爵位について ―西ヨーロッパの爵位と混乱を招く日本語訳

カクヨムに上げたのだが埋もれそうなので転載

※ 整理するほど、ややこしくなる(整理中のまま公開、真偽不明が混じっているので要注意)

 公・侯・伯・子・男と言う爵号は周王朝の爵号であり、ヨーロッパの貴族制度と一体一に割り当てられないものであるが、明治政府の貴族制度がこの爵号を使用し、訳語として採用したために混乱をもたらしている(公と候が現代日本語では同音なのがややこしさに混乱を……)

 公・侯・伯・子・男をそのまま使う場合は、この順番通り使えば良い(何も考えるな)三等爵にする場合は、公・侯・伯か公・伯・男。数を増やしたい場合は準爵など間に挟めば良いだろう(投げやり)秦二十等爵とか覚えられないし。

 周朝の爵位の関係を調べるのは面倒なので取りあえず放置。

 ――とはいえ、説明するのには便利であるので五等爵をそのまま利用する訳である。

大公:

 大公と訳している単語にはグランドデューク、アーチデューク、プリンスなどがあり、訳すと逆に混乱してしまう。

 グランドデュークは神聖ローマ帝国期に有力公爵が陞爵したものである。

 神聖ローマ帝国は、皇帝の下にドイツ王(皇太子が就くことが多い)が居たので、王が名乗れず、公爵以上王未満の爵位が必要になった為だと思われる。なお、ボヘミアはドイツでもイタリアでもない(今のチェコの一部)ので王が名乗れたのだと思われる。

 イタリアのローマ以北は帝国領に含まれていたためイタリア王は神聖ローマ皇帝の兼任が多く、やはり王を名乗れないのでグランドデュークが必要になったと思われる。一方、帝国に含まれない南イタリアのシチリアやナポリは王を名乗っている。

 アーチデュークはハプスブルク家が14世紀頃に使用を始めた自称である。当時のオーストリア公ルドルフ四世はオーストリア公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公の爵位を持っていたが選帝侯には含まれておらず、権威付けの為に名乗り始めたと言われている。

 プリンスはややこしい。

 例えば、プリンスは直訳すると王子だが、プリンス・オブ・ウェールズはウェールズ大公もしくはウェールズ公と訳される。

 そもそもプリンスの語源はラテン語のプリンケプスで、これは大元の用法(元老院の)第一人者から転じて元首を意味する様になった単語である。そのため、単純に訳すと元首もしくは君主になる。

 プリンスは、国王や皇帝の家臣に位置するグランドデュークとは異なる系統で、王子、大公、公と訳語が幾つも存在する。


公爵:

 公爵のデュークはラテン語のduxを語源とする。

 duxはリーダーと言う意味を持つ。西ローマ帝国の末期には(複数の州にまたがる)軍指揮官を差していた様である(要確認)。ドイツ語のヘルツォークはduxをドイツ語に訳したものの様で、ある時期に軍政一体になり(要確認)ヘルツォークが平時の指導者を兼ねるようになり王に次ぐ地位とされた様である(後述するイギリスのアールも似た様なものの気がする)

 また前述の様に、プリンスを公とする事があるし、後述のフュルストを公と訳す事がある。

侯爵:

 ドイツに於いてはフュルスト(侯爵)の地位はかなり曖昧である。

 例えば、リヒテンシュタイン侯は、公と書かれることが多い(なぜなら今のリヒテンシュタインは独立国なので元首=プリンスでもあるからだが)。位置づけがかなり曖昧な爵位である。

 フュルストは本来、帝国諸侯(大公、公爵、辺境伯、方伯、伯爵、司教などの総称)を単純に指した様で、序列に関係なかったようである。

 それが伯爵より上、公爵より下の位置に落ち着いたのは、近世に入ってからの様である(要確認)。このフュルストは、封建領主ではなく例えばハプスブルク家の陪臣などが世襲貴族化したものの様である(要確認)。

 イギリス(及びフランス)の侯爵にあたるマーキス(マルキ)は公爵と伯爵の間に後から作られた比較的新しい爵位である(ただし、ドイツより古い)。フランス語のマルキはドイツ語のマルクと同源で辺境を差しており辺境の統治者が原義の様である。


伯爵:

 恐らくローマ帝国(神聖ではない方)の役職コメスに由来する。コメスは英語のcomeやcompanionと同源で、随行者を意味する。その源流はアレクサンダー大王の随行者から来ている様である(要確認)。そのうち王(皇帝)に随行し、職務を遂行する役職を差す様になる。帝政ローマ時代になると皇帝直属の随行者が政治を執り行う様になる。このコメス自体は役人もしくは使用人を差すと思えば良い(公私の区別がないため)。

 皇帝は直轄する属州に直属の役人を派遣し行政を行わせる様になる。この地方に派遣した役人を属州のコメス(comites provinciarum)と呼んだらしい。これが後の伯爵に続くコメスの様である(要確認)。当然ながら、この時代のコメスはまだ世襲では無い。ゴート族やフランク族も、このコメスを役職として取り入れている。そして、フランク王国が分裂し王不在の中、世襲貴族化したと考えられる。

 伯爵に相当するドイツ語のグラーフの語源は、graphioと推定されており、無理矢理訳すと書記である。これもコメスを無理矢理訳したのではないかと思われる。

 イギリスで、伯爵に相当するのはカウントとアールで、国内の伯爵にアールを使い、国外ではカウントを使う。

 英語のカウントは、フランス語ではコムネであり、ラテン語のコメスになる。

 イギリスに於ける伯爵の呼び名カウントはノルマンディ朝以降の伯爵の呼び名で、もう一つアール(Earl)が存在する。

 アールはサクソンのエアルドマン(ealdorman)から来ているが、Earlの語源は古ノルド語のjarl(酋長)の様である。

 エアルドマンは地方の支配権を王から授与された司令官(州太守?)を差していたようである。エアルドマンは王から独立した権限を持っていた様である。

 サクソン時代のイングランドには公爵と侯爵は存在せず、伯爵が最高位だったようである。

 アールはノルマン・コンクエスト以降、実権を失い名ばかりの称号になる。しかし、百年戦争までイングランド王室は、フランスにも領土を所有しており、フランス側には西フランク王国由来の伯爵(カウント)が居たわけである。

 神聖ローマ帝国の伯(グラーフ)には、方伯、城伯、宮中伯、辺境伯などがあるが土地を持たない伯爵が没落していき土地持ち伯爵ばかりが残る事になる。

 方伯(ラント・グラーフ)はこれらの伯爵の中で一番権限が大きく、国中国といえる権限があったようである。ただし方伯は権限が大きすぎるゆえに早い時期に公爵を名乗り始めるので家中の事情で称号が残っている状態になった様である(ヘッセン方伯とか)。

 宮中伯(プファルツ・グラーフ)は地方に派遣された代官職的なものが世襲化したものを差すらしい。プファルツはラテン語のpalatineを意味し、palatineはパラティーノの丘(ローマにある七つの丘の一つで皇帝の宮殿があった場所)から来ている。パラディンやパレスと同源。しかし軍事的背景に劣る宮中伯は吸収され消滅したようで、残ったのはライン地方に土着したライン宮中伯のみ。

 城伯(ブルク・グラーフ)も12世紀頃には名称だけが残った様である。城伯は本来、城塞の所有者で所領も持って居たようである。

 ――ところが城伯を調べていくと伯爵の下の地位みたいな記述が見られ混乱が見られる。城を支配する伯爵と、世襲代官みたいなのがどこかで混乱していた模様(要確認)。

 ベルギー・オランダでは子爵に相当する。例えばアントワープ城伯は英語だとアントワープ子爵になる。

 辺境伯(マルク・グラーフ)は国境沿いに配置された伯爵である。後に辺境伯が、公爵より下、伯爵より上に位置するようになるが、これは独立した軍権と広大な領土(ただし人口は少なかった)に起因すると思われる。

 強力な辺境伯は、概ね公爵に格上げされてしまう。例えば、オーストリア辺境伯は12世紀にオーストリア公を名乗り始める。他の有力な辺境伯も王国になったり公爵領になったりしている。

 近世近くまで残った辺境伯の一つにブランデンブルク辺境伯があるが、これもプロイセン王国になっている。

 なお国境沿いに必ず辺境伯を置くとは限らない様で、フランク王国のピレネー以南側の領土は、スペイン辺境領と呼び、その下にバルセロナ伯などが混在していた。


子爵:

 英語の子爵(バイカウント)は、vice+comesから来ており、直訳すると伯爵代理(副伯爵)と言う意味になる。フランスの子爵を導入した様である(ドイツに同等の爵位はない)フランスの子爵は伯爵の後嗣が名乗る事が多かった様である。

 低地ドイツ(オランダ・ベルギー)では城伯が子爵に相当するらしい(城伯の段落参照)。


男爵:

 男爵は、他の爵位と趣が異なる。上4つは世襲役人の性質が強いのだが、男爵は土着豪族を貴族として取り込んだものと考えられる。

 イングランドのバロンは国王から授爵した独立領主層と考えられている。日本で言うと鎌倉時代の御家人が近いのかも(守護が公爵で、地頭が伯爵みたいな感じかいな)

 一方、ドイツのフライヘルは原義は自分の土地に対する自由な権利を持っている意味らしく(独立自由農民?)、これらは領主の下に居るリッター(騎士)に相当するらしい。

 イングランドの男爵は王直属なのに対し、ドイツの男爵の場合は、伯爵や公爵が上にいることを示す。時代が降ると、有力な家がフライヘル、下層がリッター(騎士層)を構成したようである。

 イングランドの男爵は大男爵と小男爵に分類でき大男爵のみが貴族扱いだったようである。イギリス貴族は議会に議席を持てるかで分類されていたので、小男爵を貴族にすると議員数が多すぎて議会が運営できなくなると言う事情があったようである。14世紀に入ると領土を持たない男爵が出てくる。



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