百済に倭人が文化を伝えていたとか
――だそうだ。ソースがハンギョレだけど。
韓国人風に言うと日本の進んだ文明を百済は受け容れていたもよう。
現状、日本書紀の記述を裏付ける証拠と言ったところか。倭と百済が同盟関係にあったみたいな――とはいえヤマトが百済に誰を送り込んでいたかなどと言う記録はほとんど無い。百済の記録は日本書紀の編纂時には、消滅していて、遺民がまとめた要約みたいなものしかないし、それも遺失していると来た。三国史記は、どこから史料をひっぱってきたのだろう。百済が滅んだとき史料も接収してきたのだろうか?
伝承において、百済は高句麗から分かれたとされているので、百済の支配域は高句麗が強く、高句麗の権威が必要な地域だったと思われる。そのような土地に倭人がわざわざ出張るメリットがない。高句麗への対抗上倭人官僚が軍事顧問みたいな感じで滞在していたとか、南朝への外交官の駐在地だった可能性があるくらいかな。代替、倭の五王の時代で、使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王を要求しているので根拠は存在する。ヤマト王朝直属かは分からないけど。
地政学的に見ると百済は任那に対する緩衝地になる。鉄を任那から輸入していた関係上、一番重要なのは任那で新羅と百済は緩衝地にしかならない。新羅も百済も稲作ではなく粟作地帯だから支配する価値は無いと思われる。その任那も鉄産業が衰退し(理由としては乱伐採による森林資源の枯渇、原料の鉄鉱石の枯渇などが考えられる)、国産製鉄がメインになると不要になるけど。
韓国の正しい歴史には楽浪郡も帯方郡も存在しないので嘘が書いてある。帯方郡が滅んだのは313年とされているので、百済が漢城に都を置けるのは313年移行。そもそも百済は、近肖古王(在位346年~375年) もしくはその一代前比流王(即位年不明)の以降が史実で、それ以前は伝説と考えられている。なお、475年に百済は高句麗に滅ぼされ、雄略天皇が熊津をあたえ百済を再建したと日本書紀にある。
そうすると漢城にヤマトの土師が住んでいたのは、恐らく4世紀後半から5世紀と言う期間に絞られる。
なお全羅道栄山江一帯が大伴金村が割譲した任那四県と完全一致するのは公然の秘密であるが、漢城百済ではなく熊津百済だからまず時代が違うと。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?