朝鮮王朝実録 総序(1) 穆祖李安社

初めに

 朝鮮王朝実録の総序の翻訳。9月から作業しているが、なろう系展開が多すぎてモチベーションが上がらない。

 読み下しについて――半分ぐらい意訳している。韓国語訳の電子版があるが、(自動翻訳に投げ込んだ限り)俗語で訳したような訳や翻訳を諦めたものがかなりみられる。一応参考にしているが、半分以上訳に立たない。

 穆祖李安社は実在が疑われている。

 李安社は李子春・成桂親子が、全州(全羅道)ではなく女真人の地に住んでいた理由を記すための創作だと思われるが、初めから女真の地に住んでいたのでは無いかと思われる記述が多い。なお元史に女真人で李姓に改姓した李庭(蒲察勞山)と言う人物が出てくる。

参考 http://sillok.history.go.kr/id/kaa_000

朝鮮王朝実録 総序

 太祖康獻至仁啓運聖文神武大王, 姓李氏, 諱旦, 字君晋, 古諱成桂, 號松軒, 全州大姓也。 有司空諱翰仕新羅, 娶太宗王十世孫軍尹金殷義之女, 生侍中諱自延。 侍中生僕射諱天祥, 僕射生阿干諱光禧, 阿干生司徒三重大匡諱立全。 司徒生諱兢休, 兢休生諱廉順, 廉順生諱承朔, 承朔生諱充慶, 充慶生諱景英, 景英生諱忠敏, 忠敏生諱華, 華生諱珍有, 珍有生諱宮進, 宮進生大將軍諱勇夫, 大將軍生內侍執奏諱隣。 執奏娶侍中文公諱克謙之女, 生將軍諱陽茂, 將軍娶上將軍李公諱康濟之女, 生諱安社, 是爲穆祖, 性豪放, 有志四方。

 太祖 康獻至仁啓運聖文神武大王は、姓を李、諱を旦、 字を君晋、古諱を成桂、 號を松軒と言う*1。全州の大姓の出身である。

*1 李旦に改名している。古諱は、蒙古諱の脱字で、成桂は実はジェガイと呼びモンゴル名なのかも(ルール通り音写すると者海とか?)。一見モンゴル名と分からない命名法は洪茶丘(俊奇)の前例がある。

 新羅に仕えた李翰は司空になり*2、太宗王(新羅王金春秋)十世孫の軍尹金殷義の娘を娶る。侍中の(李)自延を生む。侍中(自延)は僕射の(李)天祥を生み、僕射(天祥)は、阿干の(李)光禧を生む、阿干(光禧)は司徒三重大匡の(李)立全を生んだ。
 使徒(立全)は(李)兢休を生み、兢休は(李)廉順生み、廉順は(李)承朔を生み、承朔は(李)充慶を生み, 充慶は(李)景英を生み、景英は(李)忠敏を生み、忠敏は(李)諱華を生み、華生は(李)珍有を生み、珍有は(李)宮進を生み、宮進は大将軍の(李)勇夫を生み、大将軍(勇夫)は生内侍の執奏の(李)隣を生んだ。
 執奏(隣)は、侍中文克謙の娘を娶り、将軍の(李)陽茂を生み、将軍(陽茂)は、上将軍李康濟の娘を娶り、(李)安社を生んだ。

*2 途中まで全州李氏の族譜の引用と思われる。

穆祖

 李安社が穆祖である。豪放な性格をし、四方に志を有した。全州に住んでいたが二十余歳の時すでに勇略に優れた人だった。

初在全州, 時年二十餘, 勇略過人。 山城別監入館, 因官妓事, 與州官有隙, 州官與按廉議上聞, 發兵圖之。 穆祖聞之, 遂徙居江陵道 三陟縣, 民願從而徙者, 百七十餘家。 嘗造船十五隻以備倭。 旣, 元 也窟大王兵侵諸郡, 穆祖保頭陀山城以避亂。


 山城別監が館に入ると、官妓の事に因り、州官と不和が有り、州官と按廉(節度使に相当。後に按察使と改名される)は上聞を議し、兵を発し取締りをはかった。
 李安社(穆祖)は、その話を聞くと江陵道三陟県(江原道三陟市)に移り居を構えた。願いでて従者として従った民が百七十余家あった。十五隻の舟を造って倭*3に備えようとした。既に、モンゴル(元)の也窟イェグ大王*4が兵を率いて諸郡に侵攻していた。李安社(穆祖)は頭陀山(江原道平昌郡)の城を保ち、乱を避けた。

*3 倭に備える意味が無い。モンゴルに掠奪されている最中なのでモンゴルに備える意味はある。モンゴルの高麗侵攻には船を使った記録もあるし、江原道は女真海賊が荒らしていた地域。倭と蒙古と女真の混同が多い気がする。
*4 也窟イェグ(元史では也古)はチンギス・カンの次弟ジョチ・カサルの長男。1252年10月に第五次高麗侵攻軍を率いている。

適前日山城別監, 新除按廉使, 又將至。 穆祖恐禍及, 挈家浮海, 至東北面宜州 【卽(德原)〔德源〕。】 止焉。 民一百七十餘戶亦從之, 東北之民, 多歸心焉。 於是, 高麗以穆祖爲宜州兵馬使, 鎭高原以禦元兵。 時雙城以北, 【雙城卽永興。】 屬于開元路。元 散吉大王來屯雙城, 謀取鐵嶺以北, 再遣人請穆祖降元, 穆祖不得已率金甫奴等一千餘戶降。 前此, 平壤民聞穆祖威望, 多有附者。

 その頃、先日の山城別監が新たな按廉使に任命され、その地に来ようとしていた。李安社(穆祖)は災いを恐れ、家をひっさげ海をわたり、東北面宜州(今の咸鏡南道徳源)にまで至った。
 百七十余戸の民もこれに従い、東北の民になり、多くは心から服した。
 この時、李安社(穆祖)は高麗により宜州兵馬使になり、元兵をふせいで、高原(蓋馬高原か?)を鎮めた。
 雙城(咸鏡南道永興)より北は、開元路*5に属しており、モンゴル(元)*6の散吉大王*7は、雙城(咸鏡南道金野郡)に来て駐屯し、鐵嶺*8以北を取ろうとしていた。再び人をやり、李安社(穆祖)がモンゴル(元)に降るように説得した。李安社(穆祖)はやむおえず金甫奴*9ら千余戸を率いて降伏した。平壤の民が李安社(穆祖)の威望聞き、多くのものが来ていたのだ。

*5 開元路は大真国(東夏国)の地に置かれた行政区で後の遼陽行省。現代の東北三省、沿海州及び朝鮮半島の一部に相当。
*6 モンケ・ハンの時代に元の国号は名乗っていない。
*7 散吉大王、サンギと読むべきか。イェグが更迭されているので、この当時、朝鮮半島に陣取っていて大王と呼べるのは元史の札剌亦兒ジャライル部の火兒赤コルチぐらい。火兒赤コルチは、元史洪福源伝では扎剌臺、新元史では札剌児帯ジャラルタイ、高麗史で車羅大と書かれている人物と恐らく同じ。兵5000で、高麗を蹂躙し20万6800人を捕虜として連れ去ったとある。従って散吉に該当する人物は他の史書に出てこない。
*8 鐵嶺 元代の鉄嶺は咸鏡道と江原道の境界にあった。明代に満州に移動した。
*9 金甫奴 人名ととらえるには奴の字が引っかかる。ただし女真名には奴の字が度々見られる。金姓に改姓した女真人ではなかろうか?

至是與從之, 散吉大喜, 禮待甚厚, 置盛宴歡飮。 將罷, 散吉親以玉杯, 納諸穆祖懷中曰: "公之家人, 安知吾二人相與之至情! 聊以玉杯表吾情耳。" 因相與誓曰: "自後無相忘也。" 穆祖乃以族女妻散吉。 

 李安社(穆祖)が従うと聞いて、散吉は大いに喜び、礼を持って甚だ厚く、盛宴をもよおし歓飲した(「李安社(穆祖)が降伏すると聞いて、散吉は大喜びし、これを手厚く出迎え、大宴会を催し、大いに飲んだ」ぐらいに意訳したい)
 (宴が)終わろうとするとき散吉は玉杯をもって親しく、諸々を李安社(穆祖)のふところに収めて言った「きみの家人は、こうして我ら二人は互いに情に至の知るのだ!さあ玉杯をもって我らの情をあらわそう」
 互いに誓うには「このことは後にも互いに忘れない」と。

 そして李安社(穆祖)の同族の娘が散吉の妻になった。*10

*10 この手の政略婚は相互族外婚で行われるので、李安社も散吉の一族を輿入れした可能性がある。

穆祖由水陸路至時利, 【卽利城。】 其千戶以兵阻之。 穆祖語以歸順之意, 千戶宴慰甚厚, 穆祖亦以牛馬報之。 遂至開元路 南京之斡東居焉。 寔宋 理宗 寶祐二年, 元 憲宗四年, 高麗 高宗四十一年甲寅也。

 李安社(穆祖)は水陸の道をもちいて、利(利城 咸鏡南道利原郡)に至ると、その千戸が兵をもって之を阻んだので、帰順の意を語ると千戸はなはだ厚く宴を行い、李安社(穆祖)はまた牛馬をもって、これにむくいた。最後は開元路南京*11の斡東にすんだ。宋の理宗 寶祐二年、元の憲宗(モンケ)四年、高麗の高宗四十一年の甲寅の年(1254年)の事である。

*11 南京 大真国の南京。林省延辺朝鮮族自治州延吉市の東の城子山にあったとされる。咸鏡北道会寧の西とする説もある。大真国は1215年契丹から独立して出来た女真族の国だが、1233年モンゴルにより滅亡した。

 明年乙卯, 散吉聞于元帝, 元爲立斡東千戶所, 給降金牌, 爲南京等處五千戶所, 首千戶、兼達魯花赤。 斡東在南京東南九十餘里, 距今慶興府東三十里。 斡東西北百二十餘里, 有豆門城, 又其西百二十餘里, 有斡東沙吾里。 沙吾里, 女眞言站也。 站在斡東管內, 故云然。 其平有大土城, 南京之平, 亦有大土城, 其北七八里, 又有大石城, 皆穆祖管領軍民之所居也。 穆祖雖居斡東, 而往來諸城, 不常厥居。

 翌年、乙卯(1255年)、散吉は元の皇帝に聞き、斡東に千戸所を元のために建てて金牌を賜り、南京等處五千戸所の首千戸と達魯花赤ダルガチ*12を兼任した。*13

*12 ダルガチはモンゴル帝国の職名。意味するところは長官に近い。ダルガチに任命されるのは、ほぼモンゴル人で、該当者がいない場合のみ色目人が任命され、それ以外がダルガチになることは1309年には明確に禁止されていた。例外があり、モンゴル人になることで任命されることが可能になるケースがある(高麗王はこのケースに入る)ただし、モンゴル人が誰も行きたがらないような場所では漢人ダルガチが任命されたケースがあったらしい。ただ、確認できる限りで高麗人の最高位が虎衛上将軍、遼陽等處行中書省右丞、総管高麗、女直、漢軍万戸,兼安撫使、高麗軍民総管なのでダルガチはいない模様。

*13 散吉から大王が落ちている。実在する大王ならこの文から大王を落とさないはず。

 斡東*14は南京の東南九十餘里にある。今の慶興府(咸鏡北道慶興)の東三十里*15の位置にある。斡東の西北百二十餘里に豆門城が有る。またその西百二十餘里に 斡東沙吾里サウリが有る。沙吾里サウリは、女真でえきと言う。站は、斡東の管内にあったとされる。その平な部分には大きな土城があった。南京にもまた大きな土城があった。その北7-8里には大きな石城があった。それはみな、李安社(穆祖)が管領する軍民の所居だった。李安社(穆祖)は、そのため斡東に住んだが、諸城を往来し、一つの住まいに留まらなかった。

*14 豆門江下流か?
*15 朝鮮における一里は大凡420mだが、増減する。

斡東東南三十餘里, 有海島曰者考羅, 北連於陸。 穆祖築石城, 以放牛馬。

 斡東の東南三十餘里に海島がある者考羅*16と言う。北は陸につながっている。李安社(穆祖)は、石城を築き、牛馬を放牧した。

* 16 者考羅は羅津ではなかろうか?

憲宗八年, 受散吉令旨, 管領李春、文大純、趙奧、魯哥兒、卓靑、尙哉、光奕、張哥等八介百戶之任, 上充兼扢扎百戶句當。

 憲宗八(1258)年、令旨を散吉は受け、李春、文大純、趙奧、魯哥兒、卓靑、尙哉、光奕、張哥等、八人を百戸の任に管領した。上は、扢扎百戸の任務をかさねてあたえた。*17

*17 李安社ではなく散吉について記述している。

世祖皇帝 中統二年辛酉六月, 尙書省給降本所行使銅印。

 フビライ 中統二(1261)年辛酉六月、尚書省が銅印を行使する権利を本所にあたえた。

 至元元(1264)年甲子五月, 欽受宣命, 仍充斡東千戶句當。 至元十一(1274) 年甲戌十二月薨, 葬于孔州【卽慶興府。】 城南五里, 後遷葬于咸興府之義興部 韃靼洞, 卽德陵。

 至元元(1264)年甲子五月、皇帝から宣命を謹んで受け、斡東千戸の任務を充えられた。 至元十一(1274) 年甲戌十二月死す。 孔州城(慶興府)の南五里に葬られた、後に咸興府義興部韃靼洞つまり徳陵に改葬された。

開元路

元史 志第十一 地理二

開元路,古肅慎之地,隋、唐曰黑水靺鞨。唐初,渠長阿固郎始來朝,後乃臣服,以其地為燕州,置黑水府。其後渤海盛,靺鞨皆役屬之。又其後渤海浸弱,為契丹所攻,黑水復擅其地,東瀕海,南界高麗,西北與契丹接壤,即金鼻祖之部落也。初號女真,後避遼興宗諱,改曰女直。太祖烏古打既滅遼,即上京設都,海陵遷都於燕,改為會寧府。金末,其將蒲鮮萬奴據遼東。元初癸巳歲,出師伐之,生禽萬奴,師至開元、率賓,東土悉平。開元之名,始見於此。乙未歲,立開元、南京二萬戶府,治黃龍府。至元四年,更遼東路總管府。二十三年,改為開元路,領咸平府,後割咸平為散府,俱隸遼東道宣慰司。至順錢糧戶數四千三百六十七。


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