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東洋哲学と私「陽明学」の王陽明に時を超えて出会った〜

 社会人人生を振り返って、順風満帆なことなんてなかったな、と思う。
粉飾決済の後、会社が解体されて産業再生機構にお世話になったり、ようやくよくなってきたな、と思ったら社会を賑わすような事件が起きたり、、、
そこで、教育を担うというのは、自分の肚力が問われることだった。
人前に立つというのは、あり方が問われる。
ビジネススクールで学んだスキルや知識は役に立ったけど、その土台となるところがグラグラしてるとあやうい。

2016年、何かに導かれるように東洋哲学の扉を叩いた。
丸の内の慶應MCC「agora」の「陽明学」
初回の講座は本当にドキドキだった。こんな私が受けても大丈夫なんだろうか。経営者の方や、リタイアされた方、人生の先輩だらけのなかで
ただの会社員(女性)はかなり異質だった。
でも、みんなで声をそろえて漢文を読むなんて学生の時以来で新鮮だった。

田口先生は寛容で、あたたかくて大きな存在だった。
師として、こういう存在の方がいてくださることはすごくありがたかった。大木の影で休ませてもらっているようなリラックス感。

最初の講義で王陽明の人生について学んだ。
老子や易経やその他の講座で、あんな風に丁寧に一人の人のことを学ぶことはなかったから、やはり「陽明学」という学問を学ぶというのは王陽明という人の生き様を学ぶことが大事だったのだろう。

学者として学問だけを追求した人ではなく、日々の体験や実践する中で身につけてきた中から「真理」をといた人だったんだなぁと思う。
実践の哲学。

10代までのあり方が晩年に影響したという。
ゆったりした田園風景の文化文明の栄えた場所で生まれ、11歳で都会に移り最先端で育つ。
父は政治家だが母は詩人。
そんな恵まれた家庭で聖人賢者の道を志したいとモンゴルの騎射に熱中する10代。
豊かな環境で育ち、自然も最先端も知り、体力もあり、父の政治力と母の文化人としての教育を受ける。

朱子学や詩歌、仏教、道教など、溺れるほど懸命に学び、その後役人になったのだが、29歳で落馬し吐血、31歳まで肺結核で療養。

死ぬか生きるかの中で、仏教、老荘思想、道家に溺れ、
「自己成長をはからないと無様な人間になってしまう。もっと自分を練って磨く精神的な充実が大切」と、真正面から自分に向き合い、生き方がさだまったら、なんと病気が治ってしまったらしい。
病は気からというけど、自分を整えることで病を乗り越えていったんだなぁ。

そして、34歳、いよいよ聖人賢者の学を教える立場になったが、危険人物だとして宦官劉瑾の怒りに触れて投獄されたり、鞭打ちの刑罰を受けたり、反論して島流しにあったり。

それでも、自分の境遇を嘆かず、これを愉快にするにはどうしたらいいか?と考えたそう。境遇に負けるのはなさけない、、、なんて、かっこいいなぁ。
辺境の地の人たちの生活を豊かに、実生活の改善の指導をしていったことで、次第に和が出来ていった。その人たちの生活をいかに良くしていくかを必死にやっていく。境遇に愉快さを持って打ち勝っていったところ、そんな陽明にほれこんでくれる島の人たちがどんどんと広がっていった。
(陽明先生とか言われてたんだろうなー。)
そうやって島の人たちに触れていると、「野蛮だとか言われていたけれども、そうじゃない。人ってそもそも生まれながらに素晴らしいものを持っているのだな」という風によいところが見えてくる。
「本当の自分は光」
そうよ、そうよ、人はみんなそもそも美しい!!

そして、人間の最もすばらしい生まれながらに持っている「知」にぶちあたった。
知の中に行があり、行の中に知がある「知行合一」に気づいた。

なんてことをやっていたら、ようやく認めてくれて島流しから戻される。

その後は、武将としてあちこちに転戦させられ内乱をおさめてまわる。
病気の体で吐血しながらも、暴徒の中で、孝行を説いていったそう。
境遇をプラスにして鍛錬の場に変えて行ったこと。
やっかいな敵は自分の心の中」と軍人たちに自分を高めることが大切なことということを、死ぬか生きるかの戦場の中で講義が行われていたそう。
自己の最善を他者に尽くすこと。
それを行動で表し続けていった一生

48歳の時に、戦いの中で「到良知」の説を心得し、「事上磨錬」を深めていく。日々の中にこそ、自分を磨くものがある。部屋にこもって学ぶことだけが学問ではない。何事も五合目まではいける。たくさんの山をゼイゼイ言いながら登っていくこと。職業人としながら人間性を鍛えようとした。人間の苦悩を日常のチャレンジとして払い退けていった。
本気で生きてきたかを問われているのだ。
どんな時でも揺るがない、自分を信じらえるように。

52歳の時に、誹謗中傷を受け、反発が深まり、53歳で「伝習録」54歳で「抜本塞源源論」を書いた。
しかし56歳の時に反乱の平定に、病を押して向かうことになり、57歳で「わが心光明なり、また何をか言わん」と言って亡くなったそう。

陽明学の始祖として知られる王陽明も、その生涯は病苦と迫害との闘いだったこと。
支配階級からは異端視され、迫害を受けたけれど、それにも屈せず信念を貫いた陽明は人々に教えを広め、最後まで志を忘れなかったことが、後々、後世にまで残っていったのだということ。
その生き様はどこまでも、真摯であったのだと知る。

私自身は、その頃、組織の中での立ち上げと立て直しをしてきて「なぜ、私ばかり」と思ったこともあった。これでもか、これでもか、と難題がやってくる。その中で逃げたくなることもたくさんあった。
やりぬくには腹力が必要で、それは誰かがやってくれるわけじゃなかった。
自分自身が
「それでもやるのか」と問い、やる、と決めることでしか、改革は進まない。
不自由の中にあるから自由がわかる。
ピンチがあるからチャンスに変えられる。
自分に対する信頼感は世の中に対する絶対的な信頼からくる。

そして、人は言ってることじゃなくて、行動を見ている。人はその人の生き様についていくのだと、実感していたことが王陽明によって証明されたように感じた。

天に期待されている人は、とことん苦難を味合わされ辛酸をなめさせられ、その中で心が動き、苦しみの中で小さな喜びを大きく感じられるようにし、初めて悟りに近づく。
そうすることで自分の本当の意味での思い通りの人生を歩む事が出来るようになっていく

天地万物一体の仁

王陽明の言葉に、胸がスーッとする。
ありがとう〜ありがとう〜ありがとう〜と、勇気づけられた。
人はそもそも備わってる素晴らしいものがあるから、それを実践していくことが学びである(到良知)とか、感情と思考と行動を一致させる(知行同一)とか、シンプルに本質をつく爽快感があった。

自分の中で一致させてないことは人には伝わらないと思ったし、人は言ったことじゃなくて行動を見てる、それこそ「生き様」を見てるんだな、と思ったら、私は一体何をしたいのか、会社が言ってることをそのまま伝えるのではなく、何の意味があるのか、その未来はどうなっていくのか、そこまで含めて自分の言葉で話そう、と決めた。

 「事上磨錬」という言葉を教えてもらったのも陽明学だ。
ひとりひとり自分の感じたことや先生への問い、それに対しての応えてくれる問答の時間があった。みんなが素晴らしい感想や問いを先生に投げかける中、私は日々の起こっていることなどつたない話をした。
すると、「それこそ、事情磨練ですよ」と言ってくださった。
日々の中で起こることや、日々の中でこそ自分を磨くことが出来る。山に篭って修行するのではなく、学びは日々の中にあるのだ、というのが陽明学の教えだという。

人は胸の中に各々成人あり。
自ら信じないで埋めてしまっているが、人間であれば各々生まれながらにして持っているもの。何をしても良知はなくなるものではない。
雲が陽を覆い隠すが如し

松下幸之助さんが、経営とは宇宙の哲理と人間把握と言われたそうだけど、陽明学は、「どう生きるのか」を説いてくる。
頭で理解したものと体験したのは違う。
良知の探究には終わりがない。
自分の中にある見栄や外聞を取り去っていく過程で「良知」が現れてくる。

いろんなことがあっても、その中で学ぶことができる。
生きるということ自体が、すなわち修行であり、己の中にある美しいものに気づくための旅なのである。

昔のノートを読み返して、ジーンとする。
2016年の私、8年前に学んでくれてありがとう。
今、また違う響きを持って自分の中にしみ込んできた。

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