書くことについて語る時に僕の語ること


媒体こそ転々としたが、僕はいつだってこの10年近くものを書くということをしてきた。その都度、毎度自作のSSを書いたり、その時素直に思うことをエッセイとして書いてきたつもりだ。

誰かに頼まれたわけでも、広く誰かに見られたくて書いていた訳でもない。僕にとっては常にものを書くという行為はそれらのものが自分にとって大きな意味を持つ前に整理するということを意識していた。

例えば、僕が書いてきた過去についての記事は時間をある程度置いて今だから思うことという形で書き記している。
より時間が経ってしまうと記憶が曖昧になってまた違う理解や解釈や書き方をしてしまう気がしていたし、その出来事と距離が近過ぎると客観性に欠けた書き方になっていただろう。
物事を全て正確に書き記すことはとても難しいが、ある程度それと距離を取ってその時に書くべきこととして僕の中で昇華していく必要を感じた時にここを利用している。

その記憶に痛みが伴わず、かと言ってグリップを失わず質感を保っているうちに、そして時間や他の経験によって簡単に処理してしまわない限られたその瞬間に僕の中できちんとものにしきりたいのだ。

23歳になろうとしていたこと。そして、身を置く環境が変わったこともこのnoteを書くに至った理由の一つだ。他にも幾つかのポジティブな理由があり、幾つかのネガティブな理由があった。ただ、前述の通り過去の出来事がある程度どうでもいいことになり、向き合わず忘れていくには余りにも人生に刺さりすぎていることに気づいた以上は書く必要があった。

ものを書くという自発的な行為は全て僕の為にあり、間接的に誰かにとっての有益な記事になれていればいい。その程度の心意気で書いている。
誰のプライバシーを侵害することも無く、架空の人物名に替えて、なるべく僕にしか見えていない景色について書いているつもりだ。
それでも記憶は確実に遠ざかっていくし、それは日に日に顕著になっていく。昨日まで思い出せた1年前のことも、一年後には同じ量の記憶を持っていられるとは限らないし既に多くの肝心な記憶を失っているかもしれないと不安になることもある。それでも、記憶と向き合い今の自分がそれについて解釈し、文章にするという過程で少しでも数年後の自分の記憶を再現する為のきっかけにでもなればいい。

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