「星新一風に」


 エヌ氏もう病床にあり、24時間起き上がることもなかったが、何でもできた。
 少し前までは右手のひとさし指で操作していた網膜に映る画面を、今は目線一つでそれを操っていた。目の前に広がる自室に愛するボッコちゃんがいて、彼女に頭で考えたことを伝えると、何でもやってくれるのだ。
 ちょっと寒いから室内温度を上げて。外が騒がしいから、四重窓の完全防音設定を発動して。ビバルディの「四季」が聴きたい。なつかしい「タイタニック」が観たい。脳内にある懐かしいあの人の、あの映像を映して。今日は久しぶりに「山椒のたっぷり効いた鰻が食べたい」すると、その情報が昔のWiFiの30倍の速さでボッコちゃんを介して部屋の中の機器へ流れ、匂い、味、食感、栄養分、全てが実際口から食べた時と同じように、エヌ氏の体内へ脳内へ送り込まれるのだ。
 全てが満たされた世界。久しぶりに体を動かしたくなり、百メートルを疾走し、クロールでプールを30往復し、ロードサイクルで素敵な風景を眺めながら走る。少し疲れた筋肉の疲労情報もしっかりと脳内へ送り込まれる。
 今のエヌ氏にはできないことは何もない。自分の人生を思ったがままにコントロールできるのだ。
 でも、美味しい料理にはほんの少しのスパイスが必要なように、エヌ氏にはコントロールできないほんのわずかの思い残しもある。これだけは残しておいたほうがいいと彼自身納得しているからだ。成就できなかった彼自身の「初恋」。なんでこんなものをいつまでも引きずるのだと思いつつ、心の底でこれだけは消してはいけないと心の声が命じるのだ。
 だから今でも、頭で考えたことを伝えると何でもやってくれるシステムの中で、唯一コントロールできない「それ」がエヌ氏の中に今でもある。

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