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夜明けのわたしへ

「大人になると、ぼくらは幼い頃の記憶を失くすらしい。まるで記憶喪失のように、みんなぜんぶ、大事なことさえも忘れるんだ」
 彼があまりに真剣な眼差しで話すので、わたしは同情するような気持ちで答える。
「いずれ忘れちゃうなら、今こうして話していることも忘れるんだろうね」
「そう。だからぼくらは、こうして卒業アルバムに言葉を残すんだよ。今の自分たちを忘れないために」
「そんなの、アルバムを開けば分かることじゃない?」
「思い出に浸るだけなら日記で十分だよ。卒業アルバムなんて、人生でそう何度も手に入る代物じゃないんだ。そこに残る思い出には、より特別な価値があるとぼくは思ってる」
 彼は手に持った卒業アルバムの背表紙を指先でそっとなぞる。そして、悲しみを溶かして薄めたような笑みを浮かべて、呟いた。
「これがいつか、ぼくらをつなぐ目印になってくれるといいな」

 葬儀は滞りなく終わり、参列者はいそいそと会場を後にする。次の日も早くから仕事だったので、わたしも足早に帰路についた。
 静かに揺れる電車からぼんやりと窓の外を眺める。街灯の明かりがぽつぽつと川に浮かんでいる。それを表情なく見つめる自分が黒い車窓に映っていた。
 今日は中学の同級生の葬儀だった。名前を聞くまですっかり忘れていた。連絡をくれた母に教えてもらわなければ、きっと思い出すこともなかっただろう。
 携帯を開くと週末に迫ったプレゼンのメモが表示される。前回が好評だったこともあり、妙な肩の荷を感じる。帰ったら少しでも作業を進めよう。ため息をつき、最寄り駅のホームに降りる。途中、コンビニの光に吸い寄せられるようにして店内に入り、500ミリリットルの缶ビールを買った。アパートに着いて鍵穴に鍵を差し込み、誰もいない部屋に入る。電気をつけた途端、電源が切れたようにベッドに横たわった。
 ああ、塩を撒くのを忘れた。重い体を起こして台所の戸棚を探す。でも塩の入っているはずの小瓶は空っぽで、詰め替えもなかった。シャワーでいっか、とわたしは服を脱いだ。
 浴室の鏡に映った自分を見ながら、ぼんやりと今日の葬儀について思い返す。遺影の中の彼は、思い出の彼とは似ても似つかなかった。痩せた頬にぽつぽつとあざのような黒いしみができており、前髪も目元まで伸びて表情をはっきりとはうかがえなかった。けれど、その微笑みには既視感があった。どこか悲しそうな眼差しが懐かしさに触れて、わたしの心を透かしているみたいだった。
 シャワーを済ますとさっき買った缶ビールを冷蔵庫から取り出す。プルトップを開け、溢れた泡を口でさっと受け止める。透き通る苦味が喉を駆け抜けて、時が止まったみたいな幸福感に満たされた。かあーっと勢いよく缶を口から離す。
 毎日の嫌なことや、もやもやした気分をビールで洗い流せるくらい、わたしはもう大人だ。それがちょっと嬉しくて、でも少し寂しかったりもする。
 机に置かれたノートパソコンに目を向ける。開くとパスワードを要求された。けれど、今すべきことはプレゼンの資料を進めることではない気がして、静かに閉じる。
 なんだかじっとしていられない。わたしはクローゼットを開けて、その奥から段ボール箱を取り出した。一人暮らしを始めて以来、一度も開けていない。そこから卒業アルバムを引っ張り出す。
 メッセージページには当時のクラスメイトによる寄せ書きが残っている。その隅っこに、彼がわたしに宛てた言葉があった。
「君は正直で真面目で、だからこそ、他人事でもまるで自分のことのように傷つく。いつまでも、そんな君のままでいてほしい」
 文章を目で追いながら、わたしは、もういない彼について考えた。
 彼の死を知ってから、胸の奥に穴が空いたような気持ちがずっと続いている。この穴を自分で埋めるのは簡単で、けれど埋めてしまった後のかさぶたみたいな感情まで剥がすほど、今のわたしにその勇気はない。
 気を紛らわすためビールを飲む。段々と視界の端がぼやける。酔い覚ましに窓を開けた。つめたい夜風が火照った体にやさしく絡まる。ずっとこうしていたかった。
 結局、プレゼンの資料は進まず、ビールをちびちび口に含み、携帯をいじりながら意味もなく時間を持て余した。なにかを期待しているのか、それともなにも期待していないのか。自分でもよく分からない時を過ごす。
 でも今は、夜明けを待つわたしを独り占めしたいような、そんな気分だった。

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