「不文律」(昭和文学風に)3


「兄貴はこの場にはいないんだが、ついざわついていたもんで引き留めることもしなかったんだ。それはこっちの手落ちだが。またいつこうして落ち着いて皆が話せる場を持てるかどうか分からないので、婆さんの葬式の後にこんな話をするのも気が引けたんだが、まあ、話を聞いてもらうことにする」
 達雄は、一語一語言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。
「良助のことなんだが。実は・・・」
 兄弟で一番下の良助は、十数年前から東京に近いある精神病棟に入院していた。
 別段、これといった凶暴性を孕んでいる訳ではなく、明彦の中では、幼い頃に接した記憶の中では優しい叔父、といった印象の方が色濃かった。よく父親の実家へ遊びに行くと、大型のスケッチブックだの、その頃の明彦には手の出なかった24色の箱入りの絵具だの、その他今は彼の記憶の外に漏れだした様々なものを温和な表情を浮かべながらくれたものだった。
 いつ頃からおかしくなり始めたのか、それは定かではない。ただ、最初に勤めた国鉄を何の理由もなしに2、3年でやめてから、移る職がことごとく長続きしなかった。二番目の兄の二郎でさえ、未だに同じ状態を繰り返してはいるのだし、このあたりの事情は別段精神病に関わることだとは考えられないが、ささやかな兆候の一つではあったらしい。どうにも周りに合わせることができない因子があったようだ。
 やがて、何の職につくでもなく、一日家の中でボーッと過ごすことが多くなった。テレビを見るでもなし、本を読むでもなし、奥まったうす暗い部屋でただボヤッと座っているのである。
 そして時折外へ出る時には、近くの親戚の家、自分の兄や姉の家を訪れるのである。訪れるといっても、家の中に上がることはせず、玄関先や庭先でボンヤリ突っ立っているだけであった。
 そんな様子に皆がうすら寒さを感じ、また近所の手前もあって、母親を含めて兄弟で話し合い、一度きちんと診てもらったほうがいいという結論になり、そしてその結果、国鉄線の沿線にある精神科を備えた総合病院に入院することになった。 
 ところがその後も、良助の親戚廻りは絶えなかった。スリッパを履いたままで病院を抜け出し、前と同じように兄弟達の家の玄関先でボーッと突っ立っていた。症状からして、隔離する必要にあらず、という病院側の措置が兄弟達にとっては災いしたのだが、こんなことでは前と同じだと、特にひどく親戚廻りの被害を被った姉の道子が無理やりに両親を説得して、良助を今の病院へ入れてしまったのである。
「今までは、婆さんの年金や恩給でどうやらまかなってきたが、でもこうなってはもうこちらだけで賄っていくのは苦しい。市から補助が出るといってもたかが知れてる。お互いにあんな弟を持ったのは苦労の種だが・・・」
「二郎兄さんは、どうするんだ・・・」
 いつも血気盛んな男兄弟の一人が、怪訝な表情で声を荒げた。
「みんなも知っている通り、兄貴はあんな風だし、手取り八万かそこらの給料で、それを承知で出せというのは、酷だと思うんだが。今の職だってどうなるかもだしな」
「うちの人がいる前で、何もそんな弟の話をするなんて・・・」
 四女の君江が表情を崩した。
「あたしは、二郎兄さんが出さない限り、ビタ一文出しませんからね、ええ、出すもんですか」
 君江は嫁ぐ時、先方に一番下の弟のことは黙して語らなかった。それは当然であっただろう。語る必要のないことで、これ以上ない縁談を壊したくないと思うのはむべないことだ。
 君江の旦那は大柄な身体をこわばらせ、君江の隣りで茫然として一点を見つめていた。

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