言葉の温度

言葉には温度があると思う。それぞれ適温だと思う温度は違うし、今まで浴びてきた、浴びせてきた言葉も様々な温度の水だ。

そう例えるとするのなら、私は今までぬるま湯に浸かっていたのだろう。優しい家族と優しい友達に恵まれ、私の周りには優しい言葉をかけてくれる人ばかりがいた。そして当然、あたたかく心地いい温度のぬるま湯のような言葉を人にもかけていた。

ちょっと気になるところがあっても、それを本人に告げてショックを受けさせてしまわないか一旦踏みとどまって、言わないことが何度もあった。

それが当たり前だと思っていたが、まったく違う環境で育ってきた彼氏とぶつかり、その差を知ることとなった。

彼の周りでは服がダサかったら笑ってネタにするなどの、「けなし笑い」が溢れていたらしい。それをやってもやられても深く傷つかず笑って流すのが当たり前だったのだ。

笑って流してくれる相手がいて初めて成り立つジョークやイジり。前者(私サイド)からしたらこれをぶつけられるのがかなりきつい。これを冒頭で例えた温度になぞらえると、ぬるま湯で安らいでいる人に氷水をぶっかけるようなものといえる。イジりは相手が平気かどうか見極めて慎重に使わねばならない。

某ワイドショー番組で「小学校でのあだ名の禁止」に関する討論があった。年配の方が「自分の時は怪獣の名前で呼ばれていた。しかしそのおかげで耐性がついて強くなれたからあだ名もいいんじゃないか。」と仰っていた。その方はきっと立派な優しい方なので自分は打たれ強くありながら他人を気遣うことができるのかもしれない。しかし、多くの人は「人にやられて嫌なことは自分も人にしない」はできても、「自分はされても平気だが相手によっては傷ついてしまうことを人にしない」はできないのではないだろうか。

もちろん、自分と違う脳みそでものを考える他人のことを完全に傷付けないように関わることなどできない。悪気なく傷付けてしまった時はそんなことで悲しむな!と逆ギレせず素直に謝れる方が素敵だ。一人一人考え方も傷つきやすさもスルースキルも違う中で、きちんと相手を尊重して言葉をかけられるか一度考えてみてほしい。

打たれ強くなること自体は素敵なことだと思うが、現にその年配の方世代やもう少し下の世代の中にも言われて傷ついてきた人たちがいたからこそ、今の世代には悪い風習を繰り返させないように優しくなってきたのではないか?せっかくいい方向に変わろうとしているのだから、どうせならみんなで優しくなりたいものである。そもそも冷たい言葉を投げつける人がいなければ強くなくとも何も不便せず生きていけるのだ。

言葉には力があり、言葉をかける相手には命があり感情があり自由がある。できるだけ優しいあたたかい言葉をかけあえる関係でありたい。

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