朝鮮王朝実録 総序(12)太祖 李成桂8
前文
本編は、阿其拔都と言う名の倭寇が出てくる部分で日本でも割と有名なのだが、調べていくうちに創作ではないかという疑いを持つようになった。その理由は、辛禑六(1380)年八月の倭寇が、これだけ大規模の倭寇であれば高麗史に記載があるはずなのに存在しない。確かに辛禑六年八月に鎭浦に現れた倭寇がいる(七月から暴れていたようだ)が、この倭寇は鎭浦で撃退されている(「倭寇公州,金斯革擊,斬四級。羅世、沈德符、崔茂宣等,擊倭于鎭浦克之,奪所虜三百三十四人,金斯革追捕餘賊于林川,斬四十六級。」倭が公州を寇し、金斯革、擊ち、四級を斬る。羅世、沈德符、崔茂宣ら、鎭浦において倭を擊ち、之に克ち、所虜三百三十四人を奪い、金斯革、林川において餘賊を追捕し四十六級を斬る)。この月は倭寇が頻出しているが、特記すべきものでは無く、明の洪武帝から、この詐欺師ども、言い訳は良いから朝貢しろと怒られている方が大きい事件になっている。
また船五百隻と言う数が異常である。応永の外寇の時李氏朝鮮が用立てた船数は二百二十七隻であり、換算するとこの倭寇は四万の兵で攻め込んだ事になる。四万を維持するのには大量の兵糧と水が必要で、自ら補給を破綻させる倭寇は考えられない。騎馬一千六百を捕獲しているのもその傍証にもなりうる。これだけの軍馬を船にのせ運ぶのも維持するのも大変だ。またこの編で出てくる倭寇の武器は、武器は長い柄のほこと弓の重騎兵ばかりである。女真の重騎兵の装備で、倭寇は、ほとんどが歩兵で刀や槍を振り回すことが多く、矛盾がみられる。つまり朝鮮北部で行われそうな戦の記述をしているのである。そして、これだけの大勝にもかかわらず、これ以降も倭寇の勢いが全く衰えていないのである。また倭寇の場合、捕虜1もしくは首級1でも高麗史に戦果が記録されているため、記述にあるような勲功があったとも思えない。
なお朴修敬、裵彦が死んだと言う記述から高麗史の昌王元年の「庚申,倭自鎭浦下岸,橫行楊廣、慶尙、全羅之境,焚蕩郡邑,殺掠士女,三道騷然,元帥裴彦、朴修敬等皆敗死。國家憂之,遣卿及九元帥,諸將逗遛不進,卿獨奮然,率其麾下,鏖戰引月之驛,捕獲無遺,民賴以安。」から取ってきたと思われる。辛禑六(1380)年は庚申である。しかし、この文はクーデターの首謀者達を誇張して顕彰したものなので事実をそのまま記したとは考えにくい。
そのため、この話自体が1377年5月の智異山の乱か辛禑六(1380)年九月の倭寇討伐(「我太祖與諸將,擊倭于雲峯,大破之,餘賊奔智異山」李成桂と諸将は、雲峯(今の慶尚南道咸陽郡)において倭を擊ち、大いに之を破り、餘賊は智異山に奔る)を脚色して入れ込んだのではないかと考えられる。この倭寇は、慶尚北道(東沿岸)から南下していった可能性がたかく、七-八月に公州から鎭浦(西沿岸)に居た倭寇と別物と考えられる。
また李成桂が三道都巡察使に任じられた記録も高麗史に記載されていない。高麗史の編纂時、李成桂の功績は微細なものでも記録が存在すれば入れ込んでいる(虎を退治したなど)ので、記録自体が存在しない架空のものの可能性が高い。
ともかく、この時期は、西に大明、北に北元、東と南に倭寇が居て四面楚歌だったのは確かのようである。
原文
訳文
辛禑六(1380)年庚申八月、倭賊五百隻が、鎭浦*1に大船を留め、下三道*2に入寇した。沿海の州郡は、ほとんど放火され、殺されるか捕らわれた人民は数え切れないほどで、山野を屍が覆った。
その大船に穀物を転がし、雑穀(米)は、地に山ほど棄てられ、捕らえた子女を切ったものが山積になり、いたるところに血が波の様についていた。二、三歲の女児を掠奪し、髪を剃り腹を割き洗浄し、米酒と一緒に供え天に祀った。*2
三道の沿海の地は、ただ物寂しい空があるだけだった。このような倭の災害は、未曾有の出来事であった。
禑王は、太祖を楊廣、全羅、慶尚三道都巡察使とし、賛成事の邊安烈を都体察使を副官とし、征伐に向かわせた。評理の王福命、評理の禹仁烈、右使都の吉敷、知門下の朴林宗、商議の洪仁桂、密直の林成味、陟山君李元桂*4を元帥とし、全員、太祖の指令を受けた。
軍は長湍に出ると、白い虹が太陽を貫き、占者は「戦勝の兆し」だと言った。倭が尚州に入ると六日酒盛りをし、府庫を燃やし、京山府*5を経て沙斤*6の駅に駐屯した。
三道元帥の裵克廉ら九元帥は負け続け、朴修敬、裵彦の二元帥と兵卒五百人ほどが死んだ。
賊はますます勢いを増して、咸陽城*7を落とし、南原*8に向かった。雲峯縣を燃やし、引月駅に駐屯した。
「金城の穀物と馬をことごとく奪い、北上しようとしている」と言う噂が流れ、内外は大いに震えた。
太祖は千里(約400km)を行く間に見た 覆い被さった死体に心をいため、寝食もままならなかった。
太祖と安烈らが南原に到着すると, 百二十里ほどの距離に賊が居た。裴克廉ら道中、謁見にやってきたが、悦ぶことはできなかった。太祖は馬を一日休めると、翌日戦をしようとすると諸将は「賊は峻険な土地を背にしているので、戦に出るのは待つべきだ」と口々に言った。
太祖は慨然して言った。
「軍は敵に憤っていて、さらにその賊を見て恐れていないのだ、今、賊に逢ったと言うにこれを撃たないことがあってはならぬ!」
そして、諸軍を配置し、翌朝、誓約して東に向った。雲峯を越えて、賊の居る数十里の距離の黄山西北に行き、鼎山峯を登った。
太祖は、道の右が嶮しいのを見て言うには
「賊は必ずこの場所に出る。私を後ろから襲おうとするだろう。私はここに向かい当たろう」
そういうと、自らそこへ向かった。
諸将は皆、平坦な道を進み、賊の武器が沢山見えたので、戦わずに帰ろうとすると、既に日が暮れようとしていた。
そのころ太祖は、嶮しい道に入ると、賊は果たして奇襲の精鋭*9を突出させていた。太祖は大羽箭を二十発射ち、続いて、柳葉箭*10を五十発を射た。全て正面に当たり、すぐに倒れた。
おおよそ三回遭遇し、ことごとく殲滅した。地面はぬかるんでおり、敵味方共にはまり、ともに倒れた、そこから出ると死者は皆賊で、我が軍は一人も傷一つ無かった。ここで、賊は山を頼りに自軍を固めた。太祖は兵卒を指揮し、拠る要害に分け、旗下の李大中、禹臣忠、李得桓、李天奇、元英守、吳一、徐彦、陳中奇、徐金光、周元義、尹尙俊、安升俊らを使い、これに挑み、太祖はこれを下から攻めた。賊は死力を出し、高所から衝突を挑んだので、我が軍の一部は敗けて戻った。
太祖は、将兵に振り返り「手綱を引いて硬くし、馬を躓かせてはいけない」と言った。
やがて、太祖は、また使いをだし、兵を整え、法螺を吹き、蟻のように上に群がり、賊の陣にぶつかった。賊将に槊を引き、太祖の後ろにさし迫っているものが居たので、偏将李豆蘭は馬を躍らせ叫んだ。
「公よ、後ろを見ろ!公よ、後ろを見ろ!」
太祖が振り返る前に、豆蘭はこれを射殺した。太祖は、矢が馬に当たり倒れると、馬を乗り換え、また倒れると、また乗り換えた。飛んでくる矢が、太祖の左足にあたり、太祖は矢を抜くと気がますます溢れ、ますます激しく戦ったので、軍兵は太祖が怪我したことを知らなかった。賊は太祖を幾重にも囲み、太祖と数騎が突出して囲まれた。賊はまた太祖の前で衝突し、太祖は前に立つ八人を殺したので賊は前方をこらえきれなかった。
太祖は天の日を指さして誓い、旗下の左右に言った。
「おびえるものは退け!私もまた賊に殺されそうだ」
将兵は、激しく感じ入り、勇気百倍し、兵はことごとく死戦に身を投じた。賊は植木の様に立ち動かなかった。
一賊の将で、年齢がわずか十五、六ほどの骨貌端麗で驍勇無比のものが居た。白馬に乗り、槊を舞い、馬を走らせると、向かうところなぎ倒していたので、誰も当たろうとしなかった。
我が軍は、阿其拔都*11と称え、争うことを避けた。
太祖はその勇敢さを惜しみ、豆蘭に生け捕りにするように命じた。
豆蘭は言う「もし生け捕りにしようとしても必ずけが人がでます」
阿其拔都は、甲胄をまとい、頭と顔を兜で護り、射るべき隙間がなかった。太祖は言う「私が兜の先を射て脱げるようにするからお前はそのタイミングで射ろ」
そして馬を躍らせて射ると、正確に兜の先に当たった。兜の止め紐が切れ、かたむいたので阿其拔都は急いで兜をなおした。その時、太祖は射て、また兜の先にあたると兜が落ちたので、豆蘭はそのタイミングで射殺した。
そのため賊は気をくじいた。
太祖は身を挺して奮撃し賊たちをなぎ倒し、するどい刀で殺しつくした。賊は万の牛のような声で痛哭し馬を棄て山を登った。
官軍は勝ちに乗じて山の上に馳せ鼓をならして歓呼し天地を奮わし四面を崩したので大いにこれを破ることが出来た。川は赤く染まり、六、七日その色が変わらないので、人は飲むことが出来なかった。すべて澄んだ頃合いに器に盛り久しぶり飲む事が出来た。馬を千六百匹ほどと数え切れないほどの武具を得た。
賊は我が軍の十倍いたのだが七十人ほどを残すのみになり智異山に逃げた。太祖は言う「賊の勇者は、ほとんどいないだろう。天下は敵の国を殲滅しないだろう」としてに追いつめなかった。
ちなみに諸将に笑って「賊を討つにはこのように固くあたるべし」と言い、諸将はことごとく感服した。軍を退いて、軍楽を大いにならし、儺戱*12をおこない軍兵はみな万歳を叫び首級を山積みにして献じた。
諸将は不戦の罪をとわれるのを恐れ、流血するまで土下座し殺さないでくれと懇願するので、太祖は言った「処分を行うのは朝廷だ」
その時、賊の中から自力で帰ってきた捕虜が言う。
「阿其拔都は、太祖が陣を整然と並べているのを眺めて、その衆に言うに『この兵勢をみると、日頃の諸将の比ではなく特殊だ。今日の戦はお前達もそれぞれ十分に気を付けろ』」
阿其拔都は、当初、その島に居るときには遠征に行こうとしなかったのだが、賊の仲間達がその勇敢さを敬服していたので、固く請われてきた。
賊の酋長達は進見するとき必ず跪き、軍中の号令をことごとく主導した。そうして行動すると、軍兵は帳幕の柱になり、みんな竹のように従っていた。
太祖は請うた。
「竹は木より軽く、遠くにいっても便利なので、民家のあるところに植えられるのだ。そして、私の裝飾に古い物がなくても、古い物を失わず返らなければならない」
太祖は、どこもでも、ささいなことを犯さず、みなこのようにした。
兀羅の役*13では、太祖は處明を捕らえたが殺さず、處明は恩を感じて、何時も矢傷を見て必ず涙を流しむせび泣き死ぬまでその左右に従事した。この戦では處明は馬の前に居て力戦して功を立てた。このとき人は之を称えた。太祖が旅を振り返ると判三司の崔瑩が百官を率いて飾り付けた小屋と様々な遊具を設置し東郊の天壽寺の前で挨拶した。
太祖は馬を下りて眺めると小走りに走り再拝した、崔瑩もまた再拝した。前に太祖の手をとり涙を払いながら拝しながら言う。
「あなたでなければ、誰がやるのでしょうか?」
太祖は頓首して感謝して言う
「賢い貴方の指揮を謹んで奉じ幸いに勝利を得ました。私に何の功があるのでしょうか?この賊の勢いは既にくじけていました。もし、また好き勝手にしたら、私はその責を受けないといけません」
崔瑩は言う「君だ!君だ!三韓*14を取りかえした事、それが快挙だ。あなたがいやしくしたら、国は何を頼みにすればいいのか?」
太祖は恐縮して謙遜した。
禑王は、金五十両を与えたが、太祖が辞して言うには「将軍は賊を殺すのだけが仕事だ、臣がどうして受け取れようか」
韓山君の李穡は、祝賀にあたり詩を作った。
掃賊眞將拉朽同, 三韓喜氣屬諸公。 掃賊、真将同じく拉朽し 三韓、諸侯に属する気を喜ぶ
忠懸白日天收霧, 威振靑丘海不風。 忠懸、白日天、霧を收め 威振、青丘海、風せず
出牧華筵歌武烈, 凌煙高閣畫英雄。 出牧華筵、武烈を歌い 凌煙高閣、英雄画く
病餘不得參郊迓, 坐詠新詩頌雋功。 病餘えず、郊迓を参じ 新詩を坐詠す、頌雋の功
前三司左使の金九容はこれに和して唄う
賊鋒摧挫與雷同, 節制無非自我公。 賊鋒、摧挫と雷同 節制、我公自らあらずなし
瑞霧葱葱銷毒霧, 霜風洌洌助威風。 瑞霧葱葱、毒霧銷し 霜風洌洌、威風助く
島夷墜膽軍容盛, 隣境寒心士氣雄。 島夷、軍容盛んに墜膽し 隣境寒く、心士気雄なり
滿國衣冠爭拜賀, 三韓萬世太平功。 衣冠、国に満ちて、拝賀争い 三韓、万世太平の功
成均祭酒の權近もこれに和して唄う
三千心與德皆同, 師律如今盡在公。 三千、心と徳皆同じく 師律、今、盡く公在る如く
許國忠誠明貫日, 摧鋒勇烈澟生風。 許国忠誠明かに日を貫す 勇烈摧鋒し、澟生の風
彤弓赫赫恩榮重, 白羽巍巍氣勢雄。 彤弓赫赫、恩栄重 白羽巍巍、気勢を雄す
一自凱旋宗社定, 須知馬上有奇功。 一自凱旋、宗社を定め すべからず馬上知る、奇功有り
※ 実は、本編と全く関係無いの無い詩を書きつらねている気がする。
*1 鎭浦 全羅北道群山市鎮浦
*2 下三道 楊広道(忠清道)、全羅道、慶尚道
*3 桀紂の故事から引いてきたと思われるが天信仰がむしろ日本人ではないことを示している。
*4 李元桂 李成桂の庶兄 母は韓山李氏(同姓) 桓祖の長男
*5 京山府 慶尚北道金泉市
*6 沙斤の駅 慶尚南道咸陽郡沙斤山城か?
*7 咸陽城 慶尚南道咸陽郡
*8 南原 全羅南道南原市
*9 奇襲の精鋭 韓国語訳は奇兵と銳兵にしている。
*10 柳葉箭 柳の葉のような矢だが、日本の柳葉鏃ではなく、平根鏃に近いようである。
*11 阿其拔都 アギは朝鮮語で子ども、拔都はモンゴル語で勇者を意味し、勇敢な子どもと言う意味か。称○○○○なので、李成桂軍がそう読んでいただけで、実の名前は不明だろう。
*12 儺戱 厄払いの遊戯
*13 三韓 下三道と同義 三國志魏書東夷伝に出てくる馬韓・弁韓、辰韓の有った場所を差す
*14 兀羅の役……賽因帖木兒を攻めるため鴨緑江を越えたこと
※ 船500に700人と馬1600頭
おまけ 高麗史の該当部分
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