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【ミトシャのアートハント】 vol.3 フェルメールと17世紀オランダ絵画展

 三兎舎のミトシャです! 今、東京にはフェルメールの作品が2点も存在しています。1点は先日、国立新美術館で鑑賞してきました。

 もう1点は、上野の東京都美術館に。会期が押し迫っているので、駆け込みで行ってきました〜🐇🐇🐇

Here we go!

フェルメールと17世紀オランダ絵画展

フェルメールと17世紀オランダ絵画展
会期:2022年2月10日(木)~4月3日(日)
会場:東京都美術館 企画展示室

フェルメールと17世紀オランダ絵画展 展覧会開催概要より

レンブラントとオランダの肖像画

 図録とは順番が異なりますが、今回も順路に沿った形で展示テーマごとに展覧会の感想をお伝えしてゆきます。紹介している絵画は、所蔵館である「ドレスデン国立美術館」の各絵画のページにリンクを貼っています。そちらと併せてご覧ください。

 展覧会は肖像画に迎えられてはじまります。
 まずわたしが目を引かれたのは、その装いが豪奢なこと! 描かれている人物の洋服の襟のデザインがどれも凝っています。

 ピーテル・コッドの『家族の肖像』では、少女たちの着ている服装がとてもかわいらしい。

家族全員が1640年代にアムステルダムで流行していた高級な衣服を身につけている。さらに子どもたちは、様々な意味をほのめかす「持物」(アトリビュート)のようなものを携えている。たとえば女児が手にするサクランボはキリストの受難を、前景のリンゴは救済と贖罪を意味している。

フェルメールと17世紀オランダ絵画展図録 p.90より

 かわいいだけにとどまる絵画というのは、あまりなくて、ここでも描かれているひとつひとつに意味があるようです。宗教的な意味合いのものはやはり多くて、全体を鑑賞してもそれは多く感じられました。
 純粋に構図やタッチ、絵の雰囲気に惹かれるというのは、もちろん大事なことです。それでも、描かれているものを紐解くと、違う情景が見えてきますから、それはやっぱり絵画をみる醍醐味のひとつだといえるでしょう。
 そして、このブースの肖像画には、あるキーワードが登場します。

肖像画と密接に関連するジャンルに、いわゆるトローニーがある。それはほとんどの場合、無名のモデルたちの性格研究であって、特に興味をひく顔の特徴、尋常ならざる身体表現、風変わりな衣装に焦点を当てているため、古典的な肖像画の形式とは一線を画している。

フェルメールと17世紀オランダ絵画展図録 p.87より

 トローニーはレンブラントとその周りの画家によって、よく制作されたそうです。フェルメールだと『真珠の首飾りの少女』が代表的だと思います。これから肖像画を観るときに、どんな企図があるのかも読み解けるようになったらもっと絵画を観る視点が広がりそうです。
 今回、レンブラントの作品では『若きサスキアの肖像』が展示されていました。この絵画が制作された約1年後に、レンブラントはこのサスキアと結婚をしたそうです。恋人を新しい技法で描くこと、世間や自分に挑むような気持ちがあったのではないか、と想像します。
 新しい表現を見た当時の人たちがどんな風に感じたのか、とても気になります。恋人の肖像ということで、それはより煽られたのじゃないかな、と思います。現代に、その作品群が残っているということは、レンブラントの試みは成功したことになると思います。
 もし、今、わたしたちがそれに近い感覚を感じるような絵画表現はどんなものなんだろう、と考えます。なんだろうね、きっとそれは時間を感じるもの、4次元以上のものになるのではないかなあ、と思います。
 それはさておき、わたし、レンブラントの絵画を観ると、いつも鼻の奥が煙たくなります。何かの記憶に関することなのか、ブラインドテストをした時にも感じるのか。またレンブラントの作品を観る機会に試してみようと思っています。

複製版画

 今回、展示されていた版画は原画のあるもので、版画の作家はアルバート・ヘンリー・ペイン。原画の魅力はもちろんあるのだけれど、版画の、そのソリッドさはとてもかっこいいなあ、と思いました。カラーの原画をそのまま複製できる現代の技術もよいけれど、版画という技法によって手元に置ける喜びというのは、確かにあっただろうな、と思います。
 スティール・エングレーヴィングという技法で描かれた線は、どこまでもシャープ。その細かい描写力に惚れ惚れとしてしまいました。
 版画のこともこれから詳しく勉強してみたいです。
(そして、今、少し困惑していること。
 原画もこの後、観ることができたと思っていたけれど、それってわたしの勘違いだった? 図録に載っていないのだけれど、ハブリエル・メツーやレンブラントの絵画をカラーで思い出している。
 これだから、自分の記憶は頼りにならない。メツーの作品は確かに似たモチーフのものは確かにあったのだけれど、まったくいっしょというわけでもないし)

レイデンの画家ーザクセン選帝侯たちが愛した作品

 この章で、わたしが好きだった作品は、ヘラルド・テル・ボルフの2作品。『手を洗う女』と『白繻子のドレスをまとう女』。

『手を洗う女』でも、様々なモチーフに意味が込められています。

手を洗う行為は一般的に穢れのなさ、つまり無垢を示すが、ルーメル・フィッセルの『寓意人形』(1614年、アムステルダム)にあるエンブレム「一つの恋愛は別の恋愛を伴う、ちょうど片方の手がもう片方の手を洗うように」とも関わりがあるのかもしれない。

フェルメールと17世紀オランダ絵画展図録 p.62より

 このように解説されるけれど、わたしは新約聖書を思い出していました。

そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」

マタイの福音書27章24節 新約聖書 新改訳第3版より

 描かれているサテンのドレスの質感がとて高級。それに比べて、手を洗う様子や部屋の感じが、裏方を表しているように見えます。それで、いろんなことの想像の余地が出てきます。起こることに対して、自分に責任はない、ということを表していると観ると、手を洗う女性は何かに臨む手前のように見えます。

『白繻子のドレスをまとう女』は構図と配色がとてもかっこいい。こちらのドレスの質感もとても素晴らしいです。
 この絵画はベーコンの絵を思い出すなあ、と思っていました。なんとなく不穏な雰囲気があるのです。そこがとても魅力的です。
 風俗画は自分の好みなんだな、とあらためて感じました。いろんな寓意が込められていて、それを紐解きながら観るのはとても楽しいこと。
 また、フェルメールのそれぞれの作品が、その時代から離れていないことも了解できました。17世紀オランダのトレンドに則していたのだって。

《窓辺で手紙を読む女》の調査と修復

 この展覧会のメインとなります。わたしもこの絵画を観ようと出かけたのでした。観るまで、とても不安でした。修復前の方が自分は好きなのじゃないかって。でもきっと、多くの人も同じように思っているのではないかと考えます。キューピッドによって、あの静謐さが損なわれてしまうのじゃないかって。

 実際に観て、やっぱりフェルメールの作品だなあ、と思いました。確かに静謐さは失われたと思います。それでも、手前のカーテンや織物のタッチにすごく感動します。そうそう、絵画なのに、この解像感! それがわたしにとってのフェルメール絵画の魅力なのでした。
 その一方で、このようにも考えました。『真珠の首飾りの少女』の背景が黒1色でなかったら。あの背景に何か描かれているのだとしたら。
 修復もされている作品なので、そんなことはないと思いますが、そんな風に考え出すと、本当に作品が残るということは奇跡のようなものじゃないかと思います。それと同時に、クオリティがあるなら、必ず残るんだ、と期待もします。

『窓辺で手紙を読む女』は、主題のはっきりした絵画に変貌しました。修復前の方が好み、という気持ちは相変わらずあります。手紙の内容をあれこれ想像する楽しみがあったから。それでも、修復後の作品もフェルメールらしくて好きだなあ、と思います。寓意を読ませることは、とても魅力だと思います。

 修復の過程の紹介もありました。やはり、修復されると絵画の明瞭度が上がるので、それだけで、ぐんと魅力的になります。他の絵画も修復が入ったら、より素晴らしくなるのだろうなと思いながら観ていたものがいくつもありました。
 修復はとても根気のいる作業。
 それを目指す人もきっといるだろう、なんとなく日本人に向いていそうだな、と思いました。

オランダの静物画ーコレクターが愛したアイテム

 静物画のところには、だまし絵もラインナップされていました。

 SNSで見かける、写真と見紛う絵に比べれば、絵だよね、と思うけれども、額に飾られていなければ分からないのかも、とわたしは感じました。
 静物画に関しても、写真があるからそれでいいんじゃないの、と思う人もいるかもしれません。でも絵画には純文学的に飛躍できる要素があるので、そこが大きな違いだとわたしは思っています。もちろん写真でも多重露光やチルトシフト、画像加工まで含めれば、大きな変化はできますが、完全な嘘を表現しにくい。もし、それができるのなら写真表現もぐんと伸びるような気がします。そういった技術があったらぜひ教えてください。写真の純文学、とても興味が惹かれます。
 絵画は、すでに描かれるものなので、どうしても飛躍します。わたしは、もしかしたら、絵画のその部分に惹かれているのかもしれません。

オランダの風景画

 オランダの風景画というと、やっぱり『デルフトの眺望』を真っ先に思い浮かべてしまいます。今回、鑑賞した絵画の中に、それに匹敵するものがあったとは言えないのですが、単純な風景ではないものがやはりあって、それが観るものを楽しませます。

ヤーコブ・ファン・ライスダールは、手付かずに見える森や山々を描いているが、そこには寓話的なニュアンスが内包されている。

フェルメールと17世紀オランダ絵画展図録 p.109より

 こちらの絵は、動物に意味を持たせているのかと思ったら、枯れたブナの木が「儚さと死を示して」いるらしく、そうすると、描かれている動物たちの躍動が違った風に見えてきます。画家がどんなことを考えて絵画を描くのか、わたしはダイブしてそれを知覚できるものになりたい。
 そして、そういう小説を書きたいなあ、と思いました。うん、やっぱり時代を経てきた創作物に、素通りできるものはないのじゃないか、と考えます。わたしも、その栄光に浴したい、と願わずにはいられません。

聖書の登場人物と市井の人々

 ここにはカナの婚礼をモチーフにした絵画がありました。

 わたしは、イエス様が最初の奇跡を起こしたこの場面が大好きです。だって最初の奇跡が、水をぶどう酒に変えることですよ! 神様とお酒なんてミスマッチに思える! それで、そのぶどう酒を飲んだ婚礼の客がこういうのです。

言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

ヨハネの福音書2章10節 新約聖書 新改訳第3版より

 こういうエピソードがあるから、わたしイエス様が好きなんです。きっとみなさんが思うよりもイエス様は人間のことをよく知っていて、でも罪を犯さず、ただただ神様であるということ。わたしたちに、日常の喜びもちゃんと与えてくださること。
 そういうことを知って、わたし嬉しくなっちゃうんだ。
 そんなことを考えながら絵画の鑑賞に戻ります。
 メトロポリタン美術館展の時もあったのですが、聖書のエピソードを、その時代、今回でいえば17世紀のオランダの風俗に合わせて描いているということ。
 そう考えると、21世紀の今の聖書の描き方があってもいいのじゃないかと思っています。絵画に限らず、音楽も小説も。その中でも音楽は、ヒップホップの讃美歌があったりするので、一番時代を取り込んでいるかも。ミュージカルもそうだね。もちろん小説もできると思うのだけれど、どちらかというと通奏低音のように響いているので、もっと大胆なアプローチがあってもいいかもしれません。
 やっぱり、絵画を観ながらも自分の表現方法に思いを馳せているのでした。

おわりに

 フェルメールを観に行ったのに、思いがけず、自分の信仰告白に仕方を考えさせられました。新しく面白い福音の伝え方を考えてみたいと思います。
 そして、フェルメールの作品は、やっぱりとても好きでした。絵画の手前から、ぞわぞわと引き込まれるのです。
 残りの会期はわずかですし、とても混み合っていますが、都合のつく方は、ぜひ足を運んでもらいたいと思います。

 ではでは、また次の機会に! ミトシャでした。

サポートいただくことで、ミトシャがたくさん甘いものを食べられたり、たくさん美術展に足を運べるようになります!