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ボソボソと400年前

 毎日がどんどん過ぎていく。夏休み、お盆、お盆明けの連休など。
 お盆はさておき、みんな、自分が休みだからといって、私も自動的に休みだと思うのやめてほしいなー。
 自宅就労母ちゃんの悲哀である。
 このnoteの「長崎歳時記」もぜんぜん更新できないままで心苦しいが、体がひとつで、しかもその体が五十路をのぼるのに苦労していて、夏の暑さと湿気にも太刀打ちできず、すぐバテる。仕事もあんまりなくて、貯金の減りだけが超順調で、その方面でもかなりしんどい。息子にかかる大小の経費がものすごくて、その苦しさを息子のせいにしないようにするために、多大なエネルギーを使っている。
 その一方では、やるべき仕事、書きたいこと、調べたいことは山ほどあって、と、気持ちが完全に空回りしている。

 と、日々の生活レベルでは空回っているが、心の奥はそうでもない。だいたい長崎の昔のこととか、殉教者のことなんかがまったりと流れている。見た目「ごはん作るのも片付けるのも買いもの行くのもなんで私だけなのよ!」と波立っていたりするが、それは心の水面の話であって、ちょっと潜ると、そこには60年から450年くらい前までの世界が、静かに広がっている。

 最近はだいたい400年くらい前。私はぜんぜんクリスチャンではないが「長崎の昔の住民」として、殉教者や殉教したいと思っていた人たちのことが、とても気になっている。気になりすぎて、1619年に西坂で殉教した5人について「11月18日を歩く」というZINEまで作った。

 別に信仰的な理由じゃなくても、そういう人たちのことを調べたり考えたりしてもいいと思うんだが、ちょっと前に「11月18日を歩く」を渡した方(クリスチャン)から「これほど殉教者のことを考えているのなら、なぜ洗礼を受けないのですか」と言われて、なかなか驚いた。それに対する答えと理由は明確にあって、その場ではそれをお伝えしたので納得されたとは思うのだが、立っているところが違うのでわからない。

 9月10日は、1622年、元和8年の西坂の大殉教から400年だ。ぜんぜん信者じゃないし、いまのところはなる気もないが、だからこそ考えられることもあると思うので、日々の飯を炊きつつ、ボソボソと考えていく。
 
 見出しの写真は、長崎にフランシスコ教皇が来られたときに、大雨の中、西坂の道沿いで教皇を拝見したときに来ていたカッパと、配られたバチカンの旗。このとき私の背中には大勢の……いや、なんでもなかです。

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