝する、聖人の代表格である。
また、周の文王もまた、孟子は同様に聖人として称えている。

そして、孟子の記録によれば、舜は、東夷の人だと言うのである。
また、周の文王は西夷の人だと言う。

孟子は、彼らを聖人と称えるが、逆に言えば、孟子から見れば、彼らは聖人でありながら、夷狄でもある、のである。

*では、この東夷や西夷(原文でも“東夷”と“西夷”)を、はたして「夷狄」と訳して良いのか?という問いに対しては、梁恵王篇の宣王との対話を参照いただければ納得いただけるであろう。

3,南蛮のモズ

さて、話を楚の陳良に戻そう。
この陳良を、孟子は賞賛している。だが、前々回でも述べたように、陳良の弟子については、彼らを叱責している。彼らが、儒学ではなく、神農を崇拝する許行の教えに取り込まれてしまったからである。

最初に掲げた(『孟子』滕文公上①)のつづきには、以下のような一節がある。

今、南蛮のモズのような、喧しい鳴き声で喚き散らしている人物がいます。
彼は、古の王たちの道を否定する人物です。

(『孟子』滕文公上②)

ここで言う「南蛮のモズのような」人物とは、神農を崇拝する許行を指している。つまり、孟子から見れば、楚は「南蛮」なのである。

ただし、ここでは、楚が「南蛮」だから、楚の思想家集団である許行たちを批判した……
と、いうわけではないことに、注意すべきである。

*次回に続く


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