ひとり寿司でかーちゃんは蘇る
「かーちゃん!聞いてる?ねぇ、かーちゃん!」
長男のいばったキイキイ声を浴びながら、突然思う。
あ、もう無理かも私。
かーちゃんとして穏やかにいられない。
かーちゃんをこれ以上やりたくない。
爆発しそう。
ひとりになりたい。
***
4歳の長男は1歳の次男にすぐ暴力をふるう。加減を知らないので危なくて目が離せない。
長男を叱り、なだめている間に、次男は何かを口に入れる。
レゴ、サイコロ、指サック、ペットボトルのフタ。窒息しかけて救急車に乗ったこともあるのに全然懲りない。日に十数回も、押さえつけて口から引っ張りだす。
次男が母に構われたことが気に入らず、長男は偶然を装ってまた攻撃する。終わらぬ悪循環。
延々と続く日々。定期的にやってくる閉塞感。
早く寝てくれといつも念じている自分に気づく。
子供への愛が足りないのかな。
私、かーちゃんにむいてないのかな。
落ち込んでも怒っても、母親はやめられない。
だからせめて、こっそり決意する。
そうだ、ひとり寿司に行こう、と。
***
待ち焦がれた5時。だんなが仕事を終えて2階から降りてくる。
「じゃ、子供らをよろしく!」
だんなに子供を託し私は一人、スーパーに向かう。
子供用補助席を前後につけたゴツい電動自転車で坂道をくだる。
気分も自転車もいつもより軽い。具体的には子供の総体重27キロ分、軽い。
夕方の風と光を浴びる。
ああ!
ひとりだ!
子供の世話を焼かなくていい。
怪我の心配をしなくていい。
相槌を打たなくていい。
どんな表情をしていてもいい。
かーちゃんという役目から放たれた。
無表情で自由を満喫する。
***
買い物を大急ぎで済ませ、スーパーに隣接するチェーンの回転寿司屋へ。
内緒で15分を自分のものにする。
入り口の発券機で、来店1名カウンター席希望を選ぶ。
出てきた紙を持ち、そこに書かれた番号の席に座る。5時半の寿司屋にお客はほとんどいない。
お茶を入れる。粉茶の分量がいつも分からない。適当に振り入れ、熱湯の蛇口をひねる。
席に設置されたタブレットで注文。
レーンに乗ってお寿司が席までやってくる。
誰とも会わずに、おいしいものが食べられる時代。
家族で行くと、皆の注文を頼んだり、子供らに食べさせたり、店のものを触らせないように防いだりと忙しない。
子供が食べている隙に、自分の分をひょいひょい口に押し込む。
気づくと空の皿が積み重なっている。食べた気がしない。なんともったいない。
回転寿司はひとりにかぎる。
どんな変な組み合わせで注文したって、高価なネタを頼んだって、自分のお小遣い内でなら何だって自由だ。
***
まずは「冬の特選 蝦夷あわび」にしよう。美味しそうな写真と共におすすめされていた。
一皿に一貫のみなので少し贅沢。でもいいんだ。自分に贅沢がしたい。
けれどやってきたあわびは写真より小ぶりで厚みもない。マッチョを待っていたのに登場したのはもやしっ子だった。
えーうそー、えー!?
あの写真のやつが食べたかったのにぃー!
心の中でちょっと文句を言って、そのあと自分を鎮める。
だされたものを、食べるしかない。回転寿司には運も必要。
「写真はあくまでイメージです」なあわびは、それでも歯応えがよかった。耳の奥にコリッと音が響く不思議。
貝は必ず注文する。
なんとも言えない味。磯の香りが口内から鼻にあがってくる感じ。不思議な歯応え。
好き、ではない。
寝起きに口に押し込まれたら絶対吐きだす。
でも替えのきかないこの不思議な物体に、何故か毎回向かい合いたくなる。
次は「ゆず塩炙り寒ぶり」でいこう。以前食べて美味しかったやつ。
「あぶりかんぶり」とこっそり口の中で唱えてみる。語呂がいい。口が気持ちいい。
皿をレーンから持ち上げた途端、香ばしい匂いが鼻に届いた。
そういや「店内炙り」って書いてあったな。
壁の向こうの誰かさん、ありがとう。私のために炙ってくれて、ありがとう。
炙りは鼻から味わうおいしさ。さらに上にちょこんと乗ったゆずも。
塩のざらっとした舌触りが楽しい。噛むと脂が乗ってぬっとりとした甘さが押し寄せてくる。
鼻、口、舌、喉、いろんな刺激がたっぷりで、思わず目を閉じる。視覚はなくて充分。
今の感覚だけに集中する。
次は何にしよう。迷う時間が楽しい。
エビ天の乗ったやつにしようかな。舌を火傷しそうな熱々のやつ。
揚げたてのエビを一本だけ食べるって、家では出来ない贅沢だ。
その時、サーモンにタマネギがわっしゃり乗ったものが目の前を流れていった。隣の人が頼んだみたい。
アボカドも乗っていた。なんだろ、あれ。いいな。
注文用タブレットでサーモンの欄を見ると12種類もあった。選択できる嬉しさ。
これかな?「サーモンアボカド」。初めてだけど注文してみよう。
しかし何も乗っていないサーモンと同じ値段なのは何故?
ちょっとイケてない部分なのかな。
アボカドを差し色にしたひらひらオニオンドレスで武装して、それを隠しているのかな。
仕切りの向こうの3メートル先のお客さん、ありがとう。あなたが頼んでくれたから、サーモンアボカドの存在に気づけた。
実際に見なければ選ばなかった一品。回転寿司ならではの一期一会が好き。
さあ、サーモンアボカドがやってきた。
サーモンのピンク色の上に、アボカドのぺっとりした緑。その上に半透明の薄切り玉ねぎがたっぷり。豪華な見た目。ケーキみたい。
でも二貫が支え合って成立していた模様。ひとつを取ると残るひとつがこけてしまった。ありゃま。まあ食べれば一緒か。
マヨがついているけれど醤油はいるのかな?
4種類の醤油、ポン酢、藻塩、唐辛子が目の前にあり、いつでも自由にかけられる。わさび、あまだれも。全部私専用で豊かな気分。
きっと凝った組み合わせを研究している人もいるんだろうな。
いつも考えなしに「特製だし醤油」ばかり使っているけれど、ちょっと冒険してみよう。
オニオンがのってるし、ポン酢なんてどうかな。
あ、さっぱりしていておいしい。大成功!
うれしい!小さな達成感。
誰かに教えてあげたいな。今度家族で来たら、だんなに教えてやろっと。
ああ本当は友達と来たい。もう一年以上誰とも会えていない。考えちゃダメだ。だめ。淋しくなるだけ。
お皿に散らばったオニオンスライスを丁寧に集め、またポン酢でいただく。
胸騒ぎがする。
オニオンスライス、好きなんだけど、飲み込んだ瞬間にいつも胸騒ぎがする。
大事な何かを思い出しそうな、思い出しちゃいけないような気持ち。
背筋もザワッとして、なんなんだろう、これ。
口直しでガリを一枚いただく。
さて急がなきゃ、しめはタピオカミルクティー!
ここに来るといつも飲みたくなってしまう。
江戸時代の鮨職人もびっくりの組み合わせ。
でもガリと合う、と私は思っている。
甘ったるいミルクティーにモキュモキュのタピオカ、甘酸っぱくてヒリリと辛いガリの薄い歯ごたえ。
飽きずに延々と味わえる。味のメリーゴーランドや!
タピオカ屋さん、ガリも一緒に売ってください。
***
ああ、いい時間を過ごせた。気づくともう20分以上経っている。
さあ、家に帰ってかーちゃんに戻ろう。
タブレットでお会計確定。最初にもらった席案内の紙がそのまま伝票になっている。よく出来たシステムだなぁ。
そうしてレジでお支払い。やっと人と対面する。
平日は一皿90円なのでお安い。タピオカと合わせても500円代で済んだ。
帰り道、なかなか青に変わらない信号をじれったく待ちながら考えた。
若い頃は食べ物にお金を使うのって嫌いだったな。だって食べちゃったら跡形もないもの。同じ値段で文庫本が買えるよ。
でも今、おいしいものを食べることは一番の至福。
おいしいものを作る大変さに気づけたからかな。実家のありがたさよ。
今は自分が作らないと何も始まらないから、誰かが作ってくれるのが本当にありがたいんだ。
時々植物に肥料をやるように、たまのひとり寿司で私は自分に栄養をあげる。
かーちゃんではない、ただの私に戻って寿司を真剣に味わう。
それが満たされると、楽しくかーちゃんに戻れる。大事な時間。
***
我が家に到着。自転車小屋に自転車をとめる。
お風呂場がオレンジに灯っていて、ほっとする。
「ねぇ!とーちゃん!見て!」
呼びかける長男の甲高い声、返事をするだんなのくぐもり声、次男の笑い声、水のはねる音。
少し離れて見る家族って、なんでこんなに幸せそうなんだろう。
架空の湯気がほわんと顔にまとわりついて、石鹸の匂いがした。
***
「ただいまぁ」
家に入り、お風呂のガラス越しに声をかける。
「あ!かーちゃん!かーちゃん、あのね!」
長男のキイキイ声は耳を突き刺す。止まることないマシンガントーク。正確な相槌も求められる。
ああまた日常が始まった。
「おかえり、遅かったねー」
だんなの疲れた声。
「ごめん、レジが混んでてさ、時間かかっちゃった」
私は、さらりと小さな嘘をつく。
別に正直に言ってもいいんだけれども、隠してしまう。
一抹の罪悪感とささやかな秘密を持つ喜び。
買ってきた食材を冷蔵庫にしまって、風呂からでた子供らを追いかけてパジャマを着させ、ごはん作りに取りかかる。
これから寝かしつけるまで、疾風怒涛の三時間。
ごはん中に遊んだり、いつまでも騒いで寝なかったりする子供らに怒ってしまう日が多い。
そうして子供の寝顔を見ながら自己嫌悪。
でも今日はきっと大丈夫。
ひとり寿司でかーちゃんは蘇ったから。
***
夕ご飯は私だけ少なめにした。それなりに寿司を食べてしまったもの。
「ごはん、それで足りるの?」
珍しくだんなに聞かれた。
「うん、ダイエット。じわじわ太ってきててさ。そんなに食べてないのにね」
なんて言いつつ、本当は知っている。
痩せない一因はきっと秘密のお寿司のせい。
でも、いいや。
おいしいものを食べて、ごきげんなかーちゃんでいたい。
家族で楽しく暮らしたい。
だからひとり寿司で、かーちゃんは何度でも蘇ってやる。
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