妄想邪馬台国(8) 白村江の戦いから見る

 邪馬台国の謎を解くのに白村江の戦いと言う全く関係無い7世紀のイベントをぶち込んだのかと言うと魏志倭人伝に書かれた水行の謎を解き明かす為なのだ。果たしてどのような船が往来していたかの謎に迫る。何しろ水行三十日で浪速にたどり着けなければ、近畿説は成立しない可能性がある。朝鮮通信使が水行二十日なのだ。弥生時代の船であれば、それより時間がかかると考えるのが妥当だ。その差を何処まで縮められるか技術進歩を追うには中間にある白村江の戦いを見るのも重要だぞ(言い訳終わり)

 ちなみにこの時代の水行。斉明天皇記の伊吉連博德書からの引用。

以己未年七月三日發自難波三津之浦、八月十一日發自筑紫大津之浦。

 ――と言う記述がある。難波から筑紫まで水行四十日はかかっていないが、筑紫の着日が分からない。

七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。甲辰、御船到于大伯海。時、大田姬皇女産女焉、仍名是女曰大伯皇女。庚戌、御船泊于伊豫熟田津石湯行宮。熟田津、此云儞枳拕豆。三月丙申朔庚申、御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮。天皇、改此名曰長津。夏四月、百濟福信遣使上表、乞迎其王子糺解。釋道顯日本世記曰、百濟福信獻書、祈其君糺解於東朝。或本云、四月天皇遷居于朝倉宮。

 ――と言う記述もある。難波から伊予まで水行八日。朝鮮通信使船より古墳時代のヤマトの船の方が早い。しかもこの船は天皇陛下の行幸に使う船だ、安全第一の運行のはずである。古墳時代の船は水行十日で難波から博多まで行けたと考えられる。道後温泉に長期滞在された用だが、伊予博多間がかかりすぎており、恐らく豊予海峡(神武東征に出てくる速吸門)が一番の難所なので安全第一で航海したのだろう。陛下は同年崩御されているので、行幸前から体調が優れなかったのかも知れない。湯治のために道後温泉に逗留した可能性もある。

 白村江の戦いで倭国(日本)は400艘(一説では1000艘)、2万7000人(一説では4万2000人)の兵力を投入していたと言う。この時代にその動員が出来たかと言うと無理では? 

 ――そもそも、この数字あっているの?

『旧唐書』84上 列伝34 劉仁軌

仁軌遇倭兵於白江之口、四戰捷、焚其舟四百艘

 「旧唐書」よ。すぐバレる盛り方するな。倭が短期間で四百艘も動員できるなら簡単に負ける訳なかろう。船ではなく舟になっているし、兵数が書いていない。文字通り舟と読むと良くて一隻10人前後で計算すれば良いだろう。この場合、白村江の戦いに参加した倭国の海軍は4000人前後と想定出来る。船と書くと1万を超えてしまう。それではあまりに盛りすぎと考え、400はそのままに船を舟にして報告したのだろう。

 元寇の時、大元ウルス征東行省高麗国様(推定人口五百万人)が日本に乗り込む4万人が乗る千艘の船を作るのに何年かかったと思っているのだ。ヤマト王朝は、この船を珠流河国(駿河半国推定人口三万人以下)に二ー三年ほどで作らせているのだ。五年かけて九百艘しか用意出来なかった上に財政が傾いて、国民が困窮した高麗国様をあまりに馬鹿にしすぎだろう。恐らく劉仁軌が盛って報告したものに間違いない。

新羅本紀第六 文武王 上

旣而福信殺道琛、 幷其衆、 招還叛王、 勢甚張。 仁軌與仁願合、 解甲休士、 乃請益兵。 詔遣右威衛將軍 孫仁師率兵四十萬、 至德物島、 就熊津府城。
王領金庾信等二十八 一云三十 將軍、 與之合攻豆陵 尹城、 周留城等諸城、 皆下之。 扶餘豊脫身走、 王子忠勝、 忠志等、 率其衆降、 獨遲受信據任存城、 不下。 自冬十月二十一日、 攻之、 不克、 至十一月四日、 班師、 至舌 一作后 利停、 論功行賞有差。 大赦、 製衣裳、 給留鎭唐軍。

 三国史記新羅本紀の孫仁師率いる唐兵40万は明らかに盛りすぎ。そもそも新羅本紀はこの部分の資料はほぼ欠落している。十月二十一日まで日付が省略されている。まともな水軍がない新羅は蚊帳の外だったのだろう。百済本紀にも記述があるが旧唐書の劉仁軌伝が元ネタにしか見えない。そこで三国史記金庾信伝を見ると陸戦しかしていない。しかも豆率(周留)城(日本書紀の州柔城か)は落としたものの任存城を落とせず帰還している。

大王親率庾信、仁問、天存、竹旨等將軍,以七月十七日,征討,次熊津州,與鎭守劉仁願合兵,八月十三日,至于豆率城。百濟人與倭人出陣,我軍力戰大敗之,百濟與倭人皆降。大王謂倭人曰:「惟我與爾國,隔海分疆,未嘗交構,但結好講和,聘問交通,何故今日與百濟同惡,以謀我國?今爾軍卒在我掌握之中,不忍殺之,爾其歸告爾王。」任其所之。分兵擊諸城降之,唯任存城,地險城固,而又粮多,是以攻之三旬,不能下,士卒疲困厭]兵。大王曰:「今雖一城未下,而諸餘城保皆降,不可謂無功。」乃振旅而還。

 金庾信伝は周留城落城を八月十三日としているが、日本書紀では九月七日としている。白村江の戦いが八月二十七-二十八日なので明らかにおかしい。新羅軍は周留城ではなく、任存城に向かったのではないか。そして唐軍が引き上げたのを見て任存城を放置したまま引き上げた。

 この記述から分かることは百済残党が、白村江の戦い以降も抵抗を続けていたこと(この件は新羅本紀にも記述がある)、新羅軍は水軍を派遣していない事と日和見を決め込んでいたこと。

新唐書 本紀第三 高宗
九月戊午,孫仁師及百濟戰于白江,敗之。

 新唐書本紀の龍朔3年(663年)九月戊午の記述。日本の記述がない。あくまで孫仁師と百済残党との戦い。

 九月戊午は、日本書紀の暦を採用すると恐らく九月八日。周留城の開城の日を記述した様だ。日付のつじつまが合わない金庾信伝が間違いなのだろう。

日本書紀 天命開別天皇 天智天皇

天命開別天皇、息長足日廣額天皇太子也、母曰天豐財重日足姬天皇。天豐財重日足姬天皇四年、讓位於天萬豐日天皇、立天皇爲皇太子。天萬豐日天皇、後五年十月崩、明年皇祖母尊卽天皇位、七年七月丁巳崩、皇太子素服稱制。
是月、蘇將軍與突厥王子契苾加力等、水陸二路至于高麗城下。皇太子、遷居于長津宮、稍聽水表之軍政。

八月、遣前將軍大花下阿曇比邏夫連・小花下河邊百枝臣等・後將軍大花下阿倍引田比邏夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石等、救於百濟、仍送兵杖・五穀。或本續此末云、別使大山下狹井連檳榔・小山下秦造田來津、守護百濟。

九月、皇太子、御長津宮、以織冠授於百濟王子豐璋、復以多臣蔣敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔・小山下秦造田來津、率軍五千餘衞送於本鄕。於是、豐璋入國之時、福信迎來稽首奉國朝政、皆悉委焉。

十二月、高麗言「惟十二月於高麗國寒極浿凍、故唐軍雲車衝輣鼓鉦吼然。高麗士卒膽勇雄壯、故更取唐二壘、唯有二塞、亦備夜取之計。唐兵、抱膝而哭、鋭鈍力竭而不能拔。」噬臍之恥、非此而何。釋道顯云「言春秋之志正起于高麗、而先聲百濟。百濟、近侵甚苦急、故爾也。」
是歲、播磨國司岸田臣麻呂等、獻寶劒言、於狹夜郡人禾田穴內獲焉。又日本救高麗軍將等、泊于百濟加巴利濱而燃火焉、灰變爲孔有細響、如鳴鏑。或曰、高麗・百濟終亡之徵乎。

元年春正月辛卯朔丁巳、賜百濟佐平鬼室福信矢十萬隻・絲五百斤・綿一千斤・布一千端・韋一千張・稻種三千斛。三月庚寅朔癸巳、賜百濟王布三百端。是月、唐人・新羅人伐高麗、高麗乞救國家、仍遣軍將據䟽留城。由是、唐人不得略其南堺・新羅不獲輸其西壘。

夏四月鼠産於馬尾、釋道顯占曰、北國之人將附南國、蓋高麗破而屬日本乎。

五月、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率船師一百七十艘、送豐璋等於百濟國。宣勅、以豐璋等使繼其位、又予金策於福信而撫其背、褒賜爵祿。于時、豐璋等與福信稽首受勅、衆爲流涕。六月己未朔丙戌、百濟遣達率萬智等進調獻物。

冬十二月丙戌朔、百濟王豐璋・其臣佐平福信等、與狹井連闕名・朴市田來津議曰「此州柔者、遠隔田畝・土地磽确・非農桑之地、是拒戰之場、此焉久處、民可飢饉。今可遷於避城、避城者西北帶以古連旦涇之水、東南據深泥巨堰之防、繚以周田、決渠降雨、華實之毛則三韓之上腴焉、衣食之源則二儀之隩區矣。雖曰地卑、豈不遷歟。」於是、朴市田來津獨進而諫曰「避城與敵所在之間一夜可行、相近茲甚。若有不虞、其悔難及者矣。夫飢者後也、亡者先也。今敵所以不妄來者、州柔設置山險盡爲防禦、山峻高而谿隘、守易而攻難之故也。若處卑地、何以固居而不搖動及今日乎。」遂不聽諫而都避城。是歲、爲救百濟、修繕兵甲・備具船舶・儲設軍粮。是年也、太歲壬戌。

二年春二月乙酉朔丙戌、百濟、遣達率金受等進調。新羅人、燒燔百濟南畔四州、幷取安德等要地。於是、避城去賊近、故勢不能居。乃還居於州柔、如田來津之所計。是月、佐平福信、上送唐俘續守言等。

三月、遣前將軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中將軍巨勢神前臣譯語・三輪君根麻呂・後將軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄、率二萬七千人打新羅。

夏五月癸丑朔、犬上君闕名、馳告兵事於高麗而還、見糺解於石城。糺解、仍語福信之罪。

六月、前將軍上毛野君稚子等、取新羅沙鼻岐奴江二城。百濟王豐璋、嫌福信有謀反心、以革穿掌而縛。時、難自決不知所爲、乃問諸臣曰、福信之罪既如此焉、可斬以不。於是、達率德執得曰、此惡逆人不合放捨。福信、卽唾於執得曰、腐狗癡奴。王、勒健兒斬而醢首。

秋八月壬午朔甲午、新羅、以百濟王斬己良將、謀直入國先取州柔。於是、百濟知賊所計、謂諸將曰、今聞、大日本國之救將廬原君臣、率健兒萬餘、正當越海而至。願、諸將軍等應預圖之。我欲自往待饗白村。

戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得𢌞旋。朴市田來津、仰天而誓・切齒而嗔、殺數十人、於焉戰死。是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗。

 最初に狹井連檳榔・秦造田來津に五千の先遣隊がある。次に阿曇比邏夫の170隻。具体的な兵数は不明。上毛野君稚子・間人連大蓋・巨勢神前臣譯語・三輪君根麻呂・阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄ら兵二万七千の具体的な船数は分からない。恐らくこの二万七千は陸から新羅を攻撃した可能性が高いのだが、中国の史書には出てこない。新羅本紀にも出てこない。ちなみに日本書紀からは白村江に投入した船の数は分からない。唐軍が170隻居たとしか書いていない。

 廬原君臣の1万は百済王が言っただけ(廬原臣は廬原国、後の駿河半国の豪族。人口三万のうち一万を引き連れたと言うのだろうか)

 白村江の戦いは、初至者とあるので秦造田來津こと朴市田來津が百済の援軍で出ていただけで、大半は間に合わず。しかも百済王が逃げたので、残兵を回収して引き上げたのではないのか。そうすると戦闘に参加出来たのは狹井連檳榔・秦造田來津の五千。すなわち水陸併せて最大五千。大将クラスの戦死者は朴市田來津以外名前がでてこない。名前が出てこないメンツは戦死していないどころか戦闘に参加していないのでは?後、捕虜があまりに多い。到着する前に州柔城が落城したので引き上げた。

 ――それより、唐よりヤマト王朝の造船技術が上だとしないと白村江の戦い自体がそもそも成立しなさそう(軍が白村江まで辿り付けない)

 ともあれ白村江の戦いは誇張があるためかなり割引いて見る必要がありそうだ。

 結論:白村江の戦いは、邪馬台国考察の訳に立たない。だがその前後の日本書紀の記述は訳に立つ。

十一月甲午朔癸卯、對馬國司、遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。』」

 白村江の戦いの後、日本書紀に郭務悰が率いてきた船が47艘、2000人だと言う数字がある。

 この数字を鵜呑みにすると一艘あたり42人に過ぎない。唐が作れる船は定員40人前後が限界だったと考えるのが妥当だろう。この記述から別に漕ぎ手がいたのかは不明であるが、そもそも対馬に渡るには風と波を待つ必要があり、食糧を現地調達するか九十日分積むかのどちからを選択する必要がある。対馬国司がこの数字を偽る理由がなく(人数を盛ってネコババの方がありそう)、この人数が全数とすべきだろう。つまり唐の造船技術では一艘40人前後かそれ以下が限界だと考えるのが妥当だろう。100トン級かな?この時代の唐の100トン級以上は外洋に出せない(運河用の)船なのかも知れない。(元寇は900艘、4万人だが、300艘は水くみ用の小舟で、大船が300艘、快速船が300艘)

 これより前の時代の遣唐使船が1艘120人の300トン級と予想されるので、唐(ジャンク以前)より倭の方が造船技術が上の気がしてきたぞ。

 邪馬台国の時代の船は、100トン級の帆船と想像してもおかしくなかろうか?これ以前も調べたいが神武東征だよな(神武東征は年単位で日付が進むの)

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