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解題「やまとけもの」-あるいは、とけものたちと

「見た通りに描きなさい」
学校の授業で、図工や美術の時間にこのように言われることは少なくない。
見えたものを絵画として紙に描き写す。有史以来の人間の願望だろうか。
私のような真面目すぎてひねくれた子どもにしてみれば、見た通りに描くことが「描く」ことかどうか、とても気になるところだ。

実際、三次元の空間に存在する物を、二次元である平面に表現しようとすることは、なかなか骨の折れる作業だ。
平面に「奥行き」は存在しない。空間には、ある。
奥行きをどのように表現するか。この解である遠近法による透視図は、表現というよりむしろ発明に近い。

もうひとつ、美術史上の大発明がある。
カメラ・オブスキュラ。フェルメールが創作に取り入れたその機械は、「光」を正確に平面に表現する技法として、西洋美術の転換点の一つにもなった。
小さな穴(≒レンズ)から取り入れた光を、その先の壁面(スクリーン)に投影することによって、光の表現を平面に映し出す。

人間が「ものが見える」と思うのは、目の水晶体というレンズを通して光が網膜に投影され、その刺激を視神経が電気信号に変換して脳細胞に送るからだ。
だから、私たちが見ているのは厳密には「もの」ではなく、ものに反射した「光」ということになる。
「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の例を持ち出すまでもなく、灯りのない暗闇ではものは見えない。
視覚障害のある人は、暗闇でも普段と同じように活動できるのだから、「見えない」と「ない」は違う。暗闇の中にも、もの自体はある。

だから、西洋美術史の中で大きな影響力を示す、キリスト教的世界観における「父なる存在」が「光あれ」と言ったことは重要なのだ。
ものは、光があって、それが反射して初めて「見える」。
世界は「分かる(分けられる)」し、生物と無生物の間に区別をつけようとする。顕微鏡も望遠鏡も、光を観測するためのものだ。

フェルメールが描き出した世界は、まさに「父」が「子」たる人間に知らしめたかった世界の美しさだったのかもしれない。デザインされ、クリエイトされた世界。平面上の絵画に「光」を感じるその作品群には、誰しもが感動を覚えるだろう。
フェルメールがレンズを絵画に取り入れたあと、光の表現は正確さに加えて「印象」を描いても良いことになった。モネも、ルノワールも。さまざまな表現で光の感動を伝えてくれる。

さて、全ての人がポケットにスマートフォンというレンズを忍ばせている時代に、東洋のそのまた辺境で、神仏習合のアニミズム的宗教観をもって生きる私たちにとって、「光」を正確に描き出すことはどれほど重要だろうか。
本当に、そんな風に「見えて」いるのだろうか。

少なくとも、明才にとってはそうではないようだ。
明才がつくる木版画作品には、「空間」の概念も、「光」の概念も、重視されていない。というより、ほとんど表現されていない。
代わりにあるのは、「色」と「形」。そしてそれらの「重なり」と「混じり合い」。いずれも、平面でこそできる表現である。

思い返してみると、「松林図屏風」も「洛中洛外図屏風」も「秋冬山水図」も、空間や光の概念はあまり重視していないような気がする。
高橋由一の「鮭」が現れるまで、日本の美術には、光も、死んだ生き物も、それを捉えるレンズも、ほぼなかった。世界はそのように「見えて」はいなかった。

レンズを通すという前提がなければ、光を正確に表現する必要も、遠くのものほど小さく霞んで見える必要もない。葉に反射した光を写しとるのではなく、葉の中に潜む葉緑素をデフォルメして描くことができる。
山を歩き、落ち葉を踏み締めた感触。あるいは野の花の香り。藪を歩くカモシカの足音や、木々を渡るヒヨドリの羽ばたき。木の葉をつたい、幹を通る水の流れ。
明才が感じた「やま」。その全てを、木版画を通してビジュアルで表現することができる。平面だからできること。目だけでなくからだ全部で「みえた」ものを、表現すること。

「いきものみたいだなぁ、めんこいなぁ」
海岸線の岩や山を眺めるうちに、明才はそう思うようになった。血液の代わりに土や木の中を水が巡り、細胞や菌類のかわりに虫や鳥や獣が歩き回る。山の全てが、生命活動そのもののように感じる。
ミクロの眼でみれば土に微生物がいて、生物の中に細胞がある。マクロの眼でみれば山や海がその土地の風土を成している。それはみる距離の問題で、目に見えないからと言って「ない」ことにはならない。
そして、あらゆる場所に、「いのちのようなもの」がいる。生き物の中に別の生き物が、風景の中に別の風景が溶け込んでいる。

「木版画は染め物に近い」
明才はそう話す。水で湿した和紙に水彩絵の具が染み込んで、溶け込む。定着した後は、水洗いしても落ちない。
色は重なり混ざりあう。ものの輪郭に線はなく、代わりに彫り跡が曖昧に残されている。これも明才の木版画の特徴だ。色も形も、それぞれの領分を明確に主張することなく、溶け合って平面を構成している。
彫りも、刷りも、完璧にコントロールする必要はない。水と紙と木に、あるいは運に任せる部分がある。

明才の作品には、「いのちのようなもの」が溶け込んでいる。モチーフとして潜んでいるだけではなく、明才の生活を取り巻いている「とけもの」たち。散歩する山の土にいる微生物、味噌の中にいる発酵をつかさどる菌類。

「やまとけもの」は英語に直訳すると[Mountain and beast]だが、これは正確ではない。[Mountain and creature]はもっとちがう。山「と」生き物を区別すること自体が、明才の世界観から最も遠いところにあるのだ。
作品展のタイトルは、本当は「やま・とけもの」だと思っている。
作品を見る際には「やま」や「けもの」以上に、目に見えない「とけもの」の存在に着目してほしい。
きっと、明才の木版画と、それを取り巻く世界の魅力を感じられるはずだ。

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