朝鮮王朝実録 総序(6)太祖 李成桂2
出仕から紅巾賊まで。朝鮮王朝実録は実は嫌韓本じゃないかと思い出す昨今。
高麗の恭愍王五(1356)年丙申(すなわち至正十六年*1) 太祖は二十二歳で初めて出仕した。高麗の俗では端午のたびに武官の年少者と衣冠子弟を選んで擊毬*2の芸を習った。その日になると、九逵において龍鳳帳殿が設けられ、敷物の門を道中に立てると王は御帳殿でこれを観た。宴会が設けられ、女楽を張り、卿や大夫は、みなこれにしたがい、 婦女は、また於路の左右に幕を結び錦段を着飾って名画は敷物を彩り、見物者はみな賭けをしていた。擊毬する者は、服を着飾り、派手さを競った、鞍一つの費用は、中人*3十家分の資産に相当した。
二隊を分けて作り、左右に立つと、一人の妓生が毬を取り、国王の前で唄う。
「簫皷、庭に満ち飛毬簇まり、 絲竿、紅網、総て頭を擡げる」
音楽の鳴る中をみな進んだり退いたりした。毬が投げられると左右の隊はみんな、先を争い馬をはしらせ、あてたものが得て、残りは立ち退いた。
擊毬のルールは、競技場でまず馬を走らせて、杖の内側で、毬に挑み(排之と言う)、杖の外側で、毬を運ぶ(持皮と言う)。三回の試行が終わると馬を走らせ毬を追い撃つ。毬は最初、縦に撃たず杖を取り橫にあて馬をそろえる。これを比耳と言う。比耳の後は、手を挙げ縱に撃つ。手を高くあげ杖下から持ち上げる。これを垂揚と言う。門を出るものは少なく、門を通過するのもは十のうち二、三。道にあて諦めるものも多い。もし、門にいれるものがいれば、同じ隊の人が、すぐに馬を下りて殿前*4に進み、再拜*5した。太祖はまたそれに選ばれた。毬が行った時、馬をとても素早く走らせ、垂揚をとめたのだろう。毬は驚くべきことに、たちまち石にさわり、馬の四足の後を出て逆走した。太祖は上手い具合に側身を臥せるらと、馬の尾に毬をあてた。毬が馬の前の両足の間にもどってきたので、これを打ち門に出した。その時、人はこれを防尾と言った。行撃のときは、また垂揚をとめ、毬は橋柱にあたり、馬の左にでたので太祖は右鐙を脱ぎ身を翻し撃ちに毬にあてた。さらに撃つと門を出た。この時を人はこれを橫防と言った。国をあげておどろかせた、未だかつて聞いたことが無いと。
*1 父李子春が高麗に寝返った年。なお高麗は1356年に元の元号の使用を廃止している。
*2 擊毬 古代ポロ。紀元前6世紀頃ペルシアで発明されシルクロードを経由して中国に入ってきたとされる。唐代に流行った。日本には遣唐使を通じて入ってきており打毬と呼ばれているが、鎌倉時代に実践馬術が中心になると廃れた。今のものは江戸時代に再興されたものらしい。遼及び金では擊毬は重五(端午)、中元、重九(重陽)の日に拝天の儀式で行われたとあり、端午に高麗で行われていた擊毬は契丹から入ってきた蓋然性が高い。蹴鞠と混同されやすいが別物。馬を使わず驢や徒歩(ほぼホッケー)で行うものもある 高麗史の睿宗五年(1111)が恐らく初出。太祖元年に、毬庭と言う文字が出てくるが恐らく蹴鞠を行う場所を指す。「庚申,御重光殿南樓,閱神騎軍士擊毬,賜物有差。壬戌,御重光殿南門,引見北界蕃長十九人,賜酒食例物。甲子,親醮于星宿殿。」
*3 中人は、李氏朝鮮では両班と常人の間に居る実務役人ことをさす。ここの中人は一般的な家の事か?
*4 国王の前 御前
*5 二度くりかえしてお辞儀すること
※ 太祖実録総序では、中を、命中と言う意味で使っているケースが大半
恭愍王十(1361)年辛丑九月、禿魯江万戸*5の朴儀が背き、千戸の任子富、金天龍を殺した。王は、刑部尚書の金璡に朴儀を討つように命じたが、金璡は制することができなかった。そのとき通議大夫、金吾衛上将軍、東北面上万戸だった太祖に、金璡を救援するように王は命じた。太祖は親兵千五百を率いておもむいた。朴儀はその党を率いて江界(後の平安北道江界)に逃げ込んだが、これををことごとく捕らえて誅した。
*5 禿魯江は、今の慈江道を流れている鴨緑江の支流。
冬、紅巾賊の偽平章潘誠、沙劉、関先生、朱元帥、破頭潘など二十万*6の衆が鴨綠江を渡り北西の辺境に侵入してきた。移文が送られてきて「兵百十万を東に送っている、速やかに迎えいれ降伏しろ」と書いてあった。太祖は、賊の王元帥以下百余人の首を斬り一人を捕らえて献じた。
*6 高麗史では十万 高麗史 第三十九 恭愍王二 十年「冬十月戊子,地震。乙未,金璡請濟師。時我太祖以金吾衛上將軍爲東北面上萬戶,王命往援璡,太祖以親兵一千五百人,赴之,儀已率其黨,逃入江界,盡捕誅之。丁酉,紅賊僞平章潘誠、沙劉、關先生、朱元帥等十餘萬衆,渡鴨綠江,寇朔州,以樞密院副使李芳實爲西北面都指揮使,遣同知樞密院事李餘慶,柵岊嶺。戊戌,遣鶴城侯諝如元,賀正,以道梗,不果行。己亥,集都人修城門。壬寅,紅賊寇泥城。癸卯,以叅知政事安祐爲上元帥,政堂文學金得培爲都兵馬使,同知樞密院事鄭暉爲東北面都指揮使。」
十一月、恭愍王は南に都を遷し、賊は京城*7を拠点にした。*8
*7 この時代の京城はソウルではなく開城。
*8 高麗史 第三十九 恭愍王二 十年「辛未,雨雪,駕次利川縣,御衣濕凍,燎薪自溫。是日,賊陷京城,留屯數月,殺牛馬,張皮爲城,灌水成冰,人不得緣上。又屠灸男女,或燔孕婦乳爲食,以恣殘虐。壬申,駕次陰竹縣吏民皆逃匿,判閣門事許猷獻米二斗,王以按廉使安宗源,安撫使許綱,不能供張,繫頸以來,縣人裴元景言於宰相曰:「吾勸留同里十餘戶以待大駕。」宰相嘉之,奏除元景散員,監陰竹務。乙亥,駕次忠州。」「十二月壬辰,王至福州」
恭愍王十一(1362) 年壬寅正月、参知政事の安祐など九元帥が兵二十万を率い、京城を取り返し、賊魁の沙劉、関先生など、おおよそ十一万の首級を斬った*9。この時、太祖は、旗下の親兵二千人をもって東大門より入り、さきんじて登っておおいに賊を破ったので、威名をますますあらわにした。
攻城の日、賊は、進退窮まるも砦を築き守りを固めた。日暮れになると軍たちは進軍し、賊を包囲した。太祖は道ばたにある一家にとどまり、夜半、賊を包囲し走らせた。太祖は、馬を走らせ東門に至ると賊と我が軍が門を争っていて混雑していたので出ることが出来なかった。後ろにまわった賊が太祖の右耳の後ろ側から槍でいきなり刺してくると、太祖はついに剣を抜き、前の七、八人を斬った。馬を踊らせ、城を越えると、馬はつまずかなかったので人はこれを神のようだといった。
*9 高麗史 第四十 恭愍王三 十一年 「(壬寅)十一年春正月戊申朔,王在福州,賀正。甲子,安祐、李芳實、黃裳、韓方信、李餘慶、金得培、安遇慶、李龜壽、崔瑩等,率兵二十萬,屯東郊,摠兵官鄭世雲督諸將,進圍京城。乙丑,昧爽,諸將四面進攻,我太祖以麾下親兵二千人,奮擊先登,大破之,斬賊魁沙劉、關先生等。賊徒自相蹈籍,僵尸滿城,斬首凡一十餘萬級獲,元帝玉璽、金寶、金銀銅印、兵仗等物、餘黨破頭潘等一十餘萬遁走,渡鴨綠江而去,賊遂平。」 10万の紅巾賊のうち首級が10万、逃走兵が10万(おや、計算が合わないぞ)
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