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『脳に映る夢をみる』Visualizing Virtual World introduction

浜辺の夢

 母が亡くなったので急ぎ電車に乗った。

 ここのところかかりきりになっていたはずなのに、死に目に会うことは出来なかった。そのことへの感傷はあまりない。朝方の始発にほど近い電車と同じように、なんとなく隙間が多く、なんとなく揺れているだけだ。
 幾ら都会といえど、こんな時間では人が少ないらしい。たしか今年の元旦、これと真逆の感想を抱いた記憶がある。流石都会、こんな日でも人がたくさんいるものだと。けれど、その時と今では乗客の人数にそれほどの差異はないはずだ。僕の頭にあるイメージの中で、多いと少ないは天秤の軸足を自由に移し替えている。
 そう、あの時は冬なのに車内が妙に暑く、酷い眠気を催したものだが、夏である今この瞬間よりはよっぽど涼しかった。それでもあの熱気はある種の事実であり、結局全ては僕の頭の中の出来事だ。

 そうか、今は夏なのか。
 朝方の、辛うじて日に焼かれていない空気の匂いがした。なんとも心地良い。

 連日の疲労がたたってすっかり寝入ってしまった。

 白川夜船で昔の夢を見ていると、何時の間にか髪の長い女が目の前に座って居た。眠るように目を閉じた女が、静かな声でもう死にますと云う。
 ああ。この人も母のもとへ逝くのだ。
 僕はなんとなく羨ましく思い、何かを言おうとするが上手く声が出せない。ただ、その声帯だけが震えて、喉を通り、空気を。
「ほう」
 と、撫でた。
 驚いたように長い睫毛を揺らした女が、瞬間、眩い朝日の中に消える。残ったのは、誰もいない車内と、僕と、鏡面じみた窓ガラス。白い枠の中で無数の僕が踊る。彼らは一様にその口から白い花を覗かせて、目尻から零れた朝露がその花弁を伝った。

「これは夢だよ」
 とぷん。間の抜けた水音と共に、そんな声がする。
 そうか。
 そんな夢を見たのか。
 脳内の海を、今日も泡沫が舞い踊る。

浅瀬の窒息

 よく見る夢、というのは人それぞれあるのだろうか。
 ぼんやりそう思っても、誰かに直接聞いて確かめてみたことはない。僕らは案外他人のことを知らなくて、ゆらゆらと不安定な推論の上で、そうかもしれないを積み重ねた会話をしている。
「かもしれないと考えて、安全な暮らし」
 小学生時代の標語はこう言っていた。事故やトラブルの削減を訴えたそれは、今思うと妙に的確で苦笑を誘う。たしかに、「かもしれない」の精度が高い奴の方が人生は安全だ。相手を上手く推し量れて、損はない。
 その逆は、言うまでもないだろう。
 相手のことどころか、自分が見た夢の詳細すら掴めないまま、今日も跳ね起きる。心臓はうるさい程に脈打ち、ただ何か嫌な夢を見たのだという事実を、多量の汗と共に伝えてくる。
 覚えていないが、おそらく母の夢。その中身を上手に想像することが出来ないまま遠くへ行ったあの人を、体と心はどうしても忘れてくれないらしい。もう会えないのに。
 薄手のシャツとパンツは恐ろしいほどに濡れていて、布団から少しズレたシーツまでもがじっとりと湿っている。この夢を見始めた頃は、毎度毎度起きる度に漏らしたのではないかと怯えた。成人男性が、恐る恐る自分のシーツの匂いを嗅いで、それが小水か汗かを確かめる様は、酷く滑稽に映るに違いない。勿論、誰も見ていないのだけれど。
 いつ頃からだろうか、眠りが楽しいものではなくなったのは。強制的に脳のスクリーンが停止して、再稼働した時は身の回りの変化に動揺する。知らない間に世界が変わっているのは、とても怖い。
 かといって眠れないのが良い訳でもなくて、ずっと起きていると脳の中に何か重くて熱くてもやもやしたものが溜まっていく感覚がある。それが脳のスペースを占拠して、血管から体に回りだし、全身が火照りだす。
 かっかして、ぼぅっとする。
 やがてそれは体からも溢れだして、身の回りにもやもやの膜を作るのだ。頭の中にあったはずのぼんやりが毛穴から滲んだそれは、全ての感覚を曖昧にして、楽しいをふやかし、嬉しいを蕩かし、肌に触れるものを誤魔化し、目に映るものをまやかしに、そしておまけのように悲しいを少しだけ薄味にしてくれる。
 とろりとろりと流れ出したその膜のせいで、眠れない日が続くと僕は世界からどんどん遠ざかってしまう。
 それはとても寂しいし悲しいことだと思うのに、ぼんやりした頭はそれすら曖昧に滲ませていく。
 ああ。ここはなんて生きにくいのだろう。
 全部が遠くて、息苦しい。
 それすらも、僕の頭の中のお話だというのに。
 なんだか、まるで夢みたいだ。ならいっそ、この夢で溺れたい。

海中の自問

 べとりと、脂が口の中に流れ込む。その膜を突き破るようにして、強烈な味付けが舌に突き刺さる。濃い。同様の激しさを持つ臭気もまた僕の鼻腔を満たし、この食事体験をより立体的なものにする。
 油と塩気、そしてケチャップソースの甘味、付け合わせの糖質と更なる脂質、体に必要なものが体に必要ないほど詰め込まれたそれを必要以上に貪る。いつからだろう、食事がコミュニケーションではなく作業になったのは。一人きりのそれは味気なくて、その代替のように濃い風味のものばかりを食べるようになった。
 ハンバーガーショップの中で、少しだけ辺りを見渡す。色んな人がいる。この老若男女それぞれに人生があり、何らかの理由でこの店を選んだ。そのことに、少しだけ不安を覚える自分がいた。
 面白いもので、僕は自分に自信がない時ほど誰かと比べてしまうらしい。負けるとわかっている勝負に負けて、それで何を得るのだろうか。それとも、当たり前のように失うのだろうか。
 この店内で、僕は下から何番目にまともな人間なのだろうか。
 たぶん、この思考に意味はなくて。けれど止められないところが、ジャンクフードに少し似ている。誰だって美しくカッコいい理想の自分を望んでいるのに、まるで自傷のようにそこから遠ざかるのだ。
 健康な食事を摂れば、肌も髪も体型も美しくなるのに。
 健全な思考をすれば、心も瞳も人生も美しくなるのに。
 そうありたいと憧れるほどに、粘ついた手応えと共に指の間から逃げてしまう。それは水中の落ち葉を掬うかのようで、簡単に見える割に難しい。
 今日この店にいる皆は、何を傷つけ何を諦めてこの場にいるのかと夢想する。それとも、普通の健康で健全な人々もジャンクフード位食べるのだろうか。そこに痛みは伴わないのだろうか。ぼんやりそう思っても、誰かに直接聞いて確かめてみたことはない。聞けやしない。かといって、知りもしないのだけど。
 自分は自分のことしか知らない。
 普通に生きるってどんなものなのか、知らないから再現できない。
 けれど、心の何処かで、自分がそこまで不幸ではないことを知っている。相応に、恵まれているはずだ。
 不幸ではないはずなのに上手に生きていけない自分が嫌で、その感情を萎びたポテトと共に飲み込むと、計算されつくしたジャンクな幸福が少しだけ頭を満たす。
 もしかしたら、幸せなのかもしれない。
 嚥下した唾が、ごぽりと泡のような音を耳元で鳴らした。

深海へ

 脂物を食べると肌が荒れる。
 鏡の前でこのことを考えるのは何度目だろうか。肌が綺麗な方が若く見えるとか、その方が素敵だとか、そういった知識も実感もあるのにどうしてその通りに動けないのだろうか。
 普通の生き方の輪郭は朧気ながら掴めているのに、どうしてこの手の中にはないのだろうか。
「そうやって不幸ぶるからだろう」
 鏡はいつも正論を言う。
「正論じゃなくて事実だよ、君の中にある」
 耳に痛い事実を正論と呼ぶので、これもまた正論だ。
 目を向けると、口の中から花を生やした僕がそこにいる。花は揺れて、揺れて、時折白い花弁を青白く光らせながら、ぼんやりとそこに在る。綺麗で、気持ち悪い。許されるなら、花は口ではなくて手に抱えていたい。そのまま、その美しい花を大切な誰かに贈りたい。そういった振る舞いを出来る自分でいたい。
「そうすればいいじゃないか」
 そんなものは夢のまた夢だ。
 結局、母に渡せた花は遺影に添えるそれだけなのだから。一番初めのスタートを違えたままだから、そこから先にいけない。ゲームのチュートリアルで選んではいけない選択肢を選び続けているようなひねくれものには相応の罰則がある。
「ほら、本当はわかってる。選んでいるんだ、自分で」
 だからなんだ。
 そこを変えてしまったら、それこそ今まで生きて意味がなくなってしまう。したくない行動であっても、マイナスな行動であっても、それを百万回続けたらそれがアイデンティティとなる。それが自分で、そこを変えずにわがままを通すことはそんなに間違っているのだろうか。
「どうしたい?」
 どうしたいのだろう。考えようとすると脳が曇る。窒息寸前で酸素が足りない時のように、大切な部分が白濁していく。
「どうしたい?」
 うるさい。考えているだろう。そもそも今日に限って、何故こんなにも鏡はうるさいのか。
「溢れそうだから」
 何が。
「海が」
 どこから。
「僕から」
 僕から。
「なんで」
「「生きたいから」」
 鏡の口調に合わせるように、ひょろひょろとやせ細った情けない声が自分から出た。もごもごとした口の動きは、そこを飾る花の茎に歯をあてがい。そしてそのまま、花は下に落ちた。
 瞬間。
 喉の奥から。声が、音が、海が、溢れた。

 辺りを塩辛い水が満たす。
 なんとなく、ここが還るべき場所だという気がする。母のもとに戻り、育ってしまった花をまた種から植え直す。生まれ変わり、育み直し、見たい世界へ還っていく。水というのは、生命の源。目から溢れるはずのそれは、心の奥へと閉じ込められ、徒花を育て、そして今この口から溢れ出す。
 さあ! 還して!
 還してください! 自分をあるべき場所へ!
 汚い部屋を洗い流し、隅の埃を洗浄し、シミ付きのタオルを飲み込んで! まずはこの洗面台を理想郷へと変えてくれ。
 高まる気持ちに合わせるように、喉から、喉から、水が水が水が水が。この世界を海へと変えていき。
 そして。
 しとっ。いやに静かな音ともに、一雫の涙が目から溢れた。
 ああ。これを母の前で見せたかった。
 そう思った時、目の前にあったはずの海は消えてなくなっていた。たくさんの水、その痕跡はどこにも残っていない。汚い汚い、自分らしい部屋のまま。
 ただ、頬に残る一筋の線と、まるで塩水を飲み続けたかのようにひりひりと痛む枯れた喉だけが、そこにはある。
 現実、その中にポツンと一人。
 鏡面、その中にポツンと一人。
 鏡の中、洗面台へ落ちた花は萎れ、少し前の凛とした気配は残っていない。現実にあるそれへ目を向ければ、よれよれのタオルへと姿を変えていた。
 ごわごわとした荒い手触りを感じながら、それを掴む。顔を拭く。ほんのりと生乾きの水の匂い。そして、母が好きだった柔軟剤の香り。鏡を擦る。表面にうっすらと住み着いていた白い汚れが落ちていく。少しずつ少しずつ。
 鏡の中の自分の肌は、前より少しだけ綺麗に見えた。
 瞳の中の自分の世界は、前より少しだけ綺麗に見えた。
 それでも、住んでる世界は変わらない。きっとそれでいい。

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