殺し屋のカルマ 後編

 黒田は、黒いミニワゴンから降りると、通りから路地へと入っていった。
 服装は、青い作業着だった。
 路地の両脇には、小さな工場や一軒家が立ち並んでいる。辺りはすでに暗くなっていた。
 しばらくすると、二階建ての建物が見えてきた。
 小さな印刷工場だ。打放しコンクリートの壁は、ところどころくすんでいる。取り付けられたライトが、その壁面を照らしていた。
 黒田は、一階の扉から中へと侵入した。

 昨日の午後、黒田と岡崎は児童公園のベンチで、隣り合って座っていた。
 「今回のターゲットだ」岡崎はジャケットから写真を取り出し、黒田に手渡した。
 黒田は、その写真をジッと眺めた。
 「場所は、K市にある印刷工場だ」岡崎はその住所を口頭で伝えた。「時刻は19時」
 「屋内でやるんですか?」と黒田は尋ねた。
 「そういう指示だ」と岡崎は答えた。
 「その中に、青い作業着がある」岡崎は、黒田に紙袋を手渡した。「そこの出入り業者のものだ」
 「了解」と黒田は言った。「依頼者は?」
 「そいつの妻だ」岡崎は面白くなさそうに答えた。

 黒田は、工場の中を歩いていた。
 カビと埃の匂いが辺りに漂っていた。
 電気はついておらず、二階からの灯りが、かすかに階下に漏れていた。
 印刷機械が、亡霊のように立ち並んでいる。どれも小型で、古びた機械だ。

 黒田は、階段で二階まで上がった。
 上りきったところの右手に、扉がある。
 扉の磨りガラスから、中の灯りが漏れていた。
 黒田は作業着のポケットから、自動拳銃とサイレンサーを取り出し、それらを組み合わせ、安全装置を外した。
 そして、扉を開けた。

 社長室と事務室が一体になったような部屋だ。
 手前の部屋には、スチールの机が五台合わさってある。パソコンが三台ほどあり、書類やファイルが乱雑に置かれている。
 奥の部屋には、横長の机の上にパソコンが二台置かれていて、その向こうに男が座っていた。
 ここの社長だった。小太りで眼鏡をかけていた。
 「おい、なんだお前は?」男が立ち上がった。「業者を呼んだ覚えはないぞ」
 黒田は、銃口を男の胸に向け、二回発砲した。
 男は前のめりに机の上に倒れ、そのあとで床に崩れ落ちた。その拍子にパソコンも一台、音を立てて床に落ちた。
 黒田は机の裏手に回り込んだ。
 男は仰向けに倒れ、痙攣していた。口から血を流していた。
 黒田は銃を男の腹に向け、さらに二回発砲した。
 男は動かなくなった。
 男の周囲に血溜まりが広がっていった。

 黒田は工場を出ると、路地を抜け、通りを北へと向かって歩いていった。
 しばらくして黒いミニワゴンが背後からやってきて、路肩に停まった。
 黒田は後部座席に乗り込んだ。
 「どうだ?」岡崎が車を発進させたあとで、黒田に尋ねた。
 「やりましたよ」黒田はシートに沈み込んだ。
 黒田は窓の外を見た。商店街や街灯の灯りが、次々と後方へと走り去っていく。
 頭に浮かぶのは、日比野の顔だった。悲しげな顔をしていた。

 黒田と日比野は、自然公園にいた。
 「日比野」と黒田はベンチに座る彼女に、ココアの缶を手渡した。
 「ありがとう」と彼女は微笑み、両手で包み込むようにそれを持った。「暖かい」
 黒田も微笑み、彼女の隣に腰かけた。自分のココアの缶を開けた。
 二人の前には湖があり、遠くを鴨の群れが泳いでいた。
 空はどこまでも高く、そして透き通っていた。
 「ずっとこうしていられたらいいのに」彼女は、湖を眺めながら言った。
 黒田は黙っていた。
 「どうしたの?」日比野が黒田の顔を、覗き込きこんだ。
 「いや……」と黒田は答えた。「なんでもないよ」
 《いつまでこうしていられるのだろう?》とと彼は思った。

 その帰り、黒田と日比野は、住宅街を歩いていた。
 黒田が彼女を、家まで送るためだった。
 陽はすでに落ち、辺りはすっかり暗くなっていた。
 「何かあったの?」と彼女は尋ねた。
 黒田は何も答えなかった。
 「ねえ、言ってみて」と彼女は続けた。「言うだけでもラクになれるでしょ?」
 「本当になんでもないんだ」
 黒田は足早になり、彼女の先を行く。

 日比野は立ち止まり、黒田の背中を少しのあいだ見つめていた。
 そして彼女は小走りで、彼を追いかけた。かすかな胸騒ぎを覚えながら。
 

 「冗談だろ」黒田は、目を丸くして写真を凝視していた。
 「冗談じゃない」と岡崎は答えた。「次のターゲットはその娘だ」
 二人は、いつもの児童公園のベンチに座っていた。
 黒田の持つその写真には、日比野の姿が写っていた。どこかの街角で撮られたものらしかった。
 「お前の彼女らしいな」と岡崎は言った。
 「どうしてそれを——」黒田は岡崎を見やった。
 「上から聞いた」岡崎は素気なく答えた。
 「どうして上は、それを知ってて俺に——」
 「お前が一番詳しいからだろ」と岡崎は答えた。
 「無理なら構わないぞ」と岡崎は続けた。「他のヤツがやるまでだ。なんなら俺が——」
 「だいじょうぶです」と黒田は岡崎を睨んだ。「俺がやります」

 「依頼者は?」と黒田は尋ねた。なぜそのことに、今まで気が回らなかったのだろう?
 「その子の大学の同期らしい」と岡崎は答えた。「なんでもその子をストーキングしてたらしいな」

 翌日の早朝、黒田と日比野は、青いセダンに乗り、高速道路を北に向かって走っていた。
 その車は、レンタルしたものだった。
 黒田はハンドルを握りながら、日比野に今の状況と、自分の本当の仕事について話した。
 「そんなこと突然言われても、信じられないよ」日比野は、黒田のほうを見て言った。目がかすかに震えていた。
 「でも事実なんだ」黒田は、前方を見据えたまま答えた。
 日比野も口をつぐみ、前に向き直った。
 二人のあいだに、沈黙が降りてきた。
 聞こえてくるのは、車の走行音とエンジン音だけだった。
 「どうしてわたしが——」日比野は前を見つめたまま言った。蚊の鳴くような声だった。
 「あいつだ」と黒田は答えた。「あの日、駅前のカフェにいた男だ」
 また沈黙が続いた。
 黒田は運転に集中し、日比野はうつむいていた。
 彼女の手は、かすかに震えていた。
 そのセダンは、高速道路をさらに北上していった。


  
 二人を乗せたセダンは、仙台で高速道路を降り、しばらく市内を走ったあとで、ビジネスホテルの地下駐車場に入っていった。
 黒田はフロントでシングルの部屋を取った。余計な金は、なるべく使いたくなかった。
 部屋に入ると、日比野はシャワーを浴び、すぐにベッドに潜ってしまった。
 黒田もシャワーを浴びたあと、銃を二丁、机に向かって手入れした。
 そのうちの一丁は、日比野に渡すものだった。
 黒田はそれが済んだあとで、彼女のほうを見やった。
 彼女は背中を向けて、横になっていた。微動だにしなかった。
 《起きてるのかもな》と黒田はぼんやりと思った。

 翌朝、黒田と日比野はビジネスホテルを出て、セダンに乗った。
 車は高速道路に入り、また北に向かって走っていった。
 黒田はハンドルを操作しながら、日比野に銃の扱い方を口頭でレクチャーした。
 安全装置の外し方から、相手を確実に仕留める方法論まで。
 「聞いてるのか?」黒田は、彼女のほうに目をやった。
 「どうして、こんな説明を受けなくちゃいけないの?」彼女はうつむきながら言った。「人殺しの方法なんて」
 「状況が状況なんだ」黒田は、前方に目を向き直した。「万が一のためだ」
 説明が済んだあとで、二人のあいだに沈黙が降りてきた。
 黒田は運転に集中し、彼女はうつむいたままだった。
 《お互い、疲れてるな》黒田は小さく吐息をついた。

 二人を乗せたセダンは、青森で高速道路を降りた。
 町中をしばらく走ったあと、黒田は海沿いに旅館を見つけた。二人はそこに宿を取った。
 日比野は、部屋に備え付けの風呂場でシャワーを浴びたあと、やはりすぐに布団に潜ってしまった。
 黒田は窓辺の椅子に腰を下ろし、夜の海を眺めていた。今のところ、特にすることもなかった。
 「ごめんね」と小さく声が聞こえた。
 黒田は、日比野のほうを向いた。
 彼女は、背中を向けて横になっていた。
 「ごめん」と彼女はまた呟いた。
 「どうして謝るんだよ」と黒田は言った。
 彼女は何も答えなかった。
 黒田は吐息をつき、また海のほうに目をやった。

 翌朝、日比野は熱を出していた。
 黒田は、フロントから体温計を借り、彼女の熱を計った。38度を超えていた。
 「ごめんね、こんな時に」彼女は布団の中で言った。
 「無理もないよ」と黒田は、彼女のそばに座って言った。「今日はとりあえず、ゆっくり寝ていればいい」
 昼ごろ、黒田はフロントに頼んでお粥を作ってもらい、部屋で日比野に食べさせた。卵入りのお粥だった。
 彼女はそれを半分ほど食べたあとで、静かに寝息を立てた。

 午後、黒田は町に買い物にでかけた。食料品と日用品を買うためだった。備えがあまりなかったのだ。
 日比野を部屋に一人で残しておきたくなかったが、今のうちに買っておく必要があった。彼女の体調が回復しなければ、しばらくあそこに留まることになるからだ。

 ドラッグストアとスーパーで買い物をしたあと、黒田は海岸沿いにあるカフェに寄った。無性にコーヒーが飲みたかった。
 今のところ追っ手の気配はなかった。気分転換も必要だった。
 店に入ると、黒田は窓際の席に案内された。
 熱いコーヒーを飲みながら、窓の外を眺めた。
 空は白い雲にまんべんなく覆われ、海面はくすんだ色合いをしていた。
 カモメの群れが空を飛んでいた。
 《何をやっているんだろう、俺は》と黒田は思った。《俺はどこで、道を誤ったんだろう?》
 高校のときか? 中学のときか? あるいは、それよりも前か?
 黒田は吐息をついた。それは、わかりきったことだった。
 あの日だ、と思った。あの日、銃を手に取ったときだ。

 夜、黒田は、日比野にお粥を食べさせたあとで、彼女の熱を計った。
 微熱まで下がっていた。
 「明日、熱が下がっていたら出発だ」黒田は、彼女のそばに座って言った。
 日比野は布団の中で小さくうなずく。「わたしたち、どこまで行くの?」
 「さあ……」と黒田は言った。「行けるところまでだ」
 「行けるところまで……」彼女は、天井を見つめながら小さく呟いた。

 日比野が静かに寝息を立てると、黒田は窓辺の椅子に座って、夜の海を眺めた。
 《行けるところまで?》黒田は自嘲ぎみに笑った。 今にも泣き出しそうな顔だった。
 《そんな場所、決まってるじゃないか……》

 明け方、黒田は夢を見て目が覚めた。
 中空から海岸を見下ろす夢だった。海岸に二つの人影がある……。
 黒田は、布団から上半身を起こした。部屋はまだ薄暗かった。
 隣を見やった。日比野の姿は布団にはなかった。
 黒田は立ち上がり、カバンの中を漁った。
 銃が一挺、消えていた。
 黒田は着の身着のまま、部屋を出た。
 廊下を駆ける。
 《そういうことだったのか》と思った。

 黒田は浜辺を走った。転げそうになりながら。
 波打ち際には、人影があった。
 日比野だった。背中を向け、浅瀬に立っていた。
 その向こうには、朝焼けが広がっていた。まるで燃えるようだった。
 「日比野」と黒田は言った。
 彼女は、黒田のほうを振り向いた。
 微笑んでいるように見えた。
 右手には、何かが握られていた。
 銃のように見えた。
 彼女はその手を上げ、それをこめかみに当てた。
 「日比野!!!」と黒田は叫んだ。
 パァンッと乾いた音が、空に鳴り響いた。
 彼女は、海に崩れ落ちた。
 黒田は一瞬立ち尽くしたあと、日比野のもとへ駆け寄った。
 浅瀬で彼女を抱きかかえた。
 もう、息をしていなかった。

 その海岸沿いの道に、黒いミニワゴンが停まっていた。
 彼らの様子を見届けたあと、車はその場から、静かに走り去っていった。

 黒田は、自宅のアパートの部屋にいた。
 ベッドの上で、仰向けになっていた。
 カーテンは締め切られ、部屋は薄暗かった。
 手元のスマートフォンには、岡崎からの留守番電話とメッセージが何件かあったが、それらが再生されたり開かれることはなかった。

 日比野が死んでから、すでに三週間が経っていた。
 黒田はアパートの部屋から、一歩も外に出ることがなかった。
 食料や日用品が尽きたら、ネットの通販サイトで買えばよかった。
 《だけどもう、その必要もないな》黒田は、天井をぼんやり見つめながら思った。
 黒田はベッドから起き上がり、枕元の自動拳銃を手にとった。そして、ベッドの縁に移動した。
 銃の安全装置を外し、そのスライドを引いた。無機質な音が部屋に鳴り響き、薬室に弾丸が装填された。
 黒田は銃身を、口の中に入れた。鉄の味が舌の上に広がる。血の味だ。
 日比野の顔が一瞬、浮かんだ。悲しげな顔をしていた。
 黒田は、引き金に力を込めた。

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