朝鮮王朝実録 総序(12)太祖 李成桂8

前文

 本編は、阿其拔都と言う名の倭寇が出てくる部分で日本でも割と有名なのだが、調べていくうちに創作ではないかという疑いを持つようになった。その理由は、辛禑六(1380)年八月の倭寇が、これだけ大規模の倭寇であれば高麗史に記載があるはずなのに存在しない。確かに辛禑六年八月に鎭浦に現れた倭寇がいる(七月から暴れていたようだ)が、この倭寇は鎭浦で撃退されている(「倭寇公州,金斯革擊,斬四級。羅世、沈德符、崔茂宣等,擊倭于鎭浦克之,奪所虜三百三十四人,金斯革追捕餘賊于林川,斬四十六級。」倭が公州を寇し、金斯革、擊ち、四級を斬る。羅世、沈德符、崔茂宣ら、鎭浦において倭を擊ち、之に克ち、所虜三百三十四人を奪い、金斯革、林川において餘賊を追捕し四十六級を斬る)。この月は倭寇が頻出しているが、特記すべきものでは無く、明の洪武帝から、この詐欺師ども、言い訳は良いから朝貢しろと怒られている方が大きい事件になっている。

 また船五百隻と言う数が異常である。応永の外寇の時李氏朝鮮が用立てた船数は二百二十七隻であり、換算するとこの倭寇は四万の兵で攻め込んだ事になる。四万を維持するのには大量の兵糧と水が必要で、自ら補給を破綻させる倭寇は考えられない。騎馬一千六百を捕獲しているのもその傍証にもなりうる。これだけの軍馬を船にのせ運ぶのも維持するのも大変だ。またこの編で出てくる倭寇の武器は、武器は長い柄のほこと弓の重騎兵ばかりである。女真の重騎兵の装備で、倭寇は、ほとんどが歩兵で刀や槍を振り回すことが多く、矛盾がみられる。つまり朝鮮北部で行われそうな戦の記述をしているのである。そして、これだけの大勝にもかかわらず、これ以降も倭寇の勢いが全く衰えていないのである。また倭寇の場合、捕虜1もしくは首級1でも高麗史に戦果が記録されているため、記述にあるような勲功があったとも思えない。

 なお朴修敬、裵彦が死んだと言う記述から高麗史の昌王元年の「庚申,倭自鎭浦下岸,橫行楊廣、慶尙、全羅之境,焚蕩郡邑,殺掠士女,三道騷然,元帥裴彦、朴修敬等皆敗死。國家憂之,遣卿及九元帥,諸將逗遛不進,卿獨奮然,率其麾下,鏖戰引月之驛,捕獲無遺,民賴以安。」から取ってきたと思われる。辛禑六(1380)年は庚申である。しかし、この文はクーデターの首謀者達を誇張して顕彰したものなので事実をそのまま記したとは考えにくい。

 そのため、この話自体が1377年5月の智異山の乱か辛禑六(1380)年九月の倭寇討伐(「我太祖與諸將,擊倭于雲峯,大破之,餘賊奔智異山」李成桂と諸将は、雲峯(今の慶尚南道咸陽郡)において倭を擊ち、大いに之を破り、餘賊は智異山に奔る)を脚色して入れ込んだのではないかと考えられる。この倭寇は、慶尚北道(東沿岸)から南下していった可能性がたかく、七-八月に公州から鎭浦(西沿岸)に居た倭寇と別物と考えられる。
また李成桂が三道都巡察使に任じられた記録も高麗史に記載されていない。高麗史の編纂時、李成桂の功績は微細なものでも記録が存在すれば入れ込んでいる(虎を退治したなど)ので、記録自体が存在しない架空のものの可能性が高い。

 ともかく、この時期は、西に大明、北に北元、東と南に倭寇が居て四面楚歌だったのは確かのようである。

原文

辛禑六年庚申八月, 倭賊五百艘, 維舶於鎭浦, 入寇下三道, 屠燒沿海州郡殆盡, 殺虜人民, 不可勝數, 屍蔽山野。 轉穀于其舶, 米棄地厚尺, 斫所俘子女山積, 所過波血。 掠得二三歲女兒, 剃髮剖腹淨洗, 兼奠米酒祭天。 三道沿海之地, 蕭然一空, 自有倭患, 未有如此之比。 禑以太祖爲楊廣、全羅、慶尙三道都巡察使, 往征之, 贊成事邊安烈爲都體察使以副之。 評理王福命、評理禹仁烈、右使都吉敷、知門下朴林宗、商議洪仁桂、密直林成味、陟山君 李元桂爲元帥, 皆受太祖節度。 師出至長湍, 白虹貫日, 占者曰: "戰勝之兆。" 倭入尙州, 置酒六日, 燔府庫, 經京山府, 駐沙斤乃驛。 三道元帥裵克廉等九元帥敗績, 朴修敬、裵彦二元帥死之, 士卒死者五百餘人。 賊勢益熾, 遂屠咸陽城, 向南原, 焚雲峯縣, 屯引月驛, 聲言: "將穀馬于光之金城, 北上。" 中外大震。 太祖見千里之間, 僵屍相接, 爲之惻然, 不能寢食。 太祖與安烈等, 至南原, 距賊百二十里, 克廉等來謁于道, 莫不懽悅。 太祖休馬一日, 將以厥明戰, 諸將咸曰: "賊負險, 不若(徙)〔待〕其出與戰。" 太祖慨然曰: "興師敵愾, 猶恐不見賊。 今遇賊不擊可乎!" 遂部署諸軍, 詰朝誓而東, 踰雲峯, 距賊數十里, 至黃山西北, 登鼎山峯。 太祖見道右險徑曰: "賊必出此, 襲我後矣, 我當趨之。" 遂自趨之。 諸將皆由坦途進, 望見賊鋒銳甚, 不戰而却, 時日已昃矣。 太祖旣入險, 賊奇銳果突出, 太祖以大羽箭二十射之, 繼以柳葉箭射之, 五十餘發, 皆中其面, 莫不應弦而斃。 凡三遇鏖戰殲之。 地又泥濘, 彼我俱陷, 相顚仆。 及出, 死者皆賊, 我軍不傷一人。 於是賊據山自固, 太祖指揮士卒, 分據要害, 使麾下李大中、禹臣忠、李得桓、李天奇、元英守、吳一、徐彦、陳中奇、徐金光、周元義、尹尙俊、安升俊等挑之, 太祖仰攻之。 賊出死力, 臨高衝突, 我軍分北而下。 太祖顧謂將士曰: "堅控轡, 勿使馬蹶。" 旣而, 太祖復使吹螺整兵, 蟻附而上, 衝賊陣。 有賊將引槊直趨太祖後甚急, 偏將李豆蘭躍馬大呼: "令公視後! 令公視後!" 太祖未及見, 豆蘭遂射殪之。 太祖馬中矢而仆, 易乘, 又中仆, 又易乘。 飛矢中太祖左脚, 太祖抽矢, 氣益壯戰益急, 軍士莫知太祖傷。 賊圍太祖數重, 太祖與數騎, 突圍而出, 賊又衝突太祖前, 太祖立殪八人, 賊不敢前。 太祖誓指天日, 麾左右曰: "怯者退, 我且死賊!" 將士感厲, 勇氣百倍, 人人殊死戰, 賊植立不動。 有一賊將年纔十五六, 骨貌端麗, 驍勇無比。 乘白馬, 舞槊馳突, 所向披靡, 莫敢當。 我軍稱阿其拔都, 爭避之。 太祖惜其勇銳, 命豆蘭生擒之。 豆蘭曰: "若欲生擒, 必傷人。" 阿其拔都著甲胄, 護項面甲, 無隙可射。 太祖曰: "我射兜鍪頂子令脫, 汝便射之。" 遂躍馬射之, 正中頂子, 兜鍪纓絶而側, 其人急整之。 太祖卽射之, 又中頂子, 兜鍪遂落, 豆蘭便射殺之。 於是賊挫氣。 太祖挺身奮擊, 賊衆披靡, 銳鋒盡斃。 賊痛哭, 聲如萬牛, 棄馬登山。 官軍乘勝馳上山, 歡呼皷譟, 震天地, 四面崩之, 遂大破之。 川流盡赤, 六七日色不變, 人不得飮, 皆盛器候澄, 久乃得飮。 獲馬一千六百餘匹, 兵仗無算。 初賊十倍於我, 唯七十餘人, 奔智異山。 太祖曰: "賊之勇者, 殆盡矣。 天下未有殲敵之國。" 遂不窮追。 因笑謂諸將曰: "擊賊固當如是。" 諸將咸服之。 退而大作軍樂, 陳儺戱, 軍士皆呼萬歲, 獻首級山積。 諸將懼治不戰之罪, 叩頭流血乞生, 太祖曰: "在朝廷處分。" 時被擄者自賊中還, 言: "阿其拔都望見太祖置陣整齊, 謂其衆曰: ‘觀此兵勢, 殊非往日諸將之比。 今日之事, 爾輩宜各愼之。’" 初阿其拔都在其島欲不來, 衆賊服其勇銳, 固請而來。 諸賊酋每進見, 必趨跪, 軍中號令, 悉主之。 是行也, 軍士帳幕柱, 皆欲易以竹, 太祖謂曰: "竹輕於木, 便於致遠, 然亦民家所植也, 且非吾裝齎舊物, 不失舊物而還足矣。" 太祖所至, 不犯秋毫, 皆類此。 兀羅之役, 太祖獲處明不殺, 處明感恩, 每見矢痕, 必嗚咽流涕, 終身隨侍左右。 是戰也, 處明居馬前, 力戰立功, 時人稱之。 太祖振旅而還, 判三司崔瑩率百官, 設綵棚雜戲, 班迎東郊天壽寺前。 太祖望見下馬, 趨進再拜, 瑩亦再拜, 前執太祖手揮涕曰: "非公, 孰能爾耶?" 太祖頓首謝曰: "謹奉明公指揮, 幸而得捷。 予何功焉? 此賊勢已挫矣, 儻若復肆, 吾當受責。" 瑩曰: "公乎公乎! 三韓再造, 在此一擧。 微公, 國將何恃?" 太祖讓不敢當。 禑賜金五十兩, 太祖辭曰: "將帥殺賊, 職耳。 臣何敢受!" 韓山君 李穡作詩致賀曰:
掃賊眞將拉朽同, 三韓喜氣屬諸公。 忠懸白日天收霧, 威振靑丘海不風。 出牧華筵歌武烈, 凌煙高閣畫英雄。 病餘不得參郊迓, 坐詠新詩頌雋功。
前三司左使金九容和之曰:
賊鋒摧挫與雷同, 節制無非自我公。 瑞霧葱葱銷毒霧, 霜風洌洌助威風。 島夷墜膽軍容盛, 隣境寒心士氣雄。 滿國衣冠爭拜賀, 三韓萬世太平功。
成均祭酒權近和之曰:
三千心與德皆同, 師律如今盡在公。 許國忠誠明貫日, 摧鋒勇烈澟生風。 彤弓赫赫恩榮重, 白羽巍巍氣勢雄。 一自凱旋宗社定, 須知馬上有奇功。

訳文

 辛禑六(1380)年庚申八月、倭賊五百隻が、鎭浦*1に大船を留め、下三道*2に入寇した。沿海の州郡は、ほとんど放火され、殺されるか捕らわれた人民は数え切れないほどで、山野を屍が覆った。
 その大船に穀物を転がし、雑穀(米)は、地に山ほど棄てられ、捕らえた子女を切ったものが山積になり、いたるところに血が波の様についていた。二、三歲の女児を掠奪し、髪を剃り腹を割き洗浄し、米酒と一緒に供え天に祀った。*2

 三道の沿海の地は、ただ物寂しい空があるだけだった。このような倭の災害は、未曾有の出来事であった。

 禑王は、太祖を楊廣、全羅、慶尚三道都巡察使とし、賛成事の邊安烈を都体察使を副官とし、征伐に向かわせた。評理の王福命、評理の禹仁烈、右使都の吉敷、知門下の朴林宗、商議の洪仁桂、密直の林成味、陟山君李元桂*4を元帥とし、全員、太祖の指令を受けた。

 軍は長湍に出ると、白い虹が太陽を貫き、占者は「戦勝の兆し」だと言った。倭が尚州に入ると六日酒盛りをし、府庫を燃やし、京山府*5を経て沙斤*6の駅に駐屯した。

 三道元帥の裵克廉ら九元帥は負け続け、朴修敬、裵彦の二元帥と兵卒五百人ほどが死んだ。

 賊はますます勢いを増して、咸陽城*7を落とし、南原*8に向かった。雲峯縣を燃やし、引月駅に駐屯した。
「金城の穀物と馬をことごとく奪い、北上しようとしている」と言う噂が流れ、内外は大いに震えた。
 太祖は千里(約400km)を行く間に見た 覆い被さった死体に心をいため、寝食もままならなかった。

 太祖と安烈らが南原に到着すると, 百二十里ほどの距離に賊が居た。裴克廉ら道中、謁見にやってきたが、悦ぶことはできなかった。太祖は馬を一日休めると、翌日戦をしようとすると諸将は「賊は峻険な土地を背にしているので、戦に出るのは待つべきだ」と口々に言った。

 太祖は慨然して言った。
「軍は敵に憤っていて、さらにその賊を見て恐れていないのだ、今、賊に逢ったと言うにこれを撃たないことがあってはならぬ!」

 そして、諸軍を配置し、翌朝、誓約して東に向った。雲峯を越えて、賊の居る数十里の距離の黄山西北に行き、鼎山峯を登った。

 太祖は、道の右が嶮しいのを見て言うには

「賊は必ずこの場所に出る。私を後ろから襲おうとするだろう。私はここに向かい当たろう」

 そういうと、自らそこへ向かった。

 諸将は皆、平坦な道を進み、賊の武器が沢山見えたので、戦わずに帰ろうとすると、既に日が暮れようとしていた。

 そのころ太祖は、嶮しい道に入ると、賊は果たして奇襲の精鋭*9を突出させていた。太祖は大羽箭を二十発射ち、続いて、柳葉箭*10を五十発を射た。全て正面に当たり、すぐに倒れた。

 おおよそ三回遭遇し、ことごとく殲滅した。地面はぬかるんでおり、敵味方共にはまり、ともに倒れた、そこから出ると死者は皆賊で、我が軍は一人も傷一つ無かった。ここで、賊は山を頼りに自軍を固めた。太祖は兵卒を指揮し、拠る要害に分け、旗下の李大中、禹臣忠、李得桓、李天奇、元英守、吳一、徐彦、陳中奇、徐金光、周元義、尹尙俊、安升俊らを使い、これに挑み、太祖はこれを下から攻めた。賊は死力を出し、高所から衝突を挑んだので、我が軍の一部は敗けて戻った。

 太祖は、将兵に振り返り「手綱を引いて硬くし、馬を躓かせてはいけない」と言った。
 やがて、太祖は、また使いをだし、兵を整え、法螺を吹き、蟻のように上に群がり、賊の陣にぶつかった。賊将に槊を引き、太祖の後ろにさし迫っているものが居たので、偏将李豆蘭は馬を躍らせ叫んだ。

「公よ、後ろを見ろ!公よ、後ろを見ろ!」

 太祖が振り返る前に、豆蘭はこれを射殺した。太祖は、矢が馬に当たり倒れると、馬を乗り換え、また倒れると、また乗り換えた。飛んでくる矢が、太祖の左足にあたり、太祖は矢を抜くと気がますます溢れ、ますます激しく戦ったので、軍兵は太祖が怪我したことを知らなかった。賊は太祖を幾重にも囲み、太祖と数騎が突出して囲まれた。賊はまた太祖の前で衝突し、太祖は前に立つ八人を殺したので賊は前方をこらえきれなかった。

 太祖は天の日を指さして誓い、旗下の左右に言った。

「おびえるものは退け!私もまた賊に殺されそうだ」

 将兵は、激しく感じ入り、勇気百倍し、兵はことごとく死戦に身を投じた。賊は植木の様に立ち動かなかった。

 一賊の将で、年齢がわずか十五、六ほどの骨貌端麗で驍勇無比のものが居た。白馬に乗り、槊を舞い、馬を走らせると、向かうところなぎ倒していたので、誰も当たろうとしなかった。

 我が軍は、阿其拔都アギ・バートル*11と称え、争うことを避けた。

 太祖はその勇敢さを惜しみ、豆蘭に生け捕りにするように命じた。
豆蘭は言う「もし生け捕りにしようとしても必ずけが人がでます」

 阿其拔都アギ・バートルは、甲胄をまとい、頭と顔を兜で護り、射るべき隙間がなかった。太祖は言う「私が兜の先を射て脱げるようにするからお前はそのタイミングで射ろ」

 そして馬を躍らせて射ると、正確に兜の先に当たった。兜の止め紐が切れ、かたむいたので阿其拔都アギ・バートルは急いで兜をなおした。その時、太祖は射て、また兜の先にあたると兜が落ちたので、豆蘭はそのタイミングで射殺した。

 そのため賊は気をくじいた。

 太祖は身を挺して奮撃し賊たちをなぎ倒し、するどい刀で殺しつくした。賊は万の牛のような声で痛哭し馬を棄て山を登った。

 官軍は勝ちに乗じて山の上に馳せ鼓をならして歓呼し天地を奮わし四面を崩したので大いにこれを破ることが出来た。川は赤く染まり、六、七日その色が変わらないので、人は飲むことが出来なかった。すべて澄んだ頃合いに器に盛り久しぶり飲む事が出来た。馬を千六百匹ほどと数え切れないほどの武具を得た。

 賊は我が軍の十倍いたのだが七十人ほどを残すのみになり智異山に逃げた。太祖は言う「賊の勇者は、ほとんどいないだろう。天下は敵の国を殲滅しないだろう」としてに追いつめなかった。

 ちなみに諸将に笑って「賊を討つにはこのように固くあたるべし」と言い、諸将はことごとく感服した。軍を退いて、軍楽を大いにならし、儺戱*12をおこない軍兵はみな万歳を叫び首級を山積みにして献じた。

諸将は不戦の罪をとわれるのを恐れ、流血するまで土下座し殺さないでくれと懇願するので、太祖は言った「処分を行うのは朝廷だ」

 その時、賊の中から自力で帰ってきた捕虜が言う。
阿其拔都アキ・バートルは、太祖が陣を整然と並べているのを眺めて、その衆に言うに『この兵勢をみると、日頃の諸将の比ではなく特殊だ。今日の戦はお前達もそれぞれ十分に気を付けろ』」

 阿其拔都アキ・バートルは、当初、その島に居るときには遠征に行こうとしなかったのだが、賊の仲間達がその勇敢さを敬服していたので、固く請われてきた。

 賊の酋長達は進見するとき必ず跪き、軍中の号令をことごとく主導した。そうして行動すると、軍兵は帳幕の柱になり、みんな竹のように従っていた。

 太祖は請うた。

「竹は木より軽く、遠くにいっても便利なので、民家のあるところに植えられるのだ。そして、私の裝飾に古い物がなくても、古い物を失わず返らなければならない」

 太祖は、どこもでも、ささいなことを犯さず、みなこのようにした。
兀羅ジャライルの役*13では、太祖は處明を捕らえたが殺さず、處明は恩を感じて、何時も矢傷を見て必ず涙を流しむせび泣き死ぬまでその左右に従事した。この戦では處明は馬の前に居て力戦して功を立てた。このとき人は之を称えた。太祖が旅を振り返ると判三司の崔瑩が百官を率いて飾り付けた小屋と様々な遊具を設置し東郊の天壽寺の前で挨拶した。

  太祖は馬を下りて眺めると小走りに走り再拝した、崔瑩もまた再拝した。前に太祖の手をとり涙を払いながら拝しながら言う。

「あなたでなければ、誰がやるのでしょうか?」

  太祖は頓首して感謝して言う

「賢い貴方の指揮を謹んで奉じ幸いに勝利を得ました。私に何の功があるのでしょうか?この賊の勢いは既にくじけていました。もし、また好き勝手にしたら、私はその責を受けないといけません」

  崔瑩は言う「君だ!君だ!三韓*14を取りかえした事、それが快挙だ。あなたがいやしくしたら、国は何を頼みにすればいいのか?」

 太祖は恐縮して謙遜した。

 禑王は、金五十両を与えたが、太祖が辞して言うには「将軍は賊を殺すのだけが仕事だ、臣がどうして受け取れようか」

 韓山君の李穡は、祝賀にあたり詩を作った。

掃賊眞將拉朽同, 三韓喜氣屬諸公。 掃賊、真将同じく拉朽し 三韓、諸侯に属する気を喜ぶ
忠懸白日天收霧, 威振靑丘海不風。 忠懸、白日天、霧を收め 威振、青丘海、風せず
出牧華筵歌武烈, 凌煙高閣畫英雄。 出牧華筵、武烈を歌い 凌煙高閣、英雄画く
病餘不得參郊迓, 坐詠新詩頌雋功。 病餘えず、郊迓を参じ 新詩を坐詠す、頌雋の功

 前三司左使の金九容はこれに和して唄う

賊鋒摧挫與雷同, 節制無非自我公。 賊鋒、摧挫と雷同 節制、我公自らあらずなし
瑞霧葱葱銷毒霧, 霜風洌洌助威風。 瑞霧葱葱、毒霧銷し 霜風洌洌、威風助く
島夷墜膽軍容盛, 隣境寒心士氣雄。 島夷、軍容盛んに墜膽し 隣境寒く、心士気雄なり
滿國衣冠爭拜賀, 三韓萬世太平功。 衣冠、国に満ちて、拝賀争い 三韓、万世太平の功

 成均祭酒の權近もこれに和して唄う

三千心與德皆同, 師律如今盡在公。 三千、心と徳皆同じく 師律、今、盡く公在る如く
許國忠誠明貫日, 摧鋒勇烈澟生風。 許国忠誠明かに日を貫す 勇烈摧鋒し、澟生の風
彤弓赫赫恩榮重, 白羽巍巍氣勢雄。 彤弓赫赫、恩栄重 白羽巍巍、気勢を雄す
一自凱旋宗社定, 須知馬上有奇功。 一自凱旋、宗社を定め すべからず馬上知る、奇功有り

※ 実は、本編と全く関係無いの無い詩を書きつらねている気がする。

*1 鎭浦 全羅北道群山市鎮浦
*2 下三道 楊広道(忠清道)、全羅道、慶尚道
*3 桀紂の故事から引いてきたと思われるが天信仰がむしろ日本人ではないことを示している。
*4 李元桂 李成桂の庶兄 母は韓山李氏(同姓) 桓祖ウルス・ブカの長男
*5 京山府 慶尚北道金泉市
*6 沙斤の駅 慶尚南道咸陽郡沙斤山城か?
*7 咸陽城 慶尚南道咸陽郡
*8 南原 全羅南道南原市
*9 奇襲の精鋭 韓国語訳は奇兵と銳兵にしている。
*10 柳葉箭 柳の葉のような矢だが、日本の柳葉鏃ではなく、平根鏃に近いようである。
*11 阿其拔都 アギは朝鮮語で子ども、拔都はモンゴル語で勇者を意味し、勇敢な子どもと言う意味か。称○○○○なので、李成桂軍がそう読んでいただけで、実の名前は不明だろう。
*12 儺戱 厄払いの遊戯
*13 三韓 下三道と同義 三國志魏書東夷伝に出てくる馬韓・弁韓、辰韓の有った場所を差す
*14 兀羅ジャライルの役……賽因帖木兒サイン・テムルを攻めるため鴨緑江を越えたこと

※ 船500に700人と馬1600頭

おまけ 高麗史の該当部分

七月辛卯,太白晝見,經天。癸巳,亦如之。典獄署令金德生,僞造檢校告身十五通,事覺杖之。乙未,以生辰,宥二罪以下。信州監務申英乙,嘗爲國贐錄事,盜官物,事覺杖之,屬典法爲隸。全羅道元帥池湧奇與倭,戰于鳴良鄕,奪所俘百餘人。以典法判書權季容爲楊廣、全羅道察理使,前判典農寺事黃希碩爲體覆使。禑遣宦者李得芬,讓崔瑩曰:「有民社,然後爲國,今使倭寇,侵掠至此,何也?我當親征。」瑩曰:「臣請往擊之。」倭寇西州,又寇扶餘、定山、雲梯、高山、儒城等縣,遂入雞龍山,婦女嬰兒,避賊登山者,多被殺獲。楊廣道元帥金斯革,擊走之,倭掠靑陽、新豐、鴻山而去。北元遣使,頒赦,納哈出使人亦來。倭寇錦、沃二州,又寇咸悅、豐堤等縣。奉加恩縣陽山寺太祖眞,移安于順興,避倭寇也。甲寅,隕霜。禑令小竪,坑坎後苑,紿知申事李存性,陷之。日以此等戱爲樂。禑欲出獵,李仁任、崔瑩等止之,禑曰:「吾素不好鷹犬,諸相實導之也。且卿等好遊畋,能飛過,不蹂禾稼耶?」

八月遣海道元帥羅世、沈德符、崔茂宣,以戰艦百艘,追捕倭賊。禑獵于城南,凡五日。以宦者李得芬、金實爲守城元帥,身佩弓矢,臂鷹而出,使宦官小竪,胡歌胡笛,彈琴擊鼓以從。知申事李存性,獨不弓矢,禑怒罰之。禑又欲如木村之野,李仁任諫曰:「若向木村,必過玄陵,過而不奠,可乎?所奠之物,豈可猝辦?且奠當禮服,將如之何?」禑以問崔瑩,瑩對亦然,乃止。乙丑,謹妃生子,命名昌,宥一罪以下。禑登殿戱,有窺者,輒執而杖之。倭寇公州,金斯革擊,斬四級。羅世、沈德符、崔茂宣等,擊倭于鎭浦克之,奪所虜三百三十四人,金斯革追捕餘賊于林川,斬四十六級。禑出遊里巷,射狗,自是射殺雞犬,日以爲常,城中雞犬幾盡。倭焚黃澗、禦侮、中牟、化寧、功城、靑利等縣,遂焚尙、善二州。昌城君成士達卒。遣使,徵兵于楊廣、西海道。啓禀使周誼在京師,寄書都堂曰:「誼五月初四日,到遼陽,遼陽飛報朝廷,遂致。誼七月初五日入見,帝命縛誼,幽于天界寺數日。中官本國人尙寶監丞崔安至訊其事由,誼對曰:『凡朝廷所需,不如約者,盖我小邦,地僻民稀,物産尠少,未易辦耳。今聖恩,海涵春育,萬邦咸寧,如不憐我小邦,雖誅一誼,亦何濟哉?』中官遂以誼言入奏。明日,帝召誼,御札示誼曰:『彼東夷,易施輕詐,往來肆毒,果是求安者耶?必欲根禍於將來者歟?』誼再拜扣頭,對曰:『小邦豈敢肆毒?其貢不如約者,非忠誠不至,實民貧而物不備也。』帝震怒,復示誼曰:『曩者,弑其主,中國已與絶交,有勑諭,高麗限山隔海,似難聲敎,使彼自爲爾。乃詭詐多端,數來願聽統屬,及至約以効貢,姑定常貢之例,以爲驗。却乃弗從,果願統屬者歟?抑姦詐現然歟?』於是,命校尉,將誼而出,仍使監之。又明日,復遣崔安,謂誼曰:『爾旣來此,必不得歸。爾令通事,先往取貢,如前約。』復諭誼:『前所需馬一千,已貢若干,今再取輳作一千。明年,金一百斤,銀五千兩,布五千匹,馬一百,以爲常貢之例,則赦爾東夷殺使及內使之罪。』帝命如是,誼敢傳達,惟諸相國量之。」倭侵京山府薪谷部曲。禑出後苑,命放群馬,令左右捕之,輒賜捕者。倭屠咸陽。

九月禑率群少,馳馬後苑,或手自飛索以䌈馬,無所不爲。禑升殿上,手瓦礫擊人,又入後苑,與上護軍文達漢,知申事李存性習射,取存性笠爲的。以密直副使裴克廉爲慶尙道都巡問使。倭焚雲峯縣。禑與內竪,夜至密直使柳遂第,索其室女,遂曰:「臣之有女,國人所知,若行聘禮,臣敢不從?」是夜,禑五至其第,竟不得。遂卽榮也。我太祖與諸將,擊倭于雲峯,大破之,餘賊奔智異山。以子昌有疾,釋囚。

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