朝鮮王朝実録 総序(2) 翼祖 李行里

 李行里は、元寇に参加した逸話と神話じみたエピソードがあるだけ。

翼祖 李行里

穆祖配孝妃 李氏, 非一李也。 千牛衛長史諱公肅之女, 生諱行里, 是爲翼祖。 至元十二年乙亥三月, 襲職。

 穆祖の妻孝妃は李氏である。同じ李氏ではない*1。千牛衛長史*2の(李)公肅の娘で、李行里を生んだ。これが翼祖である。 至元十二(1275) 年乙亥三月、職をついだ。

*1 「一李あらずなり」。同姓でも同本貫では無いと書けないためので言い回しを変えたのか。ちなみに朱子学的には駄目でも新羅も高麗も王族は同族婚だらけなので、この時代の同族婚は特に不自然ではない。

*2 高麗 千牛衛 常領一領,海領一領。衛置上將軍一人正三品,大將軍一人從三品。每領置將軍各一人正四品,中郞將各二人正五品,郞將各五人正六品,別將各五人正七品,散員各五人正八品,尉各二十人正九品,隊正各四十人。

十八年辛巳, 世祖征日本, 天下兵船, 會于合浦。翼祖蒙上司文字, 將本所人戶, 簽撥軍人, 與雙城摠管府三撒千戶 蒙古大塔失等赴征, 遂見高麗 忠烈王, 至于再三, 益恭益虔 每謝曰: "先臣奔于北, 實脫虎狼之口耳, 非敢背君父也。 願上釋其罪。" 王曰: "卿本士族, 豈忘本乎? 今觀卿擧止, 足知心之所存矣。"

 (至元)十八(1281)年辛巳、フビライ(世祖)は日本に遠征するために国中の兵船を合浦に集めた。李行里(翼祖)は上司から書面を受け取り本所の人戸から軍人を徴発し *3、雙城摠管府の三撒千戸とモンゴルの大塔失タタシュ*4等と遠征に赴いた。

 (李行里(翼祖)は)高麗の忠烈王に何度も有うので恐縮し、毎回謝して言う。*5

「先に臣が北に奔ったのは、実は虎狼の口から脱するためだけです。あえて君父に背いたのではないのです。王がその罪をゆるすように願います」

 王は言う。

「君は士族(両班)の出と言うことを忘れていないのか?今、君のふるまい(擧止)を見るとその心のありかを知るのには十分だ」

*3 《翼祖は上司が文字に蒙き、もって本所の人戸、人を軍に簽撥せんとす》とも下せる
*4 塔失にはtašの音写例があるのでタタシュとした。
*5 元と高麗の合同軍になっていおり、雙城摠管府は元に属していたので李行里は元軍に参加していたと思われる。そのため高麗王に会う可能性はかなり低いと考えられる。なお息子が自分の事として言い訳している部分にも疑問が残る。

初穆祖時時往峴城, 諸女眞千戶、達魯花赤, 皆願納交, 遂與之從遊。 諸千戶禮待甚厚, 必宰牛馬享宴, 輒留數日。 諸千戶有至斡東者, 穆祖亦如是, 逮翼祖承襲, 遵而不改。 翼祖威德漸盛, 諸千戶手下之人, 多歸心焉。 諸千戶忌而謀害之曰: "李 【翼祖諱。】 本非我類, 今觀其勢, 終必不利於我。 盍請兵於深處之人而除之, 且分其財産乎?" 乃謬告曰: "吾等將獵北地而來, 請停會二十日。" 翼祖許之, 過期不來。 翼祖親往峴城, 唯老弱婦女在, 丁壯無一人。 問之一女, 對曰: "貪其獸多, 至今不返耳。" 翼祖乃還。 道見一老嫗, 頭戴水桶, 手持一椀。 翼祖忽渴欲飮, 老嫗淨洗其椀, 取水以進, 因言曰: "公不知乎? 此處之人, 忌公將圖之, 請兵而去, 非獵也, 後三日必來。 貴官威德可惜, 不敢不告。" 翼祖惶遽而返, 使家人船載家産, 順流豆滿江而下, 期會赤島。 自與孫夫人, 渡加陽灘, 登高望之, 則斡東之野, 賊彌滿而來, 先鋒三百餘人, 幾及之。 翼祖與夫人, 走馬至赤島北岸, 水廣可六百步, 深不可測, 所期之船, 亦未至, 無如之何。 北海本無潮汐, 水忽退落約百步許, 其淺可涉。 翼祖遂與夫人, 累騎一白馬而涉, 及從者畢涉, 水復大至, 賊至不得渡。 北方人至今稱之曰: "天之所助, 非人力也。" 翼祖於是陶穴而居, 其基至今存焉。 斡東之民, 聞翼祖所在, 從之者如歸巿, 皆居島內。 久之, 取稷島、楸島、草島之材, 作船十艘, 至元二十七年庚寅, 復以水路, 還居宜州, 孔州之民皆從之。 其所居之地, 至今稱爲赤田, 以其自赤島而來也。


 李安社(穆祖)の時初めて、峴城に行ったとき、いくつかの女真千戸やダルガチが皆、交流を願うので、これに従い遊んだ。諸千戸は礼をはなはだしく厚くし、必ず牛馬を捧げ宴を行い数日そこに留まった。諸千戸が斡東にいっても李安社(穆祖)は同じようにし、李行里(翼祖)の代になってもこれを踏襲して改めなかった。李行里(翼祖)の威徳はだんだん盛んになり諸千戸の手下の多くも心から帰心した。
 それを忌まわしく思ったいくつかの千戸が謀をした。
「李行里には我らにはない本性があり、今の勢いを観ると結局のところ我々には利さない。それゆえ深処*6の人に頼み兵をあつめて取り除き、その財産を分配するべきだろう?」そして謝して言う「我々は北の地に狩りに行こうと思うので、会を二十日やめましょう」

 李行里(翼祖)はこれを許したが期日が来ても(誰も)やってもこなかったので、李行里(翼祖)がみずから峴城に行くと、老弱の婦女だけがいて、壮丁(若い男子)が一人も居なかった。老女に聞くと、答えて言う。「その獣が多いので(それを)むさぼっていて、まだ返ってこないだけです」


 李行里(翼祖)はそれをきいて帰ると道に一人の老婆を見た。頭に水桶を載せ、手に碗を一つもっていた。李行里(翼祖)は、たちまち喉が渇き、水求めたので、老女はその碗を洗浄し、水をすくって与えて言う。
あなたは知らないのか?この人のところでは、あなたを嫌っていて謀をしている。兵を集めて、とりのぞこうとしているのだ。狩りにっているわけではない。三日後、必ず来る。あなたは威徳を惜しむべきだと言わずにはおれません」

 李行里(翼祖)は、(その話を聞くと)急に怖くなって戻り、家人を使わし、船に家の財産を載せ、豆満江の流れをそのまま下り赤島で落ち合うことにした。孫夫人と自ら加陽灘を渡り高い所に登り眺めると斡東の野には賊が満ちあふれており、先鋒の三百余人は、すでに追いつこうとしていた。李行里(翼祖)と夫人は、馬を走らせ赤島北岸につくと水の広さが六百步、測れないほどの深さがあったので、船が来るのを待ったがなかなか来ないのでどうしようもなかった。北の海は潮の満ち引きが本来無いが、水はたちまち約百步ばかり落ち引き、その浅いところが渡れるようになった。 李行里(翼祖)と夫人は一騎の白馬に乗って渡り、続いて従者が渡り終えると、水が元に戻ったので、賊は渡ることができなかった。*7
 北方の人は今これを称して言う。
「天の助けるところで、人の力ではない」
 李行里(翼祖)は陶穴*8に住んだ。その跡は今も残っている。

 斡東の民は、翼祖の所在を聞くと従う者はまるで市に帰するが如く(徳の高い人に人が集まる様子――孟子)、みな島内に住んだ。長い間に取稷島、楸島、草島の材で十艘の船を作り、 至元二十七(1290)年庚寅、再び水路をたどって、宜州に帰り着いた。孔州の民は皆これに従った。

 その住んでいた地が今、赤田と称されているのは赤島から来ているのである。

*6 深處。直訳すると深い処だが意味不明。
*7 モーゼの逸話が入ってきたのかも。
*8 直訳すると洞穴か墓穴。

夫人生二男, 長曰嬀水, 次曰福。 夫人卒, 再配貞妃 崔氏, 登州 【卽安邊。】 戶長諱基烈之女。 遂置永業於州之脥村而居, 又以民三十戶, 處於州西十五里。 後稱其地爲三十戶平。

 孫夫人は二人の男子を生んだ。長男は嬀水と言い、次男を福と言う。夫人が亡くなると貞妃崔氏と再婚した。登州(江原道安辺郡)の戸長崔基烈の娘である。その州の脥村に永業(永業田)*8を置いて居を構えた。三十戸の民がいて州の西十五里にあった。後にその土地は三十戸平とよばれた。

*8 永業田 免税の私有地。北魏の制度では、口分田以外に私有農地の保有がある程度認められていた。それを永業田と言う。

數歲無子, 與崔氏禱于洛山 觀音窟, 夜夢有一衲衣僧來告曰: "必生貴子, 當名以善來。" 未幾有娠, 果生子於宜州, 遂名曰善來, 是爲度祖。 窟在今江原道 襄陽府。 時翼祖往來安邊, 而亦或往來於和州、咸州。

 居を構えて数年男子がなく、崔氏は洛山の観音窟に祈祷した。その夜夢をみて、一人の衲衣のうえの僧が来て告げる。
「必ず貴方の子は生まれる。その時、善来と名付けなさい」
 いくときも経たず妊娠して宜州で子が生まれた。その名を善来と言い度祖のことである。観音窟は今の江原道襄陽府にある。その時、翼祖は安辺に行き来したり和州、咸州を行き来したりしていた。*9

*9 孫夫人の二子と父母違いの子どもを暗喩している気がする。


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