朝鮮王朝実録 総序(8)太祖 李成桂4
ここに書かれているのは要するに、咸鏡南道を廻る李成桂を含めた女真族の勢力争いである。後に出てくる胡拔都(1382年)や乙丑(1385年)の倭寇(海から来た賊を全て倭寇と判断したようである。この雑な記録が後の応永の外寇=一万七千余を派遣して対馬でボロ負けしたやつにつながる様だ)もこの争いの一部だろう。その原因は、紅巾の乱とモンゴルの衰退にある。元の北走により宙に浮いた地方が満州地方である。朱元璋が北伐により満州を手にいれるまで朝鮮北部と満州で複数の女真族がせめぎ合う不安定な時代が続きしばしば高麗を侵すのである。
恭愍王十三(1364)年、甲辰。奇氏たちが処罰されたので、奇皇后*1は恭愍王を憎んでいた。本国の崔濡は元にいる将を同志とし不逞な輩と皇后を説得し、王を廃し、代わりに立德興君 塔思帖木兒*2を王として擁立しようとした。
遼陽省*3の兵を発し、正月、鴨綠江を渡った。王は賛成事*4の安遇慶などを防衛のため使わしたが、負けて安州まで撤退した。王は、また賛成事の崔瑩*5に命じ、精兵を安州*6に節度諸軍を向かわせようとした。太祖に東北面の精鋭千騎を率いてくるように命じた。
密直副使の李龜壽、知密直司事の池龍壽、版図判書の羅世と安遇慶は左翼に、判開城の李珣、三司左使の禹磾、密直使の朴椿と太祖は右翼に、崔瑩を中軍に配置し、定州*7まで進軍した。
太祖は諸将が敗北するとみて、怯懦で力戦にならないと言うので諸将はこれをいまいましくおもった。そのとき賊は既に隨州の㺚川*8に駐屯していた。
諸将が太祖に言うには「明日の戦は、お前一人で当たれ」
太祖は諸将が忌んでいるのを知り、すこし心を痛めた。翌日、賊は軍を三つに分けた。太祖は中央に、手下の老将二人を左右に各々その一隊を当たらせ、奮戦し撃退した。太祖が馬に乗っていたとき、ぬかるみにはまり危険に陥ったが馬を奮い立たせ躍り出てくると周囲はとても驚いた。太祖が賊将を数人射て、そしてこれを大いに破った。太祖が二人をみると、二人は剣を抜いて乱撃したので賊はとうとう崩壊して逃げ出し、ただ塵と埃が空に舞っているだけだった。
*1 元の皇帝順帝トゴン・テムルの皇后オルジェイ・クトゥクの事。幸州奇氏出身の高麗人。
*2 德興君王譓は高麗第26代忠宣王の庶子で、フビライの孫に相当する。
*3 遼陽等処行中書省 今の東北三省(満洲)
*4 高麗史 第七十六「贊成事 成宗置內史侍郞平章事、門下侍郞平章事。文宗定門下侍郞平章事、中書侍郞平章事各一人;又於中書、門下各置平章事,秩正二品。忠烈王元年改爲僉議侍郞贊成事、僉議贊成事,二十四年忠宣以宰執員冗,論議異同,事多稽滯,乃罷之;尋又復之。三十四年忠宣改中護,定三人,秩仍正二品;後復稱贊成事。恭愍王五年復文宗舊制,九年稱平章政事,十一年復爲僉議贊成事,十八年改門下贊成事。」 参議に相当するらしい。
*5 高麗末期の武人、李成桂のクーデター以前の軍功はほぼ崔瑩による。事大先を廻って後に李成桂と仲違いする。
*6 今の平安南道安州市か?
*7 今の平安北道定州市
*8 平安北道定州市㺚川洞か?
※ 高麗史 十一年「十二月癸酉,王聞元立德興君塔思帖木兒爲國王,疑朝臣有貳,遣吏部尙書洪師範,爲西北面體覆使,審察情僞。丙子,以成俊德爲濟州牧使。癸未,以壽春君李壽山爲東北面都巡問使,定女眞疆域。癸巳,以密直副使柳芳桂爲文阿但不花接伴使,往勞于濟州。遣贊成事柳仁雨如元,賀聖節,僉議評理黃順謝賜衣酒。高家奴遣使來,獻羊四頭,且請處女,以前中郞將金光徹女,送之。辛丑,以崔宰爲星山君。」
そもそも三海陽(今の吉州*9)では、ダルガチの金方卦*10が度祖*11の娘を娶っており、太祖のまたいとこの三善三介*12が産まれた。
守将の全以道や李熙らは、軍を捨て逃走した。都指揮使の韓方信、兵馬使の金貴は、兵を和州に進めたが破れて、鉄関まで退却した。和州より北すべてを奪われたのだった。官軍は負け続け、将兵は士気を失い、日夜太祖が来るのを望んだ。
*9 咸鏡北道吉州か?
*10 女真人と思われる
*11 李ブヤンテムル
*12 名前は「三善三介」、「三善と三介」か分からない。女真語だろう。散吉と通じるところがある。
*13咸鏡南道咸州
※ なろう系なので李成桂がいない軍隊はものすごく弱い
※ 高麗史 十三年「(甲辰)十三年春正月丙寅朔,崔濡以元兵一萬,奉德興君,渡鴨綠江,圍義州,都指揮使安遇慶,七戰却之。復出與戰,都兵馬使洪瑄被擒,我軍敗績,走保安州,濡入據宣州。王命贊成事崔瑩,爲都巡慰使,將精兵,急趣安州,節度諸軍,又命我太祖,自東北面,率精騎一千赴之,都体察使李珣,都兵馬使禹磾、朴椿,引軍來會,我軍復振。以羅世代洪瑄。乙亥,以廉悌臣領都僉議,洪彦猷、金元命爲密直副使。丁丑,以平昌縣令裴仲連,貪殘不法,籍其家。以黃裳爲東北面都巡討使。庚辰,以贊成事宋卿知密直司事,金續命爲西北面體覆使。女眞三善、三介等,寇忽面、三撒,王命交州道兵馬使成士達,發精騎五百,往擊之。賊陷咸州,守將全以道、李熙,弃軍走還,都指揮使韓方信、兵馬使金貴,進兵和州,亦潰,退保鐵關,和州以北皆沒。壬午,大護軍金斗體覆西北而還。時軍卒寒餓,著蓑自溫,斗米換馬。道殣相繼,亡卒行乞滿路,形容羸瘁,而用事之臣,壅蔽不聞。是以,體覆之使,雖相望於道,軍中虛實,王竟莫之知。癸未,我軍行至定州,賊已屯隨州之㺚川,我軍擊敗之,賊遂焚營,渡江而走。丙戌,西北面都元帥慶千興,遣人告捷。王喜,遣使賜千興酒布,告諸道。己丑,東寧路萬戶朴伯也大,入寇延州,崔瑩擊却之。辛卯,以金光祚爲東北面都巡慰使。」
二月、太祖が西北面に軍を引き連れて鉄関に来ると人はみな歓喜し、将兵の士気は倍になった。韓方信*14と太祖は、軍を三つにわけて侵攻し、大破して敗走させた。和州、咸州などをことごとく取り戻した。三善三介は女真*15に走り、帰ってこなかった。王は、太祖を密直副使に任じ、奉翊大夫に位階し、端誠亮節翊戴功臣の号をあたえ、また金帯を贈り、ますます重用した。
*14 都指揮使 韓方信 この時代、李成桂は、韓方信の軍下だったのだろう
*15 この女真の本拠地は、恐らく咸鏡北道だろう。
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