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科学と文学の境界を軽やかに横断する―太田土男著『季語深耕 まきばの科学 牛馬の育む生物多様性』を読む

科学と文学―寺田寅彦の視座


2022年の『季語深耕 田んぼの科学』に続いて、新刊『季語深耕 まきばの科学』を出版された太田土男氏の巻末略歴には次のように記されている。

「1960年に職を得て農水省東北農業試験場(盛岡)、以後研究機関を転々、草地試験場(那須)・農業環境技術研究所(筑波)の研究部長、筑波大学講師(非常勤)などを歴任。専門は草地生態学。一九五八年に「濱」大野林火に師事、次いで松崎鉄之介に師事。1960年「草笛」入会、二〇〇八年「草笛」代表。」

『季語深耕 まきばの科学』

前半は草地生態学の科学者として、後半は俳人としての経歴であるが、二つのキャリアをほぼ同時期に歩み出され、それを長年同時進行されてきたことが分かる。前著『田んぼの科学』のあとがきで太田氏は、「俳句は元より文芸であり、科学ではありません。しかし、文芸は科学の裏付けがあってこそ確かなものになり、輝く、と私は考えます」と、科学者と俳人という二足の草鞋を履いてきた経験から得られたであろう思想を語っている。新著『まきばの科学』は前著の姉妹版であり、科学と文芸について、同じ思いで書かれている。本書の内容へはやや回り道となるが、まずはこの科学と文芸(文学・俳句)との関係について、少し考えてみたい。
俳壇史において「科学と文芸」の関係について論じられた機械といえば、医者でもあった水原秋櫻子(1892~1981)の評論「自然の眞と文藝上の眞」が思い浮かぶ。

秋櫻子はこの評論をいわば絶縁状として高浜虚子の「ホトトギス」を飛び出した。虚子や虚子が秋櫻子と比べて評価した高野素十の句を「自然の眞」、自らや「馬醉木」が目指す句を「文藝上の眞」と二項対立で論じたのだが、「自然」を自然科学的な見方と言い換えると、科学と文藝について秋櫻子は両者を二つに切り分け、もしくは前者が後者に対し発展段階的にあるものと認識していたともいえる。

しかし、この二分法は自明ではないように思われる。秋櫻子より一時代前の科学(物理学)者にして文学者、寺田寅彦(1878~1935)に「科学者と芸術家」(『科学と文学』角川ソフィア文庫)という文章があり、その中でこんなことを言っている。なお寅彦は夏目漱石の弟子であり俳人でもある。

ある人は科学をもって現実に即したものと考え、芸術の大部分は想像あるいは理想に関したものと考えるかもしれないが、この区別はあまり明白なものではない。広い意味における仮説なしには科学は成立し得ないと同様に、厳密な意味で現実を離れた想像は不可能であろう。

寺田寅彦『科学と文学』

この文章で寅彦は科学者と芸術家の間の区別は「あまり明白なものではない」という。また、次の個所などは、私から見れば、俳句にとって示唆的な事柄が語られているように思われた。

綜合という事がなければ、多くの科学はおそらく一歩も進む事は困難であろう。一見なんらの関係もないような事象の間に密接な連絡を見出し、箇々別々の事実を一つの系に纏めるような仕事には想像の力に待つ事ははなはだ多い。また科学者には直観が必要である。古来第一流の科学者が大きな発見をし、優れた理論を立てているのは、多くは最初直観的にその結果を見透した後に、それに達する論理的の径路を組み立てたものである。

寺田寅彦『科学と文学』

この引用部の「綜合」、「一見なんらの関係もないような事象の間に密接な連絡を見出し」とは、俳句における「取り合わせ」ではないだろうか。俳人は自分の心情や個別的な出来事への情感を春夏秋冬の季語に託したり、一句の中で「二物衝撃」させて詩情を生み出したりすることを日常的に行っている。

また、俳句をやっていると、例えば吟行をしていて、「これは一句になりそうだ」という「直観」が訪れることがある。俳人はそれを元に言葉を削いだり入れ替えたりして一句を組み立てていくわけだが、それと同じような「直観」が、大きな発見をする科学者の初期の内面でも起こっているのだろう。
またその後に続く、科学者のあり方について書かれた次の箇所でも同様に俳句と科学との符合が思われた。

勉めて自然に接触して事実の細査に執着しなければならない。常人が見逃すような機微の現象に注意してまずその正しいスケッチを取るのが大切である。このようにして一見はなはだつまらぬような事象に没頭している間に突然大きな考が閃いてくる事もあるであろう。

寺田寅彦『科学と文学』

科学実験における地道な観察こそ大発見につながるということを言っているが、ここでの「スケッチ」とは俳句における「写生」ではないか。俳句において最初に「写生論」を唱えた正岡子規は、西洋画を学んだ中村不折より聞いた絵画のスケッチからその想を発したという。のちに高浜虚子によって「客観写生」として大衆的なスローガンとなるが、〝俳句の基本は写生から〟という通念は、この科学の基礎にも似て、決して間違ったものではないのだろう。
つまり、「一見はなはだつまらぬような事象」(嘱目の客観写生俳句)から「突然大きな考」(名句)が生まれることは往々にしてあるのだ。

まきばの科学


さて、ここからは本題の『季語深耕 まきばの科学』を読んでいきたい。本書は「一章 プロローグ」から始まり、「二~五章 まきばの四季(春~冬)」「六章 馬のはなし」と六章に分かれている。「一章 プロローグ」では、「牧の歴史」「日本の草原、成り立ち」と、そもそも〝まきば〟とはどのような空間であるかを歴史的に解説してくれている。

大きく農村を鳥瞰すると、ヤマ(林地)、ムラ(集落)、ノラ(田畑)の里山が展開し、少し入ったところに草刈り場、採草地があり、更に奥山に放牧地がある、これが嘗ての農村の標準的な景観配置でした。肉や牛乳を生産する畜産でなかったために、畜力が動力に変わっていく中で草原は衰退してゆきます。それは必然的だったのです。半自然草原は使われなくなれば「山となれ」の言葉通り、山に還ってゆくしかないのです。しかし、特に昭和三十五年辺りを境に、畜産振興が勧められ牧草地(人工草地)も加わって草原は新たな展開を見せてゆきます。
森林、特に長く日本の中心であった常緑広葉樹林帯は、林内は薄暗く、時に魑魅魍魎の世界でした。しかし、草原は開放空間です。人々は新しい景観を得ることになります。

太田土男『季語深耕 まきばの科学』

ここで太田氏は、本来「農村の標準的な景観配置」の一部としてまきば空間があったことを明らかにする。また元々「牛馬は主に使役に使われ」ていたが、時代の変化に伴ってまきばは農村から切り離されていく。
また森林の魑魅魍魎の世界と対比的な開放空間であることは、人々の心に明るい光を差し込ませ、俳人たちにより開放的なポエジーをもたらせることにも繋がっただろう。

さて、本書の二~六の各章の始めにはカラー写真が挟み込まれ、また途中でもモノクロ写真が挿入されているので、読者はさながらまきばの世界に降り立ったように読み進めることができる。二章「まきばの春」は「山焼き(野焼き)」から始まる。

草原の春の風物詩は山焼き(野焼き)です。代表的な山焼きは山口県の秋吉台、熊本県と大分県にまたがる阿蘇、久住でしょうか。二月中下旬から三月上旬にかけて行います。古い草を焼くことで草生を整え、灌木や樹木の侵入を防ぎ、草原が山に還ることを押しとどめる目的があります。草原が森林へ還る過程を追ってみると森林に向かうに従って土の肥沃度が増しています。草原を焼くと窒素は空中に飛散してしまいます。火入れは肥沃化をある程度抑えることで草原の状態を維持する技術でもあるわけです。

太田土男『季語深耕 まきばの科学』

現代社会を生きる私たちの大半は、経済は右肩上がりに上昇し、世の中は発展して便利になればなる方が良いと思っている。同様の論理で、土は肥沃になればなる方がいい、と思う。しかし、自然と人間が長い年月にわたって共生してきた里山やまきばの論理はその通りではない。あえて「肥沃化をある程度抑える」ことが、この空間を維持していくために大切なのである。
また太田氏は「山焼き」について、「あれほどの猛火の中で、動植物たちは大丈夫なのでしょうか」という素朴な質問にも答えている。

地表ないし地下は殆ど温度は上がりません。従って地上部に芽のある灌木や樹木には被害を及ぼしますが、この頃まだ地表や地下にある草本の芽や種子には影響を及ぼしません。飛べるものは飛んで逃げますが、ネズミなどは地下で火をやり過ごします。焼くことで草原を維持する、遠く延々と受け継がれてきた智恵なのです。
人工的に火をつけて山焼きをすることに罪悪感が無くはないが、肥沃化をコントロールすることで生き物の持続可能な空間が維持されているのがまきばであることがわかる。なお、この節には次の俳句が引用されている。
生きものを走らす山を焼きにけり  野見山ひふみ
大阿蘇の天日冥め山を焼く  岸原 清行
村あげて焼きし野に月のぼりけり  石﨑 宏子

太田土男『季語深耕 まきばの科学』

一句目の「生きものを走らす山」には、山焼きの行われる地に暮らしていた鳥獣たちへの想像力がある。これは科学の眼とも共通しているだろう。科学者は「温度」や「地表」、「地下」のなどの緻密な観察によって真実に迫ろうとするが、俳人は人の営み、生きもの、山という三者の関係性への想像力によって一句の世界を成立させていく。

二、三句目は「天日」「月」という、山の上の天空に目線が移動される。そこには山焼きを眺める人間が山や火に対して抱く畏れが投影されている。人間や生きものを包み込むこの自然世界の大いなる恵み、ここには、俳人だけでなく、自然の真理を探求する科学者とも共鳴する感覚があるのではないだろうか。

地球温暖化時代の俳句


さて本書には「牛飼の今」と題して、いま直面しているまきば環境の現代的な危機について解説されている。その大きなトピックは地球温暖化である。

牛は反芻動物で四つの胃を持っています。この内の第一胃をルーメンと言います。胃全体の八割を占める大きさです。ここには沢山の微生物などがいて、その力を借りて食べた繊維を消化しやすいようにしています。何度も嚙み返し、時間を掛けて消化します。その過程でゲップが出てメタンを排出するのです。メタンは二酸化炭素CO2の二五倍程度の温室効果があるといわれます。六〇〇キロの成牛で一日一頭五〇〇リットルほどに及びます。また、家畜からのメタンの排出量は全世界で放出される温室効果ガスの四%にもなるといいます。さらに、糞尿からは亜酸化窒素(N2O)が発生します(農研機構二〇二二年)。これらのガスの家畜からの排出量を如何に低くすることが出来るか、その対策が模索されています。
団栗を拾ひ温暖化のはなし  太田 土男

太田土男『季語深耕 まきばの科学』

気候変動時代の現代に、季節や自然をその主な題材としている俳句愛好家たちは、もっともっとこの問題に関心を持つべきだと私は思う。『まきばの科学』『田んぼの科学』は、まきば・田んぼという空間から、俳句アタマに科学的な自然の見方の風を吹き入れてくれる格好の書である。


「コールサック118号」より転載


太田土男 『季語深耕 まきばの科学 ―牛馬の育む生物多様性―』
「コールサック」(石炭袋)118号


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