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長谷川三郎と計算機の祈り

午前中、横浜美術館で「イサム・ノグチと長谷川三郎―変わるものと変わらざるもの(1)」を観る。科学が生活に入り込んできた時代。2人が交流の中でどのように時代を読み、作品を変化させてきたかを捉える。
長谷川三郎の作品は初めて見た。なんか、老師をモチーフにした作品のニワトリがカワイイ。しかも、変なコトをしている。木片をそのままスタンプとして押したり、墨でカンディンスキー(2)のような構成を試していたり。挙句の果てに、丸太をそのまま版木にして「幽」「玄」と掘る。
長谷川三郎はリサーチャーに近い。障子や野良着の写真を撮ったかと思えば、詩を読み込み、写真を使ったコラージュもしている。試して、観て、次に行く。その繰り返しの中で、感性を試す。2人並ぶと、イサム・ノグチの苦労のなさというか、何をやってもイサム・ノグチ(3)になってしまう定着のブレなさが見えて面白い。

「ゼラチン・シルバー・プリントを使ったコラージュ(4)」
「木片の拓版に『時』と描くセンス」
「言語でもあり、具象でもあり、抽象画でもある書の作品『花』(5)」。
日本の美意識に訴求しながら、リサーチャーとして試行錯誤を繰り返した側面を考えると、これは落合陽一氏の「計算機自然(6)(7)」に通じるものがありそう。ということで天王洲の「質量への憧憬〜前計算機自然のパースペクティブ〜」へ。長谷川三郎の最後の作品「精苦」の意味をぼんやり肚に落とし込みながら、東品川に向かう。

「質量への憧憬」では、落合陽一氏が「何に美しさを感じるか」を、大量の写真を整理しながら点検したプロセスに見えた。インスタレーションは、光を纏う枯れた木(8)や、コンクリートと古いディスプレイ群。この辺りは、去年の展示からのテーマにも即している。
大量の「物質としての写真」や古いディスプレイの展示は、氏が見据えている「これからの世界」との対比でもあるようだ(9)。
植木鉢にデッキブラシが生けてある(10)のは、何となく長谷川三郎の老師に描かれたニワトリと似たセンスを感じる。

落合陽一氏の眼差す世界観は、無理を承知で一言で言うなら「人間『も』世界」ということだ。近代が生んだ社会の仕組みを「人間『の』世界(11)」とすれば、池澤夏樹は「人間『と』世界」の対峙の方に興味がある(12)と書いた。この時の「世界」は「自然」と言い換えてもいいだろう。
「人間と世界」から「人間も世界」へ。これが、落合陽一氏の言うデジタルネイチャーが指すところだ。生物の仕組みを演算装置(デジタル)と捉えれば、植物も、サバも、人間も、等しく演算装置と見立てることができる。そして、CPUも、構造計算によって作られた建築物(13)も、演算装置(または演算の結果)だ。この世界観に沿えば、これらは全て「計算機」であり「自然」である。そこに人工物と自然物の区別はない(14)。

さて、落合陽一氏の展示文章の中から引用しよう。
「質量への憧憬の目指す先は祈りだ。祈りは実行と形を持たないソフトウェアアップデートだ。精神のチューニングと出力の連続活動かもしれない。」
この文章は、長谷川三郎のためにもあるのではないかと思った。試行錯誤を繰り返した後、病を悟った長谷川の晩年の作品「精苦」の文字は、麻布に墨書きされていて、物質感がある。実験を繰り返し、自身の精神のチューニングを続けてきた長谷川の台詞は、「やりきった」のか「もう少し」だったのか。

芸能としての祈りの舞は、繰り返し舞われる(15)(16)。落語(展示を観た後寄席に行った)(17)もバロンダンス(18)も、同じ物語を繰り返す。式年遷宮は長い時間の中で何度も行われている。長い時間の中では、人間よりも情報(振付や設計)の方が優位だ。

ここから先、人間という演算装置が身体性において進化(変化)することは起こりうるのだろうか。あるいは、テクノロジーは身体を拡張するか(19)(20)。もしこの世が賽の河原だとしたら、そこにある石は好みの形に積むことができるのだろうか。

抽象化と具体化を繰り返す中で、価値観はチューニングされ、世界観は拡大される(21)。長谷川三郎も落合陽一氏も、フェアな努力の積み重ねを通して祈り続けている(22)。
積み重ねによる演算は、時間情報を圧縮して、その一枚、一分の作品に定着させる。Artは「技術」、圧縮と解凍の技術だ。

繰り返される計算機の祈り。明日もたぶん寄席は開く。


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