ゆさゆさ
ふと文章を書きたくなる時がある。
「文章書こう!」とすぐに机に向かえる日はあまりない。しかし、「文書きたいな」と思う瞬間はしょっちゅうある。小学校低学年の子たちに「この問題わかる人!」と問いかけるとみんなが元気よく「はいはいはい!」と手を挙げるが、いざ「じゃあ〇〇さん!」と指名すると急に小さな声になるアレと同じ私。
コンサートやイベント事もその私がよく登場する。「行こう!」とわくわくするのに、いざその日になると「やっぱやめようかな…」となる。天邪鬼なのだろうか。いざとなると逃げたくなるこの性分は。
最近気づいたのだが、「文書きたいな」と思う瞬間には共通点がある。それは、「自分の濃度が低くなった時」だ。誰かと長い時間一緒にいた日や、旅行に行った日の朝起きた時や、外から与えられたストレスに参っている時は、自分の中の自分の濃度が薄くなっている気がする。いつもの私ではないのだ。だからこそそういう時には、自分の中の自分の濃度を抽出する作業として、文章を書きたくなる。紅茶のティーパックを、カップの中でゆさゆさする感じ。自分の中の言葉をゆさゆさして抽出し、いつもの自分濃度に戻す作業なのだ。
ではなぜ、いざ書こうとすると腰が重くなるのか。その理由は簡単。そのゆさゆさには、とんでもない労力を使うから。だけどゆさゆさしたくなる。ゆさゆさすると、楽になることを知っているから。だから無理にでもゆさゆさし始めてしまえば、少しずつ自分濃度が濃くなっていく快感を感じ、ゆさゆさに勢いがつく。初動はきついけど、動かし続けることは楽だ。
そのゆさゆさの快感を、ずっと鮮明に覚えておけたらいいのに、それはなかなか難しい。すぐ消えてしまうからこそ、毎日毎日「……書くかぁ」とよっこいせ状態が続く。しかし、自分濃度が薄くなる瞬間なんて生きていればどんどん訪れるから、これからも私はどんな形であれゆさゆさし続けていくのだろう。
少し絶望するけど、少しわくわくする。
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