見出し画像

コロナ禍とスナップショット

 昨年、まさにコロナがあっという間に世界を覆ってしまった頃、「緊急事態宣言」で時間がたっぷりあるからと思い、スナップショットはこれからどうなっていくのかということについて少し考えてみたのだが、文章としてしっかり整理し残していなく、かなり断片的なつぶやきでしかなかった。唯一、日本カメラ8月号「緊急座談会・アフターコロナの写真表現について」で飯沢耕太郎さん、鳥原学さんと少し語り合っただけに過ぎない。

 その席上で、結びのように私が披露したのは椹木野衣さんのネットインタビュー記事(注1)のタイトル「立ち戻るべきは孤独の創造性」という言葉だった。

 細かくその記事を解説するまでもないが、「アートフェス」に代表されるように昨今は人を集める場として賑やかさが増している一方、これまでアートは個人体験の中で進められてきたというところに注目し、コロナ以後は個人となって孤独のなかでモノを作り続けいく機会が増えるのではないかというのが確か椹木さんの論点だったように思える。

 この「孤独」ということに関していえば、コロナ禍であろうとなかろうと、モノをつくり表現していくことの過程において「必須」のものであることは誰もが経験上わかる。写真表現という括りで考えれば、例えば写真を撮るために延々と長時間街を歩くだけでも「孤独」だ。もちろん山岳写真家が重たい機材を担ぎ山に登ることも苦行や修行のように「孤独」だろう。「孤独の創造性」は創作活動の原点にして永遠のテーマへと向かっていくはずだ。しかし、「コロナ禍とスナップショット」という狭い範囲のうちに命題を掲げてみると、もう少し具体的、現実としての社会構造の変化や個人の意識の変化がそこに重なってくる。スナップショットを仕事として取り組んできた私にとっては、これはどうやら「あなたの死活問題でもあるでしょ!」と突きつけられているようなもので、このコロナ以前とたった今、そして先の座談会ではないが「アフターコロナ」について相対的に捉え、考えてみる価値は大きいと思える。

1   マスクの街、すれ違う個性の行方

マスクと表情

 マスクの街が普通になってしまった。マスクをして街に出なくてはならない。電車にもそうして乗ることが義務のようになってしまった。「マスク会食」というのもある。これまで花粉症を発症していない人にとって、マスクは余計なものであっただろうが今やなくてはならないものだ。「なくてはならない」ということは身体の一部になりかけているのかもしれない。鼻と口を覆うモノではなく、むしろ眼鏡やコンタクトレンズに近い自然に装着できてしまうものといえそうだ。

 ただ、ここでしっかり意識したいのは、マスクは口元をしっかり隠しているということ。人間の顔で「目は口ほどにものをいう」ではないが「目」の印象は大きい。では口、あるいは口元はどうかというと、実はこれもまた同じように「ものをいう」のだ。不思議だが、マスクをしている初対面の人がマスクを外してこちらと相対すると、その人の「目」だけ見えていた時の印象と大きく変わることがわかる。口の大きさ、形、唇の形、色といったものが加わるからだろう。 (男性で髭を生やしていると、これまた大きく印象も異なる。) そしてそれがその人の「表情」の基本となっていく。つまり「目」だけでは根本としての顔の「表情」にはなり得ないのではないか。いくらその人に「眼力(めじから)」があったとしても、マスクをしていることで「表情」は完全には見えないのだと思うしかない。あるいは、マスクをすることで「表情」をうかがわせるスキを与えないでいられると考えても不思議はないのではないか。

画像1

(それでも、このチンドンの女性は「笑っている」だろうことは想像できるが。)

 このマスクの有無にもう少しこだわって考えてみよう。

 鬼海弘雄さんの写真

 まだ「コロナ」のニュースが遠い中国武漢の話でしかないように思われていた時期の少し前、2019年。ニッコールクラブ会報に「ニコンZ50」の新製品解説記事を書かねばならなく、歳末から新年にかけて東京の街を何日か撮り歩いた。その折に撮った写真を今見ると、わずか1年ちょっと前とは思えないほどの「むかし感」がある。マスクを付けていないことの違和感というよりも、「人はこうしてマスクをせずに歩いていたのだ」という遥か昔の時代の記憶のように感慨深いものが押し寄せてくるのだ。しかし、背景の街並は現在そのもの。このパラドックス感はなんだか狐に騙されているような気持ちにもなってくる。マスク一枚がまさに狐の面だというつもりもないが、マスクを付けて歩く都市、街といったものが俄かに意味を帯びてくる。

05のコピー_00001

0449_00001のコピー_00001のコピー_00001

撮影2019年12月16日

  ストリートスナップショットをずっと撮り続けている写真家も多いが、私は特に「路上」だけにこだわらずこれまでスナップショットを撮ってきた。特に下町あたりで撮ってきたスナップには、都心を歩く時の表情とはちょっと異なるような弛緩した、あるいは穏やかといっていいのか、それほど気張らずに町にいるといった風情の人々が写ってきていたと思う。ここでは「お面」をつけなくてもいいんだ!という (よい意味での)緩みのようなものが働いていたのかもしれない。それはもちろん歓迎すべき状態であるし、だからこそ写真を撮りたくなってくる。しかし、カメラをはっきり前にすれば誰もがちょっと構える。その構えの程度も個性になる。そして「個性と風貌」は「物語」となる。故鬼海弘雄さんの浅草寺で写した人物の写真群はそれを如実に語っている。

画像6

 今、その浅草寺の境内にやってくる鬼海さんが撮りたくなるような人々はかつてに比べ少なくなってしまった。コロナ以前はインバウンドのアジア、中国の人々が着物を着て散策している風景ばかりで、鬼海さんは多分そういう人々には全く関心を示さなかっただろう。それでもたまにフラっと幻のように通り過ぎる、浅草っぽい人がいるのだが、このコロナ禍は、当然みなさんマスクをしている。もし今、鬼海さんが浅草寺にいたら、そんな状態で赤い壁の前に立ってもらうということはしないだろうという、私なりの確信がある。コロナ禍のずっと前に鬼海さんが「最終章」としたのは、浅草の変化によるものもあったはず。さらに昨年から風景は一変してしまったのだから。「そこに個性はないよ!」と鬼海さんが呟きそう。

画像6

撮影2019年12月18日

マスクを付けた新たな街角

 マスクをすることで他人や自分の飛沫を防ぐという目的はあるが、コロナ以前にも、マスクは単に表情などを読み取られないよう、マスクに隠れるような意図で使う若い女性もいたように記憶している。逆にテレビに出てきたマスク芸人という女性は、マスクをすることで女優や歌手の顔真似をしていた。どちらにせよ、マスクは匿名性につながる一つの「出来事」のように思える。

 都市を歩くことの、ちょっとした喜びはこの匿名性であり、ストリートを疾走しスナップショットを撮っている写真家はそこにシャターを押す衝動を表現せずにはいられない。そのことでの反発や誤解も生まれたりする。匿名性があったとしても、そこに情報として「個人」が記されていくという認識に立てば「肖像権」というややこしい問題も生まれる。その間の事情や考え方や権利については、私も執筆に加わったアサヒカメラ(昨年休刊)の別冊「肖像権時代の最新スナップ撮影術」を参考としてご覧いただきたいが、実はさらに今新たなテーマも生まれてしまったのだ。つまり、「マスクの街はどうなんだ?」という局面。これはいずれ未来の「写真史」に記されるような「出来事」になりうるものではないか。

画像5

 このマスク、2020年の春先には品薄状態で大騒ぎになった。ネットの中では高額に取引されているような跡も見られたし、実際店先から一時的に消えていた。マスクがあれば、この際もうどんなものでもよいのだということも手伝い、グレーや黒といった、およそ日本人にはこれまであまり支持されなかったものまで市場に流れ、飛びついた。しかし一方でやはりマスクは「白」と決め込んだ人も多く、日本製のものがとんでもない値段をつけられ陰で取引きされもした。

 しかし、いつしかマスクをつけることが日常的に当たり前のようになってしまったあたりから、俄然、デザイン (絵柄)を凝らしたものが並び始める。政府のある大臣もいまだに奇抜なマスクをつけて国会で答弁している。巷の子どもたちも「鬼滅の刃」の「炭治郎&禰豆子」の絵柄マスクを嬉しそうにつけている。マスクにも個性が必要という発想というよりも、マスクのモノ化とともになにがしかの「変化」をささやかな楽しみとして受け入れたものと解釈できる。ただ面白いことに、例えば今日、街を歩いてそうした一風変わった絵柄のマスクをしている大人と何人すれ違ったかと数えてみると、不思議にたいした数がカウントされない。多分、絵柄マスクの人は大勢そこにいたはずなのだが、圧倒的に「普通のマスク」の人とすれ違っているような気がする。それを無理矢理「匿名性」と結びつけてしまうのはちょっと危険かもしれないが、タレントさんや芸人さんは別として、普通は外でマスクをつけて自分を特に印象付けたり個性をアピールしようという考えには至らないと考えてもいいだろう。むしろ逆に「普通のマスク」に包まれていることで、自分であることをことさら意識させずに、「みんなと一緒感」のもと、帽子を深くかぶるように簡単に「隠れています」状態で居られることの方の安心感は大きい。経験的にそう思えてくる。その方がいろいろと都合がいいからだ。

画像7

撮影2021年3月26日  マスクをつけた人の群れがここでは一つの塊のよう。

 「表情」を読み取られないという以上に、私たちはすでに記号のような隠れ蓑に身を包んでしまったのかもしれない。そんな街角で撮るスナップショットは、とりあえず現時点でコロナ以前とは違うという認識は多くの写真家が持ちえているだろう。それでも時代の記録として「マスクの街」をそのまま受け入れて撮るしかないと誰もがいうのではないか。私もそう思う。しかしやはり何か違和感がある。第一こちらもマスクをつけてファインダーをのぞいている。「そこに愛はあるんか?」というコマーシャルではないが「そこに向き合っているという意識はあるのか?」と問われると、コロナ以前に比べ、写真を撮るこちらもスッポリとカメラ背後に隠れつつあるのだといわざるを得ない。単にマスク効果?だけではない。「緊急事態」や「自粛」、「距離」や「密」という言葉が自然に何らかの規制を強いるように、スナップショット時に一歩踏み込むことを躊躇させるのだ。そして表情の読み取れない被写体に対しての妙なブレーキ。これはなんなのか。近年毎度とりだたされる「肖像権」の問題とはまたちょっと違うような気がする。

画像8

撮影2021年1月30日 マスクをつけた若者のグループ。表情が全く読み取れない。

 「距離」を意識するということは、スナップショットにおいては大事な行動様式の一つである。木村伊兵衛のスナップショットを「写された人々の消息を気にさせる写真」評したのは柏木博さん (注2)だが、そこでは木村伊兵衛が人々に近づいていく時の間の取り方のようなものがイメージとして語られている。人々が自然に振舞っていられるほどの木村の動きがそこにあったということだろう。それは理屈ではなく、一つの「態度」としてスナップショットにおいて特に大事な点ともいえる。そしてこの距離を詰めたくなってくる写真家の「万感やるかたない」衝動もまた写真ならではの表現といえるものだ。それらを躊躇させてしまう、このコロナ禍の街角のスレ違いや出会い。しかし、それでも同じようにストリートを疾走して矢継ぎ早に正面から、至近距離で、がんがん構わず撮っています!というスナップシューターもいるかもしれない。その是非はともかく、「記録」として黙々と撮っていますというのは確かにカッコいいが、この時代の微妙な人との距離感を「記録」であれ「表現」であれ、自然に示すこともまた写真ならではの素朴な役割なのではないか。そう考えると、躊躇し、ちょっとブレーキがかかるシャッターもまた悪くはないだろう、むしろその心情にこそ時代のリアリティも生まれるのだと開き直ってみたくなる。

1640_00009のコピー_00001

撮影2020年6月16日

マスクを外したさらなる街角

 しかし問題はここからだ。コロナが収束したとして、世の中に平穏が戻ってきたとき、マスクが外れたとする。その時、私たちの社会は安堵感と開放感に包まれるだろう。そう祈りたい。そんな時、「スナップショット」の話などどうでもいいことかもしれないが、写真家としてはどうにも気になってしまう。私たちの「個性」がほぼ普通に表情として再び露わになっていく時、その「スッピン状態」は歓迎されるべきものなのか否か。長い時間を経て慣れ親しんできた匿名としての「マスク」がそこにないとしたら、果たしてどうなっていくのか。先の鬼海さんの写真集の帯ではないが、「むき出しの存在感」に戻ったとき、人はより用心深くなっていくように思えるのだ。そしてそこに新たな約束、ルール、条例、法律などが加わるとすると、さらに社会は「個室化」の方向に向かいそうだ。表情を覗かれた! と思われるような挙動に対してより神経質な街角になっていくのではないか。「俺をジロジロ見るなよ!  訴えるぞ! 」。そこではスナップショットすらもはや違和感そのものをもたらしていくのではないか。正直、そんな不安と危惧を感じる。例え、木村伊兵衛のような動きとシャッターであったとしても。

画像9

撮影2020年10月26日

 マスクを外した無防備な街角、監視カメラ、SNS、個人情報、権力、政治的立場、、、、、、社会は今以上の速度で様々なバリアを張り巡らしていくだろう。その時、「スナップショット」はすでに大昔の写真撮影の方法だと失笑されるならまだしても、カメラを素朴に街に向けるだけで一人の犯罪者のように扱われていくとしたら、それこそ「そこに愛はあるんか?」と声高に、私たち写真家が叫ばなくてはならなくなるだろう。そうならないことを、このコロナ禍の最中から祈りたい。

追補

 この章を書いている途中に以下のようなマスクの発売を知ることになった。なんと「コミュニケーションマスク」(注3)。それこそ仕事上これは都合がよいだろう。私もレクチャーなどの折に使ってみたい。しかし、このマスクをしたまま街を歩くというわけにもいかないような気がする。歩く人たちが全員このマスクならまだしも。あえて街中で表情をそっと隠せている時代なのに、、、、、

 マスクにこだわるわけでもないが、この5月末から始まったワクチン大規模接種会場の初日を報じる記事の見出しを掲げておきたい。

『「早くマスク外したい」始発バスで大規模接種会場へ急ぐ高齢者』。

スクリーンショット 2021-05-24 10.49.48


注1   椹木野衣に聞くコロナ禍のアート。立ち戻るべきは孤独の創造性
インタビュー・テキスト 杉原環樹 編集:宮原朋之(CINRA.NET編集部)

注2   朝日新聞1992年5月1日 文化欄『「木村伊兵衛の世界」展』

注3  透明マスクで表情を伝えるフクビマスクプロジェクト/フクビ化学工業株式会社

次の章執筆予定あり(掲載時期未定)

                               大西みつぐ

 



 

 

古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。