倭の五王(その3)


 現在の発掘結果や史書類から人物が特定できるのか?

 答え:できません。

 これでは面白くないので突拍子もない仮説を立ててみました。

 倭の五王は、倭姓を名乗っていました。当時日本で倭のうじを名乗っていたのは、倭国造(直)家です。倭国造家が倭国王を名乗っていたわけです。倭国造家は瀬戸内海の交易を抑えて居たと言われているので施設を送る能力をもっていたでしょう。倭国(やまとのくに)のトップだから王様。仮にシナの皇帝に突っ込まれても、嘘はついていないで押し切れる気がしてきた……。

 それはともかく、これらの混乱の源は、日本書紀と古事記の双方にあります。この2つの資料は互いを牽制しています。どちらかを正しいとするともう一方が間違っているケースが多すぎるわけです。ただし、これが適用されるのは、年齢、年代、干支など時間に関わるものが多く、筋書きは大きく変わりません。元ネタは同じなのでしょう(日本書紀は別の資料からの差し込みが大量にあるけど)

 日本書紀だけでも矛盾しているケースは多くあります。以下もその一つ。

仁徳天皇
 卅五年夏六月、皇后磐之媛命、薨於筒城宮。

 八十七年春正月戊子朔癸卯、天皇崩。

履中天皇
 母曰磐之媛命、葛城襲津彥女也。大鷦鷯天皇卅一年春正月、立爲皇太子。時年十五。

 六年 (略) 三月壬午朔丙申、天皇玉體不悆、水土弗調、崩于稚櫻宮。時年七十。冬十月己酉朔壬子、葬百舌鳥耳原陵。

反正天皇
 瑞齒別天皇、去來穗別天皇同母弟也。

 五年春正月甲申朔丙午、天皇崩于正寢。

允恭天皇
 雄朝津間稚子宿禰天皇、瑞齒別天皇同母弟也。

 卌二年春正月乙亥朔戊子、天皇崩、時年若干

  允恭天皇の年齢が合わないのです。日本書紀には允恭天皇の享年を61とする本と80とする本があるらしいのですが、どちらにしても、履中・反正と同母弟とすると母親が死んでから産まれているわけです(仁徳天皇と享年と在位は即バレレベルで怪しいのはおいといて)

 ――と言う訳で、反正と允恭の間に断絶があるのでは無いかと推測可能です(良くて異母弟)

そうすると、

履中と反正は兄弟で、允恭は別系統。允恭の息子が安康と雄略。

 履中と反正は百舌鳥古墳群

 允恭・安康・雄略は、古市古墳群

 に入るので、綺麗にまとまります(強引)

 こいつを倭の五王の記録通りに成形すれば良いのでは?

 仁徳天皇の様に、在位年を引きのばしているケースはすぐに分かるのですが、逆に切り詰められているケースもある気がするのですよ。

 例えば、木梨軽皇子は即位したものの引きずりおろされたので伝から抜かれた可能性とか、安康天皇の在位はもう少し長いとか(7歳児=数えなので幼稚園児か)、武烈と倭彦王と継体が並立していたとか、この手の妄想ならいくらでも出来るわけですよね。やっぱり考古学的発見が欲しいところです。

 おそらく4世紀には大和朝廷には、書を書き起こす官僚がいたと思うのですが遷宮しまくりなので、その都度、大量の木簡を捨てていたのでは無いかと思われます。その時に肝心な情報まで行方不明になった可能性が高そう。史官が置かれるのは律令後でしょうけど。

 ――ここまで前振り。

 倭の五王は筑紫国造では?

 先代旧事本紀の国造本紀には筑志米多国造が、息長公と同祖・稚沼毛二俣命の孫都紀女加命としています。

 この息長氏(便宜上筑紫息長氏と書く)、神功皇后とつながり、稚沼毛二俣命は稚野毛二派皇子の事なので、継体天皇の祖にもなりますが、継体天皇は分家っぽい気がします。息長公と筑志米多公の都紀女加系が本家筋で、継体天皇の乎非系は分家筋になるのはないでしょうか?

 要するに倭の五王は、筑紫の豪族が神功皇后とのつながりを利用して、勝手にやっていたのではないかな?磐井の反乱もこの延長線だろう。

 筑紫公は先代旧事本紀で筑志国造の祖先とされている大彦命とのつながりを考えたのですが系図が結びつかない。

 そのため磐井は筑志米多の筑紫息長氏の関係者と考えた方がよさそう。倭の五王が途中で途切れている理由は、遣使が筑志米多公から筑志公に主体が移ったからかもしれない。

 そもそも神功皇后が三韓征伐するのも、筑紫息長の富の源泉が半島の鉄にあるためで、仲哀天皇が半島に乗り気ではなく熊襲を気にしていたのは、天皇家の領地は宇佐から中九州の地域(「神武東征を読み解いてみる」参照)なので阿蘇地域の方が重要で影響力の及ばない北九州に興味がないから。

 神功皇后を介した北九州とヤマト王朝の同盟関係が、継体天皇即位により切れたと考えるのがよさそう。

 仮にこの説が正しい場合、磐井も稚沼毛二俣命の子孫で恐らく応神天皇の五世孫になる。九州の方が本家筋なので分家からヤマトのオオキミが立てられたから気にくわない。

 倭王武を最後に切れた理由も朝鮮半島情勢の変化もさることながら磐井一族が滅んだからでは?しかしながら、筑紫国造家は残っています。この時息長系から大彦命系に切り替わったのでは?天皇家以上に国造家の系図の方が怪しいわけだし。

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