中世ヨーロッパと奴隷制

 中世ヨーロッパと奴隷制は相性が悪い。古代ギリシア、古代ローマ社会をベースとする奴隷制は、中世に入ると崩壊していく。代わりに領主達は小作農を利用する様になる。

 この領主ー小作農の関係をベースとし中世ヨーロッパは農奴制に変化していく。しかし農奴と奴隷は別モノなのだ。

 農奴はどういうしろものか?

1. 農奴は土地を所有する領主に所属する

2. 裁判権は領主に属する

3. 徴税権は領主が所有し、農奴は領主に定められた税金を納めねばならない

 ――農奴と社畜は似ている。

 農奴制は封建制の延長にすぎない。領主の土地を単位とした無数の国が存在し、そこには国王や上位貴族の権力は及ばなかった。それが領主裁判権や徴税権の存在だ。そこに国家が介入出来る様になるのは中央主権化の結果に過ぎない。中央主権化により裁判権が領主から国王に移り、税金を国に直接払う様に変化するのだ。

 これらは、結局のところ封建制を維持していた中核層である騎士階級の崩壊と独立自営農民の伸長の結果に過ぎない。その先は啓蒙専制主義や民主化が必要になる。

 中世ヨーロッパと奴隷の相性の悪さが分かるだろう。中世ヨーロッパの領主は農奴を所有していたもの、基本貧しい。領土経営には出費が嵩むので農奴に様々なもの貸し付け収入を得る必要があったのだ。これでは奴隷制が成立しない。奴隷制では全てものを領主を自腹で用意する必要がある。

 しかもキリスト教徒は奴隷にしては行けないとされ、遠方から輸入するしかないのも奴隷を高価な存在にしていた。またフランク人の奴隷制忌避も奴隷制崩壊に手を貸した様だ。

 しかも領主の子どもは一定の年齢になると他の領主に教育と言う目的で小姓と言う名目で奉公に出されていた。ぶっちゃけ下働き人がタダで手に入ったの。わざわざ高い奴隷を買う必要がない。

 ゆえに農業のプランテーション化に伴う近世奴隷の導入まで中世ヨーロッパ(南欧を除く)に実質的な奴隷制は存在しない(農奴と奴隷の中間が存在したともしないとも言われる)しかし、ヨーロッパにおいて法的に奴隷制が廃止されるのは19世紀以降になる(ポーランドのみ16世紀らしい)

 しかしながら中世ヨーロッパにも奴隷はいた。イタリアとスペインで奴隷の存在がみられる。南欧はイスラム圏と隣接しており、スペインやイタリアだけではなく13世紀の南仏にもイスラム教徒の奴隷が相当数居た様である。十字軍の戦利品として現地人を拉致し奴隷として売り払っていた記録もある。マルタ騎士団は軍艦の漕ぎ手としての奴隷を必要としており、北アフリカやトルコから調達していたようである。マルタには奴隷市場が18世紀まで存在したと言う記録がある。

 しかし、奴隷が売買されていた地域は概ね経済力が高く、イスラムと隣接している地域に限定されていた様である。

 中世ヨーロッパにおいては、奴隷は所有するより売り払った方がやはり儲かるのだ。中世に勃興したヴァイキング、ヴェネツィア、ジェノヴァなどはギリシャや東欧地域(スラブ人居住区)で(時には近くのキリスト教徒を)奴隷狩りをし、イスラム社会(北アフリカや中東)へ売り飛ばしていた。恐らく中世初期には東ローマにも奴隷を売っていただろうが詳細は不明だ。イスラム社会は古代オリエントの社会構造を引き継いでおり奴隷を必要としていた。しかもイスラム圏の奴隷は、異国民かつ異教徒の原則があるため、ほぼ全量を国外からまかなっていた。一般的にイスラム圏の奴隷はトルコ系奴隷が多かったようであるが、白人奴隷、黒人奴隷が特別視されていたのはアラビアンナイトを見るだけでも分かる。

 恒久的に奴隷を必要とするイスラムと言う商圏があるため中世ヨーロッパ社会は、奴隷を所有するより、イスラムに売り飛ばした方が儲かる構造になっていた。しかも砂糖や胡椒と言った嗜好品だけでなく生活必需品までもイスラムに依存していた。しかしヨーロッパには売り物がないのだ。ゆえにイスラム圏に奴隷を売り、舶来品を買った。この図式が変わるのは大航海時代の様だ。

 大航海時代になると砂糖や胡椒に直接アクセス出来るためイスラム圏と衝突が頻発する様になる。このとき、スペインやジェノヴァやヴェネツィアがイスラムに出荷した奴隷がスペインやヴェネツィアと戦う様なことがしばしば起きる様になりイスラム圏への輸出も先細りになる(それ以前から教会から禁令はでている)

 大航海時代以降もヨーロッパ諸国の売り物がない問題は片付いていない様だ。東アジアに進出したイギリスはインド貿易でも中国貿易でも自国に売り物がない問題を起こしていた。しかも、この二国は人的資源が安く唯一の商材たる奴隷すら商品にならない。(奴隷貿易により)新大陸から持ち込んだ銀と交換し続けなければならなかった。

 一方、イスラム教国とキリスト教国が混在していたイベリア半島では少なくともレコンキスタが終わる15世紀までは国内の奴隷制が維持されていた様だ。そのためかポルトガルとスペインでは建国当初から奴隷制に忌避がなかった様だ。

 レコンキスタが進みイベリア半島内での(異教徒)奴隷調達が難しくなったスペインやポルトガルはヨーロッパではなくアフリカ・アメリカ・アジアで奴隷狩りを始める様になる。

 やがてスペインやポルトガルの奴隷商売は自国の運営するプランテーションへの売りつけが中心になる。プランテーションは大量の奴隷を必要とするため、安価で大量の労働力を調達する必要があった。しかしアメリカ先住民は自らがばら撒いた伝染病により激減しており、白人移民も定住せず人手が全く足りない。そのため調達コストの安く暑さや病気に耐えうる西アフリカの黒人が集中的に狙われたのだろう。これらの奴隷は最初はイスラム商人から手に入れていたらしい。しかし大西洋を輸送しなければならない奴隷はどうしても高価になる。安価に手に入れるために国家的に奴隷狩りが行われるようになり、この手法はイギリスに受け継がれていく(イギリスは奴隷を輸出品としか考えていなかったようで国内の奴隷を容認しなかった)

 要約すると中世ヨーロッパは、奴隷制が禁止されていた訳ではないが、経済力が低すぎて奴隷を雇う余裕が無く基本的に奴隷は他国に売るものだった。しかし自国民の売買が禁止されていたので異教徒を拉致して(もしくは異教徒を利用して自国民を)売っていた。またイタリアには奴隷市場が存在した。

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