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イエズス会のインド洋地域の奴隷


ゴア ー インド洋奴隷貿易の中心地

 Jesuit Historiography Onlineによればインドのゴアは本来イスラム圏であるが、1510年、ポルトガルが占領しポルトガルのインド太平洋地域の中継基地として栄えていた。その時ポルトガル人はイスラムの影響を排除するためゴアに存在した全てのモスクを破壊した。

 ゴアはポルトガルの退潮ともに没落したが、ムガール帝国時代もイギリス時代もゴアはポルトガル領だった。

 ゴアはインド太平洋地域に於けるポルトガル奴隷貿易の中心地であり、モザンビークから日本までを管轄していたようだ。奴隷の出身地はさまざまで当時の記録から日本人、ベンガル人、東アフリカ人、南アフリカ人、ジャワ人、マラバル人、シンハラ人、グジャラート人、中国人、ミャンマー人などが現れる(Stephanie Hassell "Inquisition Records from Goa as Sources for the Study of Slavery in the Eastern Domains of the Portuguese Empire")

 当時ポルトガル人はゴア防衛を奴隷兵にやらせておりその中核がカフルだったとされている。しかし、1590年代には日本人奴隷に置き換えられていったようで日本人奴隷を禁止するポルトガル王の布告に対して、ゴアにはポルトガル人の五倍の日本人がいるから奴隷解放すると反乱が起きてしまうと言う嘆願をしている。さすがにこれに関しては数字を盛っていると考えてられている。

 ただしイエズス会との関係になると分かりにくい。イエズス会から没収した文献の整理が体系的に行われておらず、ゴアの奴隷に関する研究が異端査問に基づくものが多いためと考えられる。つまり隠れユダヤ人や解放奴隷に関する記録が多く、異端査問する側の記録の方が残っていないと言うバイアスが存在する。行政記録によれば合法的な奴隷と奴隷の取り扱いが徐々に厳しくなっていくことが分かるが奴隷自体は禁止されていないし、そもそも修道会の高位司祭ですらこの布告を守っていなかった。

 イエズス会がゴアにおいても奴隷を所有していたのは確認されている。、ゴアは最も貧乏なキリスト教徒ですら奴隷を所有していると言われていた街である。しかしイエズス会に日本人奴隷がいたかについては未だ確証を得ていない。イエズス会が日本人奴隷にキリスト教教育を施すためにゴアのイエズス会に送りこむべきだとする主旨の記録があるため居たと考えるのが妥当だろう。

the Portuguese applied quite faithfully the Islamic tradition to slaves converted to Christianity or to slaves of the non-Christians entering the Portuguese jurisdiction.

ポルトガル人は、キリスト教に改宗した奴隷や、ポルトガルの管轄下に入った非キリスト教徒の奴隷に対して、イスラムの伝統を極めて忠実に適用した。
“They built villages and in all matters acted very kindly towards the people and did not vex them with oppressive taxes, but minors were converted to Christianity, whether brahmins or sayyids, and sold into slavery”
「彼らは村を建設し、あらゆる面で民衆に非常に親切に振る舞い、圧制的な税金で民衆を苦しめることはなかったが、未成年者はブラフマンであろうとサヤイドであろうとキリスト教に改宗させられ、奴隷として売られた」
(ポルトガル人はベンガルのヒンドゥー教徒を奴隷として売買していた)

The Jesuit visitor of the Asian missions Alexandre Valignano noted in 1576 that many slave masters donated slaves to the Jesuit residences.
アジア宣教のイエズス会訪問者アレクサンドル・ヴァリニャーノは1576年、多くの奴隷主がイエズス会の住居に奴隷を寄贈していることを指摘した。

The Indian authorities had replied that it was difficult to function in India without slaves, and as to the title of slavery and good treatment, this had been ensured.
(イエズス会の)インド当局は、インドでは奴隷なしで(イエズス会が)機能することは困難であるが奴隷の権利と待遇については確保されていると答えた。

Teotonio R. de Souza "Manumission of Slaves in Goa During 1682 to 1760 as Found in Codex 860"

 ゴアのイエズス会は、わざわざ奴隷を買わなくても奴隷が寄進されていたようである。ゴアの場合、その大半が家庭内奴隷だと思われるため地元のベンガル人の奴隷が多くいたと思われる。しかし、ゴアのイエズス会は奴隷がいないと仕事が出来ないと言い切っている。

 また、筆者が以前書いた様にポルトガルの奴隷制はイスラムから引き継いだ奴隷制である。そのためイスラム教と同じように奴隷解放制度が存在した。そのため解放奴隷の記録を残したと思われる。ただし、この写本は、イエズス会が立ち会い人となって奴隷解放が行われた記録でイエズス会による奴隷解放の記録ではないようだ。しかも解放された奴隷の多くが女性だったらしいので、男性奴隷の多くは解放されなかったようだ。

The priests were to a great extent immune from civil jurisdiction; the Religious Orders and the Church owned about one-third of the available land in Portugal itself, and much of the best lands in Portuguese India; priests and prelates often stayed a lifetime in Asia, thus providing a continuing influence which contrasted with the triennial term of viceroys and governors as epitomised in the popular Goan jingle, Vice-rei vá, vice-rei vem, Padre Paulista Sempre tem (‘Viceroys come and go, but the Jesuit Fathers are always with us’).
司祭は民事裁判権から大幅に免除されていた。宗教団体と教会はポルトガル国内の利用可能な土地の約 3 分の 1 とポルトガル領インドの最良の土地の多くを所有し、司祭と高位聖職者はしばしばアジアに一生留まり、ゴアの有名なジングル「Vice-rei vá, vice-rei vem, Padre Paulista Sempre tem (総督は来ては去るが、イエズス会の神父はいつも私たちと共にある)」に象徴されるように、総督と知事の 3 年任期とは対照的に、継続的な影響力を発揮していた。

Charles R. Boxer "The Portuguese Seaborne Empire, 1415-1825"

 イエズス会はゴアにおいて強大な権力を握っていた。そして問題になっていたのは奴隷制よりイエズス会などによる強制改宗だったようだ。

The extensive published documentation on the sixteenth-century Jesuit missions in Goa makes it abundantly clear that the missionaries used what was later euphemistically termed ‘the rigour of mercy’, when they could count on the support of such priest-ridden bigots as the Governor Francisco Barreto (1555-8) and the Viceroy Dom Constantino de Bragança (1558-61). During the viceroyalty of the last named, the exodus of Hindus from Goa to the mainland reached such alarming proportions that his immediate successors found it necessary to reverse his policy. Both the Count of Redondo (1561-64) and Dom Antão de Noronha (1564-8) gave the Hindus of Goa specific assurances that they would not be converted by force.
16 世紀のゴアにおけるイエズス会の布教活動に関する膨大な文書が公開されており、宣教師たちが、フランシスコ・バレット総督 (1555-8) やコンスタンティノ・デ・ブラガンサ副王 (1558-61) のような僧侶にこだわる偏屈者たちの支援を期待できるときには、後に婉曲的に「慈悲の厳格さ」と呼ばれるものを用いていたことが十分に明らかになっている。ブラガンサ副王の在位中、ゴアから本土へのヒンズー教徒の流出があまりにも驚くべき規模に達したため、彼の直後の後継者たちは彼の政策を覆す必要があると判断した。レドンド伯爵 (1561-64) とアンタン・デ・ノローニャ副王 (1564-68) はともに、ゴアのヒンズー教徒に対し、強制的に改宗させることはないという明確な保証を与えた。

Charles R. Boxer "The Portuguese Seaborne Empire, 1415-1825"

マカオ ー インド洋奴隷貿易の中継地

 マカオは、ポルトガルの極東基地として20世紀まで存在していた。しかし明代のマカオはポルトガルの直轄領ではなく租借地であり、明から干渉を受けることが多かった。長崎からやってきた日本人奴隷の多くはマカオを中継して世界にばら撒かれたと考えられる。そしてポルトガル人が住んでいたからにはマカオにも当然奴隷が居た。もっともこの時期にイエズス会は存在すらしない。中文ページにはマカオは自由民と奴隷の比率が1:5だと書かれている。さらにマカオの奴隷5000人の大半がイエズス会の所有とまで書いてある。ただし中国共産党の言い分だからプロパガンダの可能性が高い。

In the period covered by the dataset (1741-1776), between 1,000 to 5,000 enslaved people lived in Macau alongside a large free Chinese merchant population (i.e. subjects of the Qing empire, some Christian, some not), a small Portuguese and mixed Eurasian population, and an indeterminate number of Chinese in various degraded statuses bordering on slavery who had been kidnapped or purchased by Chinese human traffickers before being sold into the city

Slavery, Freedom, and Intermediate Statuses in Macau: Arquivo Diocesano de Macau, Freguesia de São Lourenço, Batismos 1741-1776

  実際に18世紀にマカオに居た奴隷は1000から5000人の間とされており、幅が非常にある。非合法奴隷が多かったのでは無いかと考えられる。マカオの奴隷の内訳は時代によって変わるが、16世紀前半の日本人奴隷が入ってくる前は、明国人とカフル(東南アフリカの非イスラム教徒)人やインド人が中心だったと考えられる。

In 1516, when King Manuel I of Portugal dispatched Fernão Pires de Andrade to lead the Portuguese fleet to China, culminating in their arrival in the Guangdong waters in August 1517, the Portuguese not only introduced trade goods but also their practice of purchasing slaves to China. The rampant purchasing of Chinese children by the Portuguese in Guangzhou contributed to the enduring fear and disdain towards the Portuguese among the Chinese, also fuelling dark legends of Portuguese cannibalism.

1516年、ポルトガル王マヌエル1世がフェルナン・ピレス・デ・アンドラーデをポルトガル艦隊の指揮官として中国に派遣し、1517年8月に広東海域に到着すると、ポルトガル人は貿易品だけでなく、奴隷を購入する習慣も中国に持ち込んだ。広州で横行したポルトガル人による中国人の子供の買占めは、中国人のポルトガル人に対する恐怖と軽蔑を永続させる一因となり、ポルトガルのカニバリズムという暗い伝説を煽ることにもなった。

Yang Liu "Macao's Moral Maze: Sino-Portuguese Efforts Against the Early Modern Chinese Slave Trade"

 しかし日本人は1523年の寧波の乱以降、明の領内に足を踏み入れる事自体が禁止されており、許可されていたのは大内氏による勘合貿易のみである。それ以外は全て倭寇に分類されたのである。大内氏は1551年に陶隆房の謀叛により滅亡し勘合貿易はここで途絶えることになる。大内氏以外、日明貿易が出来なかったのでポルトガル人の来航に飛びついた勢力が当然存在するわけだ。南蛮貿易は勘合貿易の代替であり、その主力は明の生糸と綿織物だった。

 どうやら出禁の対象にはマカオも入っていたようで日本人がマカオにいる時点で違法でなのだがポルトガル人は公然とこれを無視していた。そのため非合法日本人が多数マカオに住んでいたとされる。奴隷として売られてきただけではなく密入国してきた日本人も居た様である。昭和の時代に香港・マカオに売り飛ばすと言うベタな脅し文句があったが、当時もマカオに売り飛ばされていたのである。この問題が明るみになるのは1613年の様である。1613年、明はマカオからの日本人の追放と共に、中国人の売買禁止をマカオに命じている。しかし、マカオに於ける人身売買問題は18世紀になっても未だに問題になっていた。

Macao also functioned as a hub for the slave trade. From its establishment in 1557 until the mid-seventeenth century, a significant number of Chinese individuals gathered at this port with the Portuguese traders, entwining it with the darker facets of global trade networks.

マカオは奴隷貿易の拠点としても機能していた。1557年の設立から17世紀半ばまで、かなりの数の中国人がポルトガルの商人とともにこの港に集まり、世界的な貿易ネットワークの暗部と絡んでいた。
(この論文には後期倭寇が中国人中心であることの補足が書かれおり、ポルトガル人自身が、中国内で奴隷誘拐を行い、17世紀に入っても中国人を奴隷として売買していたことが書かれている。この論文の公開は2024年でマカオに於ける奴隷売買研究が進んでいない状況が分かる)

同上

 マカオでイエズス会が奴隷を所有していたかどうだがマテオ・リッチがマカオで奴隷を所有しているため確実に奴隷を所有していたらしい。彼はマンダリン(北京官話)が話せる黒人からマンダリンを習った模様。また護衛としても使っていた様だ。当時のマカオで黒人奴隷を護衛として雇うのは普通で、広東の富裕層の間ではポルトガル人のマネをして黒人奴隷を雇いれることがあったらしい。

The Jesuits order itself enslaved Africans, both in India and in Macau. Ricci himself had “black slaves” working for him in Macau.

イエズス会の教団自体が、インドでもマカオでもアフリカ人を奴隷にしていた。リッチ自身もマカオで 「黒人奴隷」を働かせていた。

https://thechinaproject.com/2020/08/05/matteo-ricci-and-the-slave-trade-that-connected-portugal-with-macao/

 ちなみにマテオ・リッチは、一夫多妻や契約婚も奴隷制の一種と見なしていたようだ。

マニラ ― スペインとポルトガルの制度が混在する

 マニラに関する事情は、ことさら分かりにくい。16-17世紀にかけてマニラはスペインによる中南米への奴隷貿易の起点であった。ポルトガル商人運ばれた奴隷は、マニラからメキシコまで運ばれていった。その中にカフルだけではなく中国人や日本人奴隷も混じっていたことは判明している。マニラがわかりにくいのは奴隷貿易網がスペインとポルトガルの両方にまたがっているからである。マニラから売られた奴隷はメキシコのアカプルコに着くとチーノ(アジア系奴隷)とカフル(アフリカ系奴隷)に分けられた様である。大雑把に分けられているが奴隷は、インド太平洋地域の様々な地域から集められていたようである。先述しただけではなく東南アジアのイスラム教徒やゴア周辺のインド人なども混じっていたらしい。しかしその比率となるとマニラではこれらを区別しなかったので分からないという。

The transpacific trade involved peoples from disparate places, including East Africa, Portuguese India, the Muslim sultanates of Southeast Asia, and the Spanish Philippines. Once the slaves arrived in Acapulco, they were categorized as either blacks (negros), also called cafres, or chinos. Many slaves, however, were not classified at all in the treasury records of incoming slaves, or in other kinds of documentation. It is therefore impossible to calculate the percentage of slaves who were from any one region.

太平洋横断貿易には、東アフリカ、ポルトガル領インド、東南アジアのイスラム教地域、スペイン領フィリピンなど、さまざまな土地から来た人々が関わっていた。奴隷がアカプルコに到着すると、彼らはカフルと呼ばれる黒人(ネグロ)とチーノに分類された。しかし、多くの奴隷は、入国奴隷の国庫記録や他の種類の文書ではまったく分類されていなかった。したがって、ある特定の国から来た奴隷の割合を計算することは不可能である。

Tatiana Seijas "The Rise and Fall of the Transpacific Slave Trade"

 もっともイエズス会がフィリピンでも奴隷を抱えていたことはイギリス人の記録から判明している。しかし、1574年にスペイン王がフィリピンにおける奴隷制を禁止したうえイエズス会はスペイン領から一度追放されているため16世紀から18世紀と19世紀移行では活動内容が異なり、マニラに関して見つかる資料は19世紀移行のものが多い。そもそもの話16世紀から17世紀の間、スペインはミンダナオ島でイスラム系先住民と戦いが泥沼化していたのである。

 マニラのややこしさの一因はスペイン人がフィリピンにおいて奴隷を扱うことは違法だが、ポルトガル人は合法だったことにあるようだ。

Portuguese traders to the Philippines could not be regulated by Spanish legislation and, given that they were considered legal by the Portuguese judicial system, they were accepted as legal by the Royal Audience of Manila.

フィリピンへのポルトガル人貿易商はスペインの法律で規制されることはなく、ポルトガルの司法制度で合法とされていたことから、マニラの王室謁見でも合法と認められた。

Lúcio de Sousa "The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan"


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