身内の恥???

最近、ものすごく身近でこの言葉を聞いた「だって身内の恥を他所様になんて話せないでしょう?」
正直、驚いた。この発言をしたのは私と変わらない年齢の女性だ。そして私はその女性と同じカテゴリーに属していたため、必然的にその女性の愚痴を日常的に聞いている訳である。
いやいいのだ。愚痴を聞くのは全くと言っていいほど問題ない。私が聞くことで誰かが楽になるんだったらいくらでも話して欲しい。
ただ、その女性の様子があまりにも苦しそうだったので「このカテゴリー以外の場所で、息を抜いて話すことができるような人は誰か居るか?」と聞いてみたところ先の解答が返ってきたのだった。見事なまでに全く誰にも一言も話していないと言う。あんまりビックリし過ぎて二の句が継げなかった。たぶん表情にも出ていただろう。なるほど、それはツラい訳だ。


さて、そんなことがあってしばらくの間、私の頭の中ではこの「身内の恥」という言葉がくるくると旋回していた。なんということもなくただ所在無げにいつも回っていた。
そして、相変わらずADHDや発達障害なんかのことを考えていた時に突然気が付いた「これかぁ!」と。
そういえば私の母は私への叱言によくこんなことを言っていた「大人になってから他人に注意されるより身内に言われた方がいいでしょう?だからお母さんが注意している今のうちに治しなさい。」本当に頻繁にそう言っていた。母にそう言われている時の場面が今でも鮮明によみがえるほどに何度も言われた。そうかこれが「"身内の恥"文化か」私はやっとそのことに気が付いた。
そう言えば「みっともない」これも母はよく口にしていた。私を育てる中で何度となく繰り返し発せられた。箸を正しく持ちなさい。口を閉じて食べなさい。テーブルに肘をつくのをやめなさい。行儀が悪い。「こんなことを他所の人から注意されたら自分が恥ずかしいでしょう?」確かにそれはそうかもしれない。でもこれが「部屋が汚い」「忘れ物が多すぎる」「時間を守れない」「だらしがない」などとなってくると…私の場合は返す言葉もなく、親からの厳しい躾として受け取ることができなくなるのだ。ただひたすらに、できない自分を責めるよりほかに方法がないのだ。前にも少し書いたができない物はできないのだ。心血を注いで努力したところで一般的な常識レベルにまで到達することはほぼ不可能なのだ。

そう「身内の恥」と言って身内だけで解決できる問題ならば、そこで解決した方が良いとも言える。しかし、家庭内には素人だけでは解決できない問題が実在するのだ。外部の専門家に頼らなければならない、そんな問題が。
重要なのは「素人が頑張ってなんとかしなくちゃいけない問題」なのか「専門家に依頼しなければ解決に繋げることができない問題」なのか、その見極めということなのだろう。
そしてもちろん早期発見早期対応、これがキーだ。
私が子どものころには「発達障害」だ「ADHD」だ「アスペルガー」だと口にする保護者はほとんどいなかったのではないだろうか。情報も限られていて、今ほど自由に簡単に情報を選びとることはできなかったはずだ。それ故、その切り分けは相当に困難であっただろうと推測する。しかし「そんな大げさな」「やればできるんだ(芽を摘むな)」「決め付けるのは可哀そう」違う違うのだ。一見思いやりから発せられたように見えるこれらの言葉は、間違った判断になってしまうケースもあるのだ。

引きこもりもそうなんだろう「身内の恥」きっと、この一言に尽きるのだろう。早く専門家を入れなくては、一刻も早く公にして助けを求めなければ、解決にかかる時間がただ無意味に延びるだけなのだ…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?