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なぜみとん今治は「今治愛に欠ける」と指摘されるのか その13

前回の続きです。
>>インターネットやSNS、また、一過性のイベントで荒木君に出逢った人は彼に対してどういう感情を抱いているのだろうか、と思うことがよくある。

という内容である。

新しいムーヴメントを起こし、ビジネスを手掛けている人を

「なんかカッケー!!」

と思うことは男ならよくあることであるし、私もそうだった。
実際、軽めのビジネスや副業には何度もチャレンジしている。
その中にはうまくいかず消滅したものもあれば、地味~にゆる~く続いているものもある。
そして、多くの志高い人と出会い、著名な方と交流することができて、更には多少の金額を生み出すことができているものもある。
これら両方は何よりの財産だ。

しかし、荒木君がネットや一過性のイベントを通して築いている県外の方との関係性は

『濃いようで希薄』な気がしてしようがないのだ。

お互いに想い・ココロザシを深く共有しているようで、何かお互いがお互いに機を見て「便乗するため」だけに存在しているような、そのような関係性しか見えてこないのだ。

ネット上で見える部分、そして、彼らが結果としてとしてクリエイトした部分、そして、その後の関係、その3つで判断しているのだが、皆さんはいかがだろうか。

今年の銀座春祭りでは才能溢れる若者を招いて何かするようであるが、イベントを通じて何か今治に爪痕を残してくれると共に、荒木君と彼が今後も永続的な関係となることを切に願う。

今、荒木君が昨年、崇拝するように触れていたはあちゅう・イケハヤ氏は今、ネットで強烈な勢いで叩かれている。
しかし、その両者を擁護している「信者」も一定数いるようである。
その信者の方は、筋の通った理屈でフォローしているのではなく、もはや感情論でフォローしているような印象がぬぐえない。
荒木君も、地方を盛り上げようと頑張っている30代!ということで色々な方にとっては食いつきが良い立場なのは間違いない。
しかし、大事なのはその後、人心が離れられないような振る舞いであると思う。

奇しくも、私の過去のノートで「荒木君の意識高い系の学生のノリが避けられている」と評した記事が30近くいねを頂いた。
ここで大事なのは、単語として、「意識高い系の学生≠意識が高い学生(2,30代の若者)」ということである。
「高い系」と揶揄される意味を、荒木君はどこまで理解しているだろうか。

今治の街中に様々な移り変わりやイベントがある限り、そしてFC今治がある限り、
みとん今治は情報サイトとして常に一定数のPVを今後も稼ぎ続けるでしょう。

なぜならばサイトというのは人に知られず、スマホ1つで黙ってクリックできるから。。
情報収集源として認知されることは、もはやほぼ達成されているような気がします。

しかし、それだけが荒木君の描いている理想像ではないでしょう。

が、何かが大幅に変わるという予感は残念ながらありません。
Twitterでも似たようなことをつぶやいたけれど、イベントの企画というのは数か月前から企画して、関係者に下交渉して、少なくとも1か月前くらいからは市民に告知して・・・といったプロセスがある。
そして、この【四国・今治】地方なら「フリーペーパー」や「新聞」「ケーブルTV」といった広告媒体も大きなウェイトを占めるのだが、荒木君からはほぼSNSやWEB戦略のみという「都会スタイル」な印象が否めない。
イベント情報を載せてもらうとなると「広告費」がかかるが、もし「取材される側」に立つことができたらその部分が「0円」となり、イベントのアピールもできて一石二鳥だろう。

そこの部分で「3月ということもあり、バタバタしてなかなか行事の詳細を詰めれていなかったり、告知が不十分になっていますが・・・」と荒木君がつぶやいてしまったら、それはもう、、プランニング力(計画性)という素質・適性を疑わざるを得ないと言っても過言ではないでしょうか。
2019年、スタートダッシュという意味で幸先が心配です。

この予想を大きく裏切るようなことを、故郷を愛する一市民として期待しています。


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