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私が選ぶ木村伊兵衛のこの一枚

物売りがやってくる町 

木村伊兵衛「我が家の窓より」1958年7月29日

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 夏の盛りに木村伊兵衛が自宅の窓から撮った写真。階下の路地に玩具屋のリヤカーが見える。季節を考えれば、金魚屋のほうが似合いそうだが、下町の往来はそんなに都合のよいものではない。実にさまざまな人々が現れては過ぎていく。

 私の生まれた深川の片隅の町もまた、木村伊兵衛の下谷同様、昭和30年代は実に面白い人々が行き来していた。大正琴を流暢に弾くおじさん、大きな体格の女装男性、手品師、南方帰りの元兵士、アルコール中毒の老女。それぞれ戦後のある時代を経てそこに流れてきたような個性的な人々だった。そして同時に毎日のように物売りも町を巡っていた。豆腐屋、鋳掛け屋、紙芝居といった定番はもちろんのこと、飴細工師、きびだんご売り、粘土細工屋など子ども目当ての商売も多かった、かすかな記憶の中にはリヤカーにつながれた黒テントの「移動映画館」というものもあった。定番の物売りとは違い、その町に再びやってくる保証がないおじさんも多かった。そういう一種の儚さが私たち子どもにとっては魅力だったが、わずかばかりの小遣いを握らせる母親たちにとっては心配の種でもあった。

 ちょうどこの写真の子どもと同じ歳ぐらいか、ある日私は近所の路上でひとりのカメラマンに写真を撮られた。薄っすら覚えているおじさんの姿はハンチングとロングコートで、首からブラ下げた二眼レフをこちらに向けたように思う。彼はいわば「街頭写真師」。後日現像済みの小さな写真を抱えて町にやってきた。私たちが寄っていくと「家に帰ってお金をもってきな」といった。30円だったのか50円だったのか忘れたが、急いで家に帰り、母親に金をせがむと決まって叱られた。労働者が多く住んでいた私の町は、誰もがその日を懸命にいきているような暮らしぶりだったから「写真一枚」を簡単に子どもが手にする余裕などなかった。いや高嶺の花は写真だけでなく、近所の駄菓子屋通いも、それなりの順列が私たち子どもの間にできていたようだ。そして、そのまま時代は高度成長へと走っていった。

 木村伊兵衛の写真に戻ろう。撮影された1958年の7月にこだわりたい。この移動玩具屋に並べられた「お面」の数々。そこに残念ながら「月光仮面」が見当たらないのだ。
 テレビ映画「月光仮面」(原作川内康範)の放映開始はこの年の2月。私たち子どもは熱狂した。父親の眼鏡を無断で拝借し、風呂敷をマントに、頭に白いタオルを巻き、町を疾走した。その人情味あふれるヒーロー像に私たちは朧げな未来を夢見ていた。この写真の子どもの視線は、その当然いるはずの「月光仮面」を探しているのではないか。きっといる。だって左端にはトレードマークの「サングラス」も売っているから。彼はそう思っているに違いない。よく見ると日陰に入り込んでいる「店主」は月光仮面同様の白装束だが、ちょっと夏の暑さにやられたのかうんざりした顔をしている。ヒーローになれそうにないおじさんがそこにいる。この両者の関係こそが昭和のよき時代そのものを描いている。そして、それをのんびりと窓から眺めている木村伊兵衛がいる。

 移動玩具屋はたぶんこの下谷ではたいして売れず、汗をふきながら隅田川を渡り、私の町までやってきたのではないか。

初出 アサヒカメラ2016年11月号

古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。