朝鮮王朝実録 総序(17)太祖 李成桂13

 威化島回軍の本編

五月, 大軍渡鴨綠江, 次威化島, 亡卒絡繹於道。 禑命所在斬之, 不能止。 左、右軍都統使上言: "臣等乘桴過鴨江, 前有大川, 因雨水漲, 第一灘漂溺者數百, 第二灘益深, 留屯洲中, 徒費糧餉。 自此至遼東城, 其間多有巨川, 似難利涉。 近日條錄不便事狀以聞, 未蒙兪允, 誠惶誠懼。 然當大事, 有可言者而不言, 是不忠也。 安敢避鈇鉞而默默乎? 以小事大, 保國之道。 我國家統三以來, 事大以勤。 玄陵於洪武二年, 服事大明, 其表云: ‘子孫萬世, 永爲臣妾。’ 其誠至矣。 殿下繼志, 歲貢之物, 一依詔旨, 於是特降誥命, 賜玄陵之諡, 冊殿下之爵。 此宗社之福, 而殿下之盛德也。 今聞劉指揮領兵立衛之言, 使密直提學朴宜中奉表計稟, 策甚善也。 今不俟命, 遽犯大邦, 非宗社生民之福也。 況今暑雨, 弓解甲重, 士馬俱憊, 驅而赴之堅城之下, 戰不可必勝, 攻不可必取? 當此之時, 糧餉不給, 進退維谷, 將何以處之? 伏惟殿下特命班師, 以答三韓之望。" 禑與瑩不聽, 遣宦者金完, 督令進兵。 左右軍都統使留完不遣, 又遣人詣瑩, 請速許班師, 瑩不以爲意。 軍中訛言: "太祖率麾下親兵, 向東北面, 已上馬矣," 軍中洶洶。 敏修罔知所措, 單騎馳詣太祖, 涕泣曰: "公去矣, 吾儕安往?" 太祖曰: "予何去矣? 公勿如是。" 太祖乃諭諸將曰: "若犯上國之境, 獲罪天子, 宗社生民之禍, 立至矣。 予以順逆上書, 請還師, 王亦不省, 瑩又老耄不聽。 盍與卿等見王, 親陳禍福, 除君側之惡, 以安生靈乎?" 諸將皆曰: "吾東方社稷安危, 在公一身, 敢不唯命是從!" 於是回軍到鴨綠江, 乘白馬御彤弓白羽箭, 立岸上遲軍畢渡。 軍中望見相謂曰: "自古以來, 未有如此人, 自今以後, 豈復有如此人?" 時霖潦數日, 水不漲, 師旣渡, 大水驟至, 全島墊溺, 人皆神之。 時童謠有木子得國之語, 軍民無老少皆歌之。 漕轉使崔有慶聞大軍回, 奔告于禑。 是夜, 上王與其兄芳雨及李豆蘭子和尙等, 自成州 禑所, 奔于軍前, 禑日午猶未知。 道遇支應守令, 盡奪其馬匹以行, 禑知大軍回至安州, 馳還京城。 回軍諸將請急追, 太祖曰: "速行必戰, 多殺人矣。" 每戒軍士: "汝輩若犯乘輿, 予不爾赦, 奪民一(爪)〔瓜〕, 亦當抵罪。" 沿路射獵, 故緩行師。 自西京至京城數百里之間, 從禑臣僚及京城之人、傍邑之民, 以酒漿迎謁者, 絡繹不絶。 東北面人民及女眞之素不從軍者, 聞太祖回軍, 爭奮相聚, 晝夜星奔, 而至者千餘人。 禑奔還入于花園。 瑩欲拒戰, 命百官兵仗侍衛, 聚車塞巷口。

 五月、大軍が鴨緑江を渡り、威化島まで行くと、道中、絶え間なく逃亡兵がでた。禑王は逃亡兵を斬り殺せと命令したが止めることはが出来なかった。

 左、右軍都統使は上奏した。

「臣らは、鴨緑江の浮き橋を通り過ぎましたが、前に大きな川があり、雨水で増水しているので、第一に急流に足をとられ溺れるものが数百、第二に急流はとても深いので川洲に駐屯して留まっていますが、いたずらに兵糧を浪費しています。ここから遼東城にいくと、その間にまた多くの大きな川があり、似たように渡るのがとても難しく、近いうちに條錄*1が不便な事情を言いにくるでしょうが、恐縮して話を聞き入れてしまうでしょう。しかし大事になることを言うべきものが言おうとしないのは不忠です。どうして厳罰をさけて黙っていられましょうか?以小事大*1は国を保つ道です。我が国は三国を統一してから事大に励んできました。洪武二(1369)年には玄陵(恭愍王)*3が大明国に事大しています。その表に『子孫万世、永遠に臣下になる』とあり、その誠意をみせるべきです。殿下は心をつぎ歲貢の物を一依に詔旨(勅旨)し、それにより特降を誥命(拝命)し玄陵の諡を賜られ殿下の爵に冊封されたのです。この宗社の服は殿下の盛徳です。今、劉指揮領兵立衛の言を聞き使密直提學の朴宜中の奉表した稟議を計ると、策はとても良い。今、命をまたずに大国を犯せば宗社は生民(人民)の福ではなくなります。今のこの暑雨のありさまで弓は壊れ鎧は重く兵馬は共につかれたまま堅城の下に向かう事になり戦は絶対に勝てないでしょう。攻撃しても絶対に取れないでしょう。今、このとき食糧も無く進退窮まり、どこにいけるのでしょうか?ただ殿下は特命を出し軍隊を戻すことが三韓の望みの答えです。」

 禑王と崔瑩は聞かず宦官の金完をおくり進軍を督促した。左、右軍都統使は金完を留めて送らず、また人をやり崔瑩に詣でて早く軍を返すことを許すように頼んだが、崔瑩は意見を変えようとしなかった。

 軍中に風評があり「太祖が旗下の親兵率いて、東北面向かっている。既に馬上にいるだろう」と、軍中はどよめいた。敏修はどうしてよいかわからず単騎で太祖のもとに馳せて行き、なみだを流して泣いていった「公が去ると私たちの安住はどうなるのでしょうか?」

 太祖は言った。「私がどこに去るのだろうか?君は、それをよしとしてはいけない。」

 太祖はそれから諸将を諭して「上国の国境を侵せば、天子の罪を得て宗社生民の禍になるだろう。私は、そのため従順をもって上の書に反逆し軍を返すことを請うたが王はまだ省みず崔瑩も耄碌して聞かない。そのため卿らと王に合い自ら禍福をのべ君側の悪を除けば人々は安らかになるだろう?」

 諸将は口々に言った「私の東方の社稷の安否は公の一身にあるので、ただ、その命令に従うだけです」

 これにより軍を戻し鴨緑江に至り、(太祖は)白馬に乗り、彤弓*4白羽箭を御し、岸の上に立ち遅い軍をすべて渡した。

 軍中で互いに眺めて言うには「古代より、このような人が、いまだいただろうか、未来にこのような人がまた現れるだろうか?」と。大雨が数日続いたが水は溢れず軍は渡った。渡り終えたとき大水がすばやく流れ全ての島が沈んだので人はみなこれを神のようだと言った。

 そのとき国を得る木子*5を語る童謠があり軍民も老いも若きも皆これを唄った。

 漕轉使の崔有慶は大軍が戻ってくると聞き慌てて禑王に報告した。
この夜、上王*6とその兄芳雨*7と李豆蘭の子和尚らが成州より禑王の所の軍前に奔ったが禑王は正午になっても未だしらなかった。

 道で支援に応じる守令にあい、ことごとくその馬匹を奪って行くと、禑王は大軍が安州まで戻ってきているのを知り京城に馬に乗り戻った。

 回軍の諸将は猛追を請うたが太祖は言う「速攻は必ず戦になる、多くの人を殺すだろう」

 軍兵を戒めて何度も言うには「あなたたちがもし天子の車馬を攻撃するなら、わたしはあなたを許さないだろう。民の爪一枚(瓜一つ)を奪うのも罪になる」

 道を周辺で狩りを行いながらゆっくり軍を進めた。

 西京(平壌)から京城(開城)にいたる数百里の間に禑に従う家臣や京城の人、傍らの邑の民が酒や飲み物をもって歓迎するものが絶え間なく続いた。

 東北面の人民と女真で従軍していないものが太祖が軍を返したと聞き、先を争い一同集まり、昼夜奔走し従軍するものが千余人いた。

 禑王は逃げ帰り花園に入った。

 禑王は戦いをこばみ、百官に武器を持たせ侍衛に命じ、車を集めてで入口の道を塞いだ。

*1 條錄 官職だが詳細不明。高麗末期に置かれた職の様である。
*2 以小事大 小をもって大に事うる。小国が大国に礼をもって仕えること(孟子) 通常、大国に媚びへつらうことで国を保とうとする保身戦略を指す。
*3 玄陵 恭愍王を差す。恭愍王は陵墓をもって記すことが多い。
*4 彤弓 赤く塗った弓
*5 木子は木こりのことだが、李の暗示である。この後起きる李成桂による王家乗っ取りを示唆している
*6 李芳果(のちの定宗) 太祖実録が編纂されたときに太宗に譲位させられて上王になっていたのでこう書かれる。
*7 李芳雨 李成桂の長男。1394年に亡くなっている。持病があり早くから隠遁していたらしい。

※ 進めば餓死、引き返せば賜死なのでクーデターを企てたのだろう。

六月朔, 太祖屯崇仁門外山臺巖, 遣柳曼殊入自崇仁門, 左軍入自宣義門, 瑩逆戰, 皆却之。 太祖之遣曼殊也, 謂左右曰: "曼殊目大無光, 膽小人也, 往必北走。" 果然。 時太祖放馬于野, 及曼殊奔還, 左右以白, 太祖不應, 堅臥帳中。 左右再三白之, 然後徐起進膳, 命鞁馬整兵。 將發, 有矮松一株, 在百步許, 太祖欲射松卜勝否, 以一衆心。 遂射之一矢, 松株立斷, 乃曰: "再甚麿?" 諸軍士皆賀。 鎭撫李彦出跪曰: "陪我令公往, 何處不可行乎?" 太祖由崇仁門入城, 與左軍掎角而進。 都人男女爭持酒漿迎勞, 軍士曳車以開路焉, 老弱登山望之, 懽呼踴躍。 敏修黑大旗, 太祖黃大旗。 黑旗至永義署橋, 爲瑩軍所奔, 俄而, 黃旗由善竹登男山, 瑩麾下安沼率精兵先據, 望旗奔潰。 太祖遂登巖房寺北嶺, 吹大螺一通。 時, 行兵諸軍皆吹角, 獨太祖軍吹螺, 都人聞螺聲, 皆知爲太祖兵。 於是軍圍花園數百重, 禑與靈妃及瑩在八角殿。 郭忠輔等三四人, 直入殿中索瑩, 禑執瑩手泣別, 瑩再拜, 隨忠輔而出。 太祖語瑩曰: "若此事變, 非吾本心。 然非惟逆大義, 國家未寧, 人民勞困, 冤怨至天, 故不得已耳。 好去好去。" 相對而泣, 遂流瑩于高峯縣。 侍中李仁任嘗言曰: "李判三司, 須爲國主。" 瑩聞之, 甚怒而不敢言, 至是嘆曰: "仁任之言, 誠是矣。" 兩都統使及三十六元帥, 詣闕拜謝, 韓山君 李穡與留都耆老宰樞謁太祖, 太祖與穡語良久, 還軍門外。 先是, 潛邸里有童謠曰: "西京城外火色, 安州城外烟光。 往來其間李元帥, 願言救濟黔蒼。" 未幾有回軍之擧。

 六月朔日ついたち、太祖は、崇仁門の外の山臺巖に駐屯し、柳曼殊を派遣し崇仁門から入った。左軍は宣義門から入ったが、 崔瑩が戦いをしかけてきたので、全軍退却した。

 太祖は柳曼殊を派遣したのを左右に言うには「柳曼殊は目が大きく光無く肝が小さいので、必ず逃げ帰ってくる」

 果してそうなった。

 そのとき、太祖は馬を野に放し、それから柳曼殊が逃げ帰ってきて左右に話したが、太祖は応じず、とばりの中ですっかり寝ていた。

 左右がそのことを何度も話すと、そのあとで少し起きて食事を食べ馬に鞍をのせ兵を整えるように命じた。

 軍を発すると矮松が一株、百歩の距離にあり、太祖は松を射ることで勝敗を占おうとしたので一同見守った。そして、一矢を射ると松株は断ち切られたので、「もうやらなくて良いだろう?*8」
軍兵達は皆祝賀をあげた。

 鎭撫の李彦出が跪いて「わが主君の行くのに従いましょう。どこに行けばいいのでしょうか?」

 太祖は崇仁門より入城し、左軍と前後に呼応し進んだ。

 みやこの男女が争って酒や飲み物を持ってねぎらい、軍兵は車を引いて道を開けると、老人や子どもは山に登りこれを眺め、歓呼し踊り回った。曺敏修は黒大旗を掲げ、太祖は黃大旗を掲げた。

 黒旗が永義署橋に行くと、崔瑩の軍は逃げだし、黃旗が男山を登り善竹に行くと、先に崔瑩の旗下安沼率いる精鋭が居て、旗を見つけると潰走した。
それから太祖は巖房寺北嶺に登り、大きな法螺を一度吹いた。

 そのとき、諸軍の行く兵は、みな角笛を吹き、太祖軍のみ法螺を吹いた。都の人は法螺の音を聞いて、太祖の兵を知った。

 それから、軍は花園を数百十に囲み、禑王と霊妃それから崔瑩は八角殿にいた。

 郭忠輔ら三、四人がすぐに殿中に入り崔瑩を探したので、禑王は崔瑩の手を取り泣き別れ、崔瑩は再拝し、郭忠輔につきしたがい出た。

 太祖は崔瑩に語った「このたびの事変は私の本心ではないのだ。それに大義に逆らったのではない、国家がいまだに安寧にならないので人民は困窮し天に怨念が届いたので、やむをえずしたことだ。さよならだ」

 互いに泣きあい、それから崔瑩は高峯縣*9に流された。

 侍中の李仁任はかつて言った「李判三司(李成桂)は、国主にならなければならない」

 崔瑩はこれを聞き、激怒したが敢えて言わなかった。この時、嘆息して「李仁任の言葉は、事実だった」と言った。

 両都統使と三十六元帥は、宮城に詣で拝謝し、韓山君の李穡と留都耆老宰樞は太祖に謁見し、太祖と李穡は長く良く語らい、軍を門の外に返した。

 これより先に、邸里に潜む童謡があって「西京(平壌)城外は色が火になり、安州城外は光がけむる。その間を李元帥が往来し、願わくば百姓を救濟せん」と言う。

回軍の挙はいくつもある。

*8 原文に麿と言う字があるが、実は日本固有の国字で、誤字か異字かとにかく元の字が分からないので訳せない。
*9 京畿道高陽市あたり

※ 実は、このとき大規模な倭寇が入り込み、それは無人荒野を行くがごとくだったのである。ちなみに次は曺敏修一派と李成桂一派が対立するのである。


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