朝鮮王朝実録 総序(13)太祖 李成桂9
胡拔都は遼東あたりに勢力を持っていた女真の一族らしい。ところで、高麗史によれば胡拔都は、兵千人ぐらいで義州(北西)から侵入し、長白山周辺の辺境を荒らしていた様なのだが、この程度の兵ですら一年ほど追い出せていないのである。実際のところ平安道は李朝に入っても半ば独立した勢力が占有している状態だった様である。
高麗の末期は、官が兵を戸籍に登録せず、諸将が各々兵を集め、これを牌記といった。大将の若崔瑩、邊安烈、池龍壽、禹仁烈らは、幕僚と士卒に意のままにならないものがあれば、至る所で口汚くののしり辱めた。あるいは、鞭打ちをあたえ死に至るものも居た。旗下の多くは恨みをもっていでいた。
太祖の性格は、厳格で寡黙だったので、平時は常に目を閉じて座っていたが、見た目は凜々しく、人に接しているときもそうだったの。一団と和気藹々と混じり合ったので、人はみなうやまい、敬愛した。その諸将の中にいると、一人旗下に礼をもって接し、平時は罵ることがなかったので、諸将の旗下は、皆、所属したいと願った。
※ 徴兵制が崩壊して、各自が私兵を抱えていたらしい。有力勢力が私兵を抱えていたためクーデターが多発している。李朝初期にも第一次王子の乱と第二次王子の乱が起きている。
辛禑八(1382)年壬戌の秋七月、太祖は、東北面都指揮使になった。
その時、女真族の胡拔都が、東北面の人民を掠い連れ去っていたので、太祖は東北面の軍務を監督し、威信を素直に現し、人を派遣して慰撫をした。
韓山君の李穡が詩を作って送ってくるには、
松軒膽氣蓋戎臣, 萬里長城屬一身。 松軒*1の膽気、戎臣を蓋い 万里長城を一身に属す
奔走幾經多故日, 歸來同樂太平春。 奔走幾経多き故日 帰来、太平の春を同じく楽しむ
如今大勢關宗社, 況是前鋒似鬼神。 今大勢の宗社の関する如く 況んや是れ前鋒、鬼神に似る
聯袂兩朝情不淺, 只將詩律送行塵。 連袂両朝の情浅からず 只、将に詩律を塵行送す
*1 李成桂のあざな
※ 実際に胡拔都が侵入したのは正月で、遼東から義州に入って居る。
辛禑九(1383)年癸亥八月、胡拔都が再びやってきて端州*2を寇した。副萬戸の金同不花が内応し、財貨を根こそぎ日が昇るまで執着して後にした。
上万戸の陸麗、靑州上万戸の黃希碩らは、みな戦に負け続けた。その時、李豆蘭が母の喪で靑州にいたので、太祖は使者を送って言わせた。
「国家の急事だ。あなたは家に居て喪服を着てはいけない。その喪服を脱ぎ私に従え」
李豆蘭は喪服を脱ぎ、天に告げ拝哭し、弓をおび、矢箭を抱えて行った。
胡拔都と吉州平で遭遇し、李豆蘭は先鋒として、先に戦をしたが、大敗して帰った。
太祖がしばらくして行くと胡拔都は厚い鎧を三重に着て紅褐色の衣を羽織り黒牝馬に乗り横に陣をひいていた。太祖を軽く思い、その軍兵を留めて、剣を抜き身を挺し馬を駆けた。太祖もまた単騎で、剣を抜いて駆けて進んだ。剣を振るい打ち合ったが、双方、全てを回避して当てられなかった。胡拔都が騎馬に及ばないのをみて太祖は騎馬を急に回し、弓を引き、その背を射た。鎧が厚いので矢が深くささらなかった。そこで、またその馬を射貫いた、馬は倒れおちた。太祖はまた射ようとしたが、その旗下が沢山来て助けようとしたので、我が軍もまた集まった。太祖は兵を操り、これを破ると胡拔都はひそかに身を隠してさった。
太祖が献じた安邊の策*3によれば
「北界と女真、達達*4、遼寧瀋陽の境はともにつながっている、 実に国家の要害の地だ。平時に於いても、必ず、兵糧を蓄え兵をやしなうことで不慮の自体に備える。今その居留民は、いつも彼らと相互に市をたて、日々慣れ親しんでおり、婚姻を結んだりして、彼らはその氏族に属しているのだ。そのため誘引したり、また故郷に導いたりするので入寇がやまない。唇なくして歯寒し*5、東北面の憂いだけをなくすだけではないのだ。そして兵の勝ち負けは、地の利の得失にある。彼らの兵が拠るところは我が西北に近く、兵は不意にくるので、利を重んじ、遠くは、私の吾邑草、甲州、海陽*6の民を食らわせ、これを誘致する。今また端州、禿魯兀*7の地に突入して人や物をかすめ取る。それにより、これを見れば我が要害の地の利の形勢がかたい事を彼らは知るだろう。臣は方面を受任し坐視できず、謹んで辺境の策をのべるので聞くように。
一、外敵(寇)を防ぐ方法、練兵を整えて配置せよ。
今は無訓練の兵を遠地にバラバラに置いている。そのため外敵が来てから慌てて召集し、それが到着するときには外敵は既に掠奪をしおえて帰っている。たとえ戦に間に合ったとしても、軍旗や鼓が十分ではなく、戦い方も習っていないではないか?今より練兵を行い兵卒を訓練し、厳しい軍規を守らせ、号令をはっきりとし、変事を待つようにし、(反撃の)機会を失ってはいけない。
※ 常備軍を置け
一、軍団の命は、兵糧にかかっている。
たとえ百万の軍がいても、一日の兵糧は一日しか軍が行動できず、一ヶ月の兵糧は一ヶ月しか軍が行動できない。一日も食べないことがあってはならない。この道(北界)の兵の食糧は、昔は慶尚、江陵、交州の穀物を運んで支給していたが、今は道内の地税に代わっている。
近ごろ水害や旱魃により、公私ともに食糧が付き、遊手の僧、無賴の徒、仏寺の托鉢僧に加わえて、権力者が書状を持たせ州郡に謁見し、民の米や布を借りたり、残り少ない食糧と布を収奪したり、反同と言い債務のように徴収を行ったりするので、民は飢えて凍えている。
また、役所や元帥たちが人をやり、食の有るところに群れをなしていき、骨身を削らせているので民は苦痛に耐えず土地を捨て逃亡しているものが十のうち八、九いる。これでは兵糧を出す方法がない。これら全てが禁止されれば百姓は安らかになる。また、道内の州郡は山や海に阻まれ土地は狭く痩せているが今の税は耕田(田畑)の多寡を問わずに戸の大小のみを見て取っている。道内の和寧は、土地が広く富んでいるが、全て官吏の地禄で、官は地税を収めず不公平に民から取っているので兵糧には足りない。今後、道内の諸州と和寧では、耕田の多寡で税を一律に科し、これを公私に用いること。
※ 百姓だけに重税が課せられているので、両班様からもしっかり税金を取る。
一、 軍と民が統一して管理されていない(統属していない)のでさし迫った事態に互いを保つのが難しい。これよりは、先王(恭愍王)の丙申の教をもって、三家を一戸とし、百戸をひとまとめにし、帥営に隷属させて統べよ。事が無ければ三家を番上(一番手)に則り、有事は俱出(共に出す)に則り、事が急ならば、悉発家丁(壮丁をことごとく挑発)に則る。誠に良法だ。近ごろは法が廃止され、所構わず頻繁に、毎度挑発していて、散らばっている民は、山谷に逃散し、召集が困難になっている。今はまた旱魃による飢饉により、民心がますます離れていて、これらに用いる金銭や穀物は、食糧で雇ったもぐりの軍が掠奪して帰る。一界の民は窮しているので、まともな心がなく、またこのように雑に扱われているこの様子を彼らは見て、利にしたがうと見透かす。実に守るのが難しい。丙申の教によることで、軍戸を正しく改め、統属を行うことで、民心を団結できる。
※ ただでさえ飢饉なのに、両班様が掠奪してるので民が疲弊していて逃走して、賊に参加している上に戸籍を管理していないので兵も食糧もない。
一、民の良し悪しは、守令*9にかかっていて、軍の強き弱きは将帥にある。
今の地方官は、権力者の門下で、権勢を頼みにして職務をサボっており、その用事を解決するのに軍を使う。民はその業を失い、戸口は消耗し、府庫は、枯渇する。
今、仕事に励む正直ものを公選して民に臨ませ、身寄り無きものを慰撫して、また将帥のために優れたものを選んで、軍をまとめさせれば、国家を守れるだろう。」
※ 両班様が腐っているからまともな行政官と軍人を置け
*2 端州 咸鏡南道端川市か。 高麗史 辛禑九年八月「我太祖大破胡拔都于吉州」
*3「安邊府」を差すのか「辺境を安ずる」を意味するのか判断つきかねる。*4 恐らく水タタールのこと(黒竜江流域に住むツングース系諸民族)
*5 唇亡びて歯寒し 一蓮托生と言った意味(春秋左伝) 東北面が危うくなれば高麗全土が危うくなると言う意味合い
*6 甲州は両江道甲山、海陽は咸鏡北道吉州 どちらも女真の地
*7 端州、禿魯兀は咸鏡南道端川市か
*8 丙申の教 恭愍王五(1356)年に出した令か?
*9 守令 地方官のこと
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