妄想邪馬台国(7) 中華思想と一万二千里

 今回は、種本に「魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国」(中公新書) 渡邉義浩著を使っている(それに独自の解釈が混ぜている)

 まず、なぜ魏書に於いて倭国伝が重要かは、誇大報告説で書いたが「司馬懿を賞賛するため」三国史は晋の時代に書かれ、晋の正統性を記したプロパガンダ書で、魏が正統で、晋の司馬炎の祖父司馬懿の功績をたたえる必要があるわけだ。

 三国志は、後漢書より先に書かれており、後漢書の方が編集に時間がかかったと言う理由以外に急いでまとめる必要があったと考えられる。その理由は晋の正統性に帰着するだろうが、その所為で、後漢書の東夷伝の記述が三国志の引き写しになってしまい参考にならない。

 「司馬懿を賞賛するため」のピースは2つで、一つは諸葛亮、もう一つが邪馬台国だ。最初は、司馬懿と互角に戦った諸葛亮って奴は凄いと言う話(蜀書諸葛亮伝は冗談抜きで長い。蜀書の他の伝があまりに短いのを考えると魏晋はガチで諸葛亮研究やっていた気もする)。もう一つは、遼東を占拠していた賊公孫淵を滅ぼす事で邪馬台国と言う大国が使節を送ってきた。その功績により呉を滅ぼす事が可能になったと言う話。

 その代わり西戎伝、南蛮伝を書いていないのだ。西戎の大半は蜀の影響下にあり、南蛮の大半は呉の影響下だった。魏の正統性を書くには都合が悪い。ゆえに曲筆した。曹真の功績である大月氏国は、司馬懿を賞賛するために邪魔なので削除。司馬懿が、曹真の子曹爽と対立していたからと言う理由もあるだろう(裴松之は西戎伝を魏略から引き写したが、南蛮伝を写しわすれた様だ)

 次に邪馬台国までの距離である。他の東夷伝はここまで細かく経路を書いていない。その理由は、細かく書く必要があったからだ。

 まず尚書によれば天下は方一万里とされている。その概念で行くと、中華の東西の果てが五千里になる。つまり帯方郡は都(洛陽)から五千里に設定される。しかし、どう計っても五千里ない。

 この概念から言えば、つまり魏志倭人伝に出てくる里は、計算した上でだした距離ではなく、宗教上の距離だ。

 帯方郡から狗邪韓国までが七千里なのも恐らく宗教上の距離だ。

從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。

 從郡とあるため帯方郡と読むが、本来は從都至倭だった可能性が考えられる。そうすると都(洛陽)から狗邪韓國、対馬、壱岐、末盧で一万里になる。恐らく、ここから先が邪馬台国と言う意味の可能性がある。三国史が編集される前に、この部分が書き直された可能性がある。その理由には後述する理由があるだろう。

 その理由は、魏略でも

従帯方至倭循海岸水行歴韓国到拘邪韓国七千里

 帯方郡から狗邪韓國までが七千里になっているからである(現実には二千里無い)。つまりこの設定は、晋に入ってではなく、魏の時代に作られたと言う事になる。

 次に方角の問題だ。司馬懿の功績をたたえるには、倭国は孫呉の東方にある必要がある。ここには司馬懿は、倭を以て呉を牽制したと言う文脈が内部にあるからだ。もしくは初めから南東にあるものと考えられた可能性もある。魏略と魏書の比較だけでは分からなそうである。魏略が書かれたのは魏の時代だとしても司馬家に実権が移っているからだ。

 それが帯方郡の南東、会稽の東方と言う言葉で現されている。これも宗教上の方角である。

 邪馬台国は帯方郡の南東、会稽の東方になければならない。そのために東南や南へ移動するしかない。この部分を三国史では「當在會稽東冶之東」としている。これは「まさに会稽東冶の東にあるべし」と訓読するが、作者がそう思ったと述べているだけである。事実を記した訳ではないのだ。事実であれば「當」の文字は必要ないのだ。

 先の残りの計算をする。対馬千里、壱岐千里、末廬千里。この距離は水行と言う性質上、測量を行わない限り正確な距離は計れない。

 そして末廬国までで一万里を消費している。そうなると邪馬台国は、その外にあると言う意味しかなくなる。一万二千余里と言うのはプロパガンダ上の距離だ。つまり一万二千余里と言う距離が最初にあり、そこから逆算で距離を割り振っているのだ。

 ――であればそれ以上を里で書くことができなくなる。その理由は計算が合わなくなるからだ。ゆえに日付のみを記述したのだろう。

 ちなみに魏書から削られた大月氏国(大月氏国の朝貢は司馬懿のライバルの曹真の功績)までの距離は洛陽から一万六千三百七十里らしい。こちらは十里の単位まで数字が出ている。陸行だから正確な距離が測れたのだろう。

 洛陽から帯方郡までが五千里、帯方郡から邪馬台国が一万二千里で一万七千里になり、大月氏国に匹敵する。つまり邪馬台国の距離は一万七千里と言う数字が先にあり、後から辻褄を合わせたものだろう。

 結論:距離も方角もあてにならない事だ。

 そうなるとヒントになるのは水行二十日、水行十日陸行一月だけになる。

 水行の考察については以前書いた。二十日で大阪までは帆船がないと厳しいかもと言う奴。

 なお狗奴国は、呉とつるんでいた説もあるらしい(孫呉から送られた呉鏡と言うのも日本から出ている)

 しかし、三国志は、西戎伝(蜀の影響下にあった)と南蛮伝(呉の影響下にあった)をわざと削っているので消失した元本が見つからない限り分からないだろう。

 概念里の所為で逆に分かりにくくなっている。日付で書いた方が計算しやすい。

景初二年六月。倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏、將送詣京都。其年十二月詔書報倭女王、曰「制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利、奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。

  帯方郡から洛陽まで通交できるようになったのは司馬懿が公孫淵を滅ぼした景初二年八月以降。そのため景初三年に取る説もある。

 しかし、水行10日、水行20日陸行一月、伊都国まで往復2ヶ月もしくは4ヶ月。伊都国から狗邪韓国までは片道1ヶ月みた方が良い。司馬懿は洛陽から遼東まで100日かかると言っており(徒歩移動の場合)、洛陽から帯方郡まで往復7ヶ月はかかる。

 帯方郡で報を聞いてから使節を送っても邪馬台国に到着するのは早くて3ヶ月後。そこから使者を送って7ヶ月。景初三年六月でもまだ早い。

 そのため、たまたま帯方郡に居た使者をそのまま洛陽に送ったのではないだろか。献上物がしょぼい理由もそれで説明がつく。朝見ではなく交易に来ただけ。持っていったのは売れ残り。

 邪馬台国ではなく伊都国から送った使者かも知れない。

其四年倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢。

 後の使節は、本来の交易物を持っているようだ。

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