科学と文学の境界を軽やかに横断する―太田土男著『季語深耕 まきばの科学 牛馬の育む生物多様性』を読む
科学と文学―寺田寅彦の視座
2022年の『季語深耕 田んぼの科学』に続いて、新刊『季語深耕 まきばの科学』を出版された太田土男氏の巻末略歴には次のように記されている。
前半は草地生態学の科学者として、後半は俳人としての経歴であるが、二つのキャリアをほぼ同時期に歩み出され、それを長年同時進行されてきたことが分かる。前著『田んぼの科学』のあとがきで太田氏は、「俳句は元より文芸であり、科学ではありません。しかし、文芸は科学の裏付けがあってこそ確かなものになり、輝く、と私は考えます」と、科学者と俳人という二足の草鞋を履いてきた経験から得られたであろう思想を語っている。新著『まきばの科学』は前著の姉妹版であり、科学と文芸について、同じ思いで書かれている。本書の内容へはやや回り道となるが、まずはこの科学と文芸(文学・俳句)との関係について、少し考えてみたい。
俳壇史において「科学と文芸」の関係について論じられた機械といえば、医者でもあった水原秋櫻子(1892~1981)の評論「自然の眞と文藝上の眞」が思い浮かぶ。
秋櫻子はこの評論をいわば絶縁状として高浜虚子の「ホトトギス」を飛び出した。虚子や虚子が秋櫻子と比べて評価した高野素十の句を「自然の眞」、自らや「馬醉木」が目指す句を「文藝上の眞」と二項対立で論じたのだが、「自然」を自然科学的な見方と言い換えると、科学と文藝について秋櫻子は両者を二つに切り分け、もしくは前者が後者に対し発展段階的にあるものと認識していたともいえる。
しかし、この二分法は自明ではないように思われる。秋櫻子より一時代前の科学(物理学)者にして文学者、寺田寅彦(1878~1935)に「科学者と芸術家」(『科学と文学』角川ソフィア文庫)という文章があり、その中でこんなことを言っている。なお寅彦は夏目漱石の弟子であり俳人でもある。
この文章で寅彦は科学者と芸術家の間の区別は「あまり明白なものではない」という。また、次の個所などは、私から見れば、俳句にとって示唆的な事柄が語られているように思われた。
この引用部の「綜合」、「一見なんらの関係もないような事象の間に密接な連絡を見出し」とは、俳句における「取り合わせ」ではないだろうか。俳人は自分の心情や個別的な出来事への情感を春夏秋冬の季語に託したり、一句の中で「二物衝撃」させて詩情を生み出したりすることを日常的に行っている。
また、俳句をやっていると、例えば吟行をしていて、「これは一句になりそうだ」という「直観」が訪れることがある。俳人はそれを元に言葉を削いだり入れ替えたりして一句を組み立てていくわけだが、それと同じような「直観」が、大きな発見をする科学者の初期の内面でも起こっているのだろう。
またその後に続く、科学者のあり方について書かれた次の箇所でも同様に俳句と科学との符合が思われた。
科学実験における地道な観察こそ大発見につながるということを言っているが、ここでの「スケッチ」とは俳句における「写生」ではないか。俳句において最初に「写生論」を唱えた正岡子規は、西洋画を学んだ中村不折より聞いた絵画のスケッチからその想を発したという。のちに高浜虚子によって「客観写生」として大衆的なスローガンとなるが、〝俳句の基本は写生から〟という通念は、この科学の基礎にも似て、決して間違ったものではないのだろう。
つまり、「一見はなはだつまらぬような事象」(嘱目の客観写生俳句)から「突然大きな考」(名句)が生まれることは往々にしてあるのだ。
まきばの科学
さて、ここからは本題の『季語深耕 まきばの科学』を読んでいきたい。本書は「一章 プロローグ」から始まり、「二~五章 まきばの四季(春~冬)」「六章 馬のはなし」と六章に分かれている。「一章 プロローグ」では、「牧の歴史」「日本の草原、成り立ち」と、そもそも〝まきば〟とはどのような空間であるかを歴史的に解説してくれている。
ここで太田氏は、本来「農村の標準的な景観配置」の一部としてまきば空間があったことを明らかにする。また元々「牛馬は主に使役に使われ」ていたが、時代の変化に伴ってまきばは農村から切り離されていく。
また森林の魑魅魍魎の世界と対比的な開放空間であることは、人々の心に明るい光を差し込ませ、俳人たちにより開放的なポエジーをもたらせることにも繋がっただろう。
さて、本書の二~六の各章の始めにはカラー写真が挟み込まれ、また途中でもモノクロ写真が挿入されているので、読者はさながらまきばの世界に降り立ったように読み進めることができる。二章「まきばの春」は「山焼き(野焼き)」から始まる。
現代社会を生きる私たちの大半は、経済は右肩上がりに上昇し、世の中は発展して便利になればなる方が良いと思っている。同様の論理で、土は肥沃になればなる方がいい、と思う。しかし、自然と人間が長い年月にわたって共生してきた里山やまきばの論理はその通りではない。あえて「肥沃化をある程度抑える」ことが、この空間を維持していくために大切なのである。
また太田氏は「山焼き」について、「あれほどの猛火の中で、動植物たちは大丈夫なのでしょうか」という素朴な質問にも答えている。
一句目の「生きものを走らす山」には、山焼きの行われる地に暮らしていた鳥獣たちへの想像力がある。これは科学の眼とも共通しているだろう。科学者は「温度」や「地表」、「地下」のなどの緻密な観察によって真実に迫ろうとするが、俳人は人の営み、生きもの、山という三者の関係性への想像力によって一句の世界を成立させていく。
二、三句目は「天日」「月」という、山の上の天空に目線が移動される。そこには山焼きを眺める人間が山や火に対して抱く畏れが投影されている。人間や生きものを包み込むこの自然世界の大いなる恵み、ここには、俳人だけでなく、自然の真理を探求する科学者とも共鳴する感覚があるのではないだろうか。
地球温暖化時代の俳句
さて本書には「牛飼の今」と題して、いま直面しているまきば環境の現代的な危機について解説されている。その大きなトピックは地球温暖化である。
気候変動時代の現代に、季節や自然をその主な題材としている俳句愛好家たちは、もっともっとこの問題に関心を持つべきだと私は思う。『まきばの科学』『田んぼの科学』は、まきば・田んぼという空間から、俳句アタマに科学的な自然の見方の風を吹き入れてくれる格好の書である。
「コールサック118号」より転載
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