朝鮮王朝実録 総序(9)太祖 李成桂5

 モンゴル皇帝トゴン・テムル(順帝)の皇后に高麗人奇氏がなったのだが、それを頼みにして高麗での専横があまりに酷すぎるので1356年に一族が粛清された。

 それはともかく、朱元璋の北伐により元の皇帝が北京を追い出され、元の皇帝は、モンゴル高原に逃げた。その時点で元が滅びたわけでは無く、残存勢力がバラバラに動き出した訳である。遊牧民政権の特徴であるが、一番強い武力を持つ部族に他の部族が服す構造なので、弱くなれば服していた部族が離れていく訳である。そもそも高麗からして双城総管府を占領したり、遼東に進出したりと本国に対してやりたい放題しており、当然、その逆もあったわけだ。満州方面に勢力を張ったのはナガチュの様だが、奇賽因帖木兒もその時期に独立を試みたのかも知れない。しかし実際の所は記録が存在しないので全く不明である。敗れた後も誰もしらないぐらいである。もしかするとモンゴル高原に戻ったのかもしれない。そして高麗は、賽因帖木兒を討伐を目的にして鴨緑江の北を侵略した。実にこれが高麗滅亡の始まりになるのもは高麗人も知らなかっただろう。

 「まずい」を「おいしい」と翻訳していまうGoogle翻訳なんとかして……。意味が逆ではないか。エディタの制限で序論と本論と注を読みやすく出来ないのが辛い。

趙武, 元將也。 元衰, 率衆據孔州。 太祖謂麾下士曰: "此人終必爲亂, 不可置之。" 乃率衆擊之, 惜其人勇銳, 以高刀里箭, 射中數十, 武下馬而拜, 遂擒之。 武心服, 卒爲厮養, 終身僕役, 後官至工曹典書。

 趙武は元の将だったが、元が衰えると民衆を率いて孔州に居座った。太祖は旗下の兵に言った。
「この人が居ると必ず乱が起きる。ここに置いてはいけない」
 そして、率いる民衆を撃ち破った。その人の勇鋭を惜しみ、高刀里箭*1をもって数十を射当てると趙武は下馬して平伏したのでこれを生け捕りにした。趙武は心服し、兵卒として牛馬をやしない、死ぬまで下僕として働き、後に工曹典書に達した。

*1 ゴドリ矢、木製でコブのようになっている鏃の矢。モンゴル語に由来すると言う。生け捕りにするために殺傷力のない矢を使ったのだろう。

恭愍王十八年己酉。 【洪武二年。】 初奇賽因帖木兒, 轍之子也。 事元爲平章事, 元亡, 與分司遼 瀋官吏平章金伯顔等, 招集亡元遺衆, 割據東寧府, 憾其父見誅, 入寇北鄙, 必欲報仇。 王以臣事大明, 欲擊東寧府, 以絶北元。 十二月, 以太祖爲東北面元帥, 池龍壽、楊伯淵爲西北面元帥

 恭愍王十八(1369)年、己酉 (明の洪武二年)、元々賽因帖木兒サイン・テムル*2は奇轍*3の子で、元で平章事*4として仕えていたのだが、元が滅ぶ*5と、分司で遼寧、瀋陽の官吏の平章や金伯顔パヤンらと元の遺民らを呼び集め東寧府に入り居座った。その父を誅したことを見て恨み*6、北の辺境を侵し必ず仇に報復しようとしていた。王は大明に臣従することで、東寧府を撃とうとし、北元と断交した。*7
 十二月、太祖を東北面元帥にし、池龍壽と楊伯淵を西北面元帥にした。

*2 モンゴル語で《白い鉄》と言う意味のようだ。
*3 奇轍は奇皇后の兄
*4 平章事は、宰相に準じるが、元の時代においては丞相の補佐官になり、中央と行省それぞれに置かれていた。
*5 実際には元は華北・江南と首都大都(北京)を放棄してモンゴル高原に戻っただけである(これを北元と呼ぶ)。この時代、満洲と雲南は明ではなく北元が有していた。
*6 1356年 恭愍王が奇一族を粛清したこと
*7 東寧府は、本来、平壌のこと
*8 この部分は不可解である。1364年の元と戦いが平安道で行われているにもかかわらず、1290年に廃止され高麗に移管された東寧府が再び出てくること。1356年に既に元と戦争状態にあり、元号の使用をやめているのにも関わらず、かさねて断交している点などが挙げられる。この時代の東寧府は平壌ではなく満州よりにあったと言う説もある。

恭愍王十九年庚戌正月, 太祖以騎兵五千、步兵一萬, 自東北面踰黃草嶺, 行六百餘里, 至雪寒嶺, 又行七百餘里, 渡鴨綠江。 是夕, 京城西北方紫氣漫空, 影皆南。 書雲觀言猛將之氣。 王喜曰: "予遣李, 【太祖舊諱。】 必其應也。" 時東寧府同知李吾魯帖木兒, 聞太祖來, 移保亏羅山城, 欲據路以拒。 太祖至也頓村, 李原景來挑戰。 【原景卽吾魯帖木兒。】 俄而棄甲再拜曰: "吾先, 本高麗人, 願爲臣僕。" 率三百餘戶來降。 其酋高安慰猶據城不降, 我師圍之。 時太祖不御弓矢, 取從者弓, 用片箭射之, 凡七十餘發, 皆正中其面, 城中奪氣。 安慰不能支, 棄妻孥, 縋城夜遁。 明日, 頭目二十餘人, 率百姓出降, 諸山城望風皆降, 得戶凡萬餘。 以所獲牛二千餘頭、馬數百餘匹, 悉還其主, 北人大悅, 歸之如巿。 於是, 東至皇城, 北至東寧府, 西至海, 南至鴨綠江, 爲之一空。 皇城, 古女眞皇帝城也。 太祖以元樞密副使拜住及東寧府 李原景、李伯顔、李長壽、李天祐、玄多士、金阿、魯丁等三百餘戶來獻。 太祖之入亏羅也, 聞毁垣中有哭聲, 使人就視之, 有一人裸立而泣曰: "我元朝壯元及第拜住也。 貴國李仁復, 吾同年。" 太祖一聞壯元之名, 卽解衣衣之, 與馬騎之, 遂與俱來, 王賜拜住姓名韓復。 復事太祖甚謹。

 恭愍王十九(1370)年、庚戌の正月、 太祖は騎兵五千、步兵一萬を率いて、東北面の黄草嶺*9を越えた。六百余里*10を行き、雪寒嶺*11に至り、また七百余里を行き、鴨緑江を渡った。

 この夕、みやこ(開城)では、西北の方に紫の気が空に立ち込め、南を影で覆った。書雲観*12は猛将の気と言った。
 王は喜び「余は李成桂を使わした。必ずそれに応じるだろう」と言った。
 その時、東寧府の同知の李吾魯帖木兒ウル・テムルは、太祖が来たと聞いて、亏羅山城に移動して隠り、道を阻もうとした。
 太祖は也頓村まで行き李原景に戦を挑むと《李原景は李吾魯帖木兒ウル・テムルのことである》即座に、鎧を捨て再拝していった。
「私は本来高麗の人なので、願わくば降参したい」と三百余戸の兵を率いて降伏した。

 その酋長、高安慰は、なお城を降ろうとせず、我が軍はこれを囲んだ。
その時、太祖は、弓を御せず、従者の弓を取った*13。片箭を用いてこれを射ると、おおよそ七十余発が全て真っ正面に当たった。城の中では士気を失った。

 高安慰は城を守ることが出来ず、 妻子を捨てて夜に乗じて城から逃げた。翌日、頭目二十余人が、民を率いて降伏し、その様子を見ていていた山城がみなくだったので、一万戸ほどを得た。

 その時、牛二千余頭、馬数百余匹を捕獲したので、ことごとくその持ち主に返した。北人*14は大喜びして、市に帰するが如しだった。*15

 これにより東は皇城に至るまで、北は東寧府に至るまで、西は海に至るまで、南は鴨緑江に至るまで、空になった。皇城は、古の女真の皇帝の城のことである*16。

 太祖に元の枢密副使拝住バイジュ、東寧府の李原景、李伯顔、李長壽、李天祐、玄多士、金阿、魯丁ら三百戸が来献した。太祖が亏羅に入ると壊れた垣の中から慟哭する声が聞こえてきた。人を使わしてこれを調べさせると一人が裸で起って泣いていて、「私は元朝で、壮元及第*17した拝住バイジュだ、貴国の李仁復と同じ年だ。」と言った。
 太祖は、壮元の名を一度聞くと、即座に衣服を脱いで、彼に着せ、馬に乗せた。ついに共に行き来し、王は、拝住バイジュに韓復と言う姓名を与えた。また、太祖にたいへん謹しんで仕えた。*18

*9 咸鏡南道長津郡新南面にある1,200mの山
*10 1里は4-500mぐらい(伸び縮みあり)
*11 平安北道江渓郡龍林面、咸鏡南道長津郡西漢面にある1,427mの山
*12 天文官、恐らく日本の陰陽師に相当する。
*13  間に合わせの弓で俺tueee
*14 北人は恐らく女真族を指している
*15 市に人が集まるように、徳のある者に人の慕い集まることのたとえ(孟子)
*16 大真国の南京(吉林省延吉城子山)か?
*17 科挙に筆頭で合格したものだが、元では、ほとんど科挙をやっていないのだ。さらにモンゴル人に有利な制度になっていた。(《元史》志 選挙)
*18 文尊武卑が現れているシーン(しかし、氷点下の正月に裸で居たら凍死する気がする)

八月, 命我太祖及西北面元帥池龍壽、副元帥楊伯淵, 往擊東寧府。

 八月、太祖と西北面元帥の池龍壽、副元帥の楊伯淵は命により、東寧府を攻撃した。

十二月, 太祖以親兵一千六百人至義州, 造浮橋, 渡鴨綠江, 士卒三日畢濟。 至螺匠塔, 去遼城二日程, 留輜重齎七日糧以行。 使裨將洪仁桂、崔公哲等, 領輕騎三千, 襲遼城, 彼見我師少, 易之與戰, 大軍繼至, 城中望見膽落, 其將處明恃驍勇猶拒戰。 太祖使李原景喩之曰: "殺汝甚易, 但欲活汝收用, 其速降也。" 不從。 原景曰: "汝不知我將之才也。 汝若不降, 則一射洞貫矣。" 猶不降。 太祖故射拂其兜牟, 又使原景喩之, 又不從, 太祖又射其脚, 處明中箭退走。 旣而復來欲戰, 又使原景喩之曰: "汝若不降, 卽射汝面。" 處明遂下馬叩頭而降。 有一人登城呼曰: "我輩聞大軍來, 皆欲投降, 官員勒使拒戰, 若力攻城, 可取也。" 城甚高峻, 矢下如雨, 又雜以木石, 我步兵冒矢石, 薄城急攻, 遂拔之。 賽因帖木兒遁, 虜伯顔, 退師城東。 張牓納哈出、也山不花等處曰:
奇賽因帖木兒, 本國微臣, 昵近天庭, 過蒙殊恩, 位至一品, 義同休戚。 天子蒙塵于外, 義當左右先後, 効死勿去。 爾乃背恩忘義, 竄身東寧府, 挾讎本國, 潛圖不軌。 年前國家, 遣兵追襲, 逃不血刃, 又不赴於行在, 退保東寧城, 與金伯顔平章等, 結爲心腹, 松甫里、法禿河、阿尙介等處, 團結軍馬, 又欲侵害本國, 罪在不原。 故今擧義兵以問, 乃其賽因帖木兒、金伯顔等誘脅小民, 堅壁逆命。 哨馬前鋒, 生擒金伯顔外哈刺波豆、德左不花高達魯花赤、大都摠管等大小頭目, 盡行勦捕, 賽因帖木兒, 又復在逃。 仰賽因帖木兒去接各寨, 卽便捕捉飛報。 如有隱匿不首者, 鑑在東寧。
又牓金、復州等處曰:
本國與堯竝立, 周 武王封箕子于朝鮮, 而賜之履西至于遼河, 世守疆域。 元朝一統, 釐降公主, 遼 瀋地面, 以爲湯邑, 因置分省。 叔季失德, 天子蒙塵于外, 遼 瀋頭目官等, 罔聞不赴, 又不修禮於本國, 卽與本國罪人奇賽因帖木兒, 結爲腹心, 嘯聚虐民, 不忠之罪, 不可逭也。 今擧義兵以問, 賽因帖木兒等據于東寧城, 恃强方命。 哨馬前鋒, 盡行勦捕, 玉石俱焚, 噬臍何及? 凡遼河以東本國疆內之民, 大小頭目官等速自來朝, 共享爵祿。 如有不庭, 鑑在東京。
翌日, 師次城西十里。 是夜, 有赤氣射營, 熾如火, 日官曰: "異氣臨營, 移屯大吉。" 遂班師野宿, 令士卒各作溷廁、馬廐。 納哈出躡後行二日曰: "作廁與廐, 師行整齊, 不可襲也。" 乃還。 時中國人曰: "攻城必取, 未有如高麗者也。"

 十二月、太祖は親兵一千六百人を率いて義州*19につくと浮橋を作り鴨緑江を渡った。士卒は、三日かけて渡り終えた。

 遼城から二日程の離れた螺匠塔に至ると輜重を留め、七日分の兵糧をもって行き、裨将洪仁桂、崔公哲らを使わし、軽騎兵三千を領して遼城を襲うと彼らは我が軍の少ないのを見て与しやすいと戦ったが、大軍を続けて投入すると城中には落胆がみえた。その将處明は、驍勇をたより、なお防戦していた。

 太祖は李原景を使わし、さとして言うには「おまえを簡単に殺せるが、おまえは活かして捕らえたい、だから速く降伏しろ」

 しかし、従わなかった。

 李原景が言った「おまえは我が将の才能をしらない。おまえは降伏すべきだ。でなければ弓の一射で貫かれるだろう」

 しかし降伏しなかった。

 そこで太祖は、その兜を射て追い払い、また李原景を使わして説得したが、従わなかった。太祖はまた、その足を射ると處明は矢にあたり走って逃げた。しかし、また来て戦うとしたのでまた李原景を使わし諭して「おまえが、降伏しないのなら、次はお前の顔を射る」と言った。

 處明はついに馬から降りて叩頭して、降伏した。

 一人、城に登り叫ぶものがいた。

「我が輩は大軍が来ていると聞いて、みんな投降したがっているが、官員、勅使が拒んでいる。もし力で城を攻めるなら、必ずおとせるだろう」

 城はとても高く峻険で、矢が雨のごとくふり、また木や石なども同じようにした。我が歩兵は、矢石を掻い潜り、城に肉薄し攻めついにこれをぬいた。賽因帖木兒サイン・テムルは逃げ、伯顔パヤンは捕まった。軍は、城の東に退いた。

 納哈出ナガチュ也山不花イェサン・ブカ*20らが札を布告するところでは、

「奇賽因帖木兒サイン・テムルは、本国の取るに足りない家臣だ、天子に近づき、ありあまる殊恩をうけ、位は一品になり、義理の親戚として喜びと悲しみ同じくした。天子は都おちしたが、その義により左右先後につき死ぬまで付き従わなければならない。その恩義を忘れて背き、東寧府にネズミの様に隠れ、本国に仇をなそうとして、叛逆をたくらんでいる。
 去年、国は、兵を追撃に送ったが、血の刃から逃れ、また行在あんざい*21に赴かず、東寧城に籠城し,金伯顔パヤン、平章らと結託し、松甫里、法禿河、阿尚介などの場所に軍馬を集結させて、本国を侵害しようとしている。罪があることはくつがえらない。
 ゆえに、今義兵を挙げることもって問い賽因帖木兒サイン・テムル、金伯顔パヤンらが庶民をかどわかしたり脅迫したりして、命に逆らい城壁を固めていたので、馬哨前鋒し*22、金伯顔パヤン哈刺波豆ハチポヅ德左不花テス・ブカ達魯花赤ダルガチ*23、大都総管らの大小の頭目を生け捕りにし、ことごとく討伐して捕らえた。賽因帖木兒サイン・テムルは、またも逃げた。賽因帖木兒サイン・テムルは各城塞によっているのを見かけたら直ぐに捕らえて報告を飛ばせ。もし隠匿があり、自首しないものがあるのないようにせよ。東京*24より布告する*25」

 また、金州、復州などの布告には、

「本国(元)は、堯*26と並びたち、周武王は箕子を朝鮮に封じ*27、遼河に至るまでの西の地を賜り、代々、国境を守っていた。元朝は一つに統べ、公主に下賜し、遼寧、瀋陽の地に面し、そのため湯邑(湯地)*28としてより省を分けて置いた。叔季は徳を失い、天子は都をおちした。遼寧、瀋陽の頭目官らは、(それを)聞いても愚かに赴かず、また本国に対する礼を修めないどころか、本国の罪人、奇賽因帖木兒サイン・テムルと結託し、民を集め虐げうそぶいている、不忠の罪であり放置できない。今、義兵を挙げて問う、東寧城による 賽因帖木兒サイン・テムルらを、強きをもって天命を正す。
 哨馬前鋒し、ことごとく拿捕し、良きも悪き共に滅ぼさねばならぬ取り返しの付かない事したいのか?おおよそ遼河以東の本国の国境内の民は大小頭目官らを速やかにつれて来朝すべき、共に爵祿を享受せよ。
 不庭のようにせよ。東京より布告する。」

 翌日、軍は、城の西十里に移動した。この夜、赤気が宿営から射られた、火の如く明るく、日官が言うには、
「異様な気が宿営におりている。駐屯地を移すのが大吉です」
 そのため、士卒におのおの厠と馬の厩舎を作るように命じ軍を分けて野宿した。納哈出が二日後に来て呟くには、
「厠と厩舎が作られている。軍は整って行動してる。襲ってはいけない」*29
と言い帰った。その時中国人は「城を攻めれば必ず取る、高麗の者には及ばない」と言った。

*19 平安北道義州。鴨緑江の南側。
*20 不明
*21 行在……皇帝の居る場所
*22 馬哨前鋒、騎馬を哨戒させ武器を準備し と言う意味か?
*23 不明
*24 東京は、遼陽のこと
*25 原文、如有不~ 鏡在○○ は、~なきようにはからえ、○○より命令すると言う 定型句のようだ
*26 堯……中国の古代の伝説に出てくる五帝の一人。名君という設定になっている
*27 箕子朝鮮は、周の武王が殷の王族で紂王の叔父の箕子を朝鮮に封じて出来た国と記録されている。これが事実だとすると朝鮮が中国の一部になってしまうので、南北朝鮮では民族史観により高麗時代の伝承に過ぎない檀君朝鮮を史実としている。
*28 皇族の所有地
*29 三國志演義でも読んだのだろう。諸葛亮に竃の数を増やし、兵数を混乱させた策がある。なお、春秋時代の孫臏は竃の数を減らし、兵が逃げている様に装い、敵を罠にはめている。

※ 十二月、鴨緑江を渡る(高麗史では十一月)と書かれていることを考えると東寧府は鴨緑江より南にないとおかしいのだが、東寧府が鴨緑江より北にあるとも書かれており、完全に矛盾を起こしている。正月の「又行七百餘里, 渡鴨綠江」の文が誤り(高麗史も同じ)でそれにそって修辞したので、矛盾した可能性が考えられる。

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