朝鮮王朝実録 総序(14)太祖 李成桂10
本編は、なろう系エピソードの寄せ集め。ここから殿下(李芳遠)の名前が出始める。王位の正統性を論じるためのプロパガンダである。
九月、太祖は自ら東北面に行った。
このとき、太祖は安邊を回っていき、畑の中の桑の木に二羽のハトが集まっていたので、太祖はこれを射ると一発で二羽のハトがともに落ちた。*1
道ばたでそれを覗いているものが二人居た。一人は韓忠*2で、もう一人は金仁賛*3だった。これを見ると感嘆して言う「都領(李成桂)の弓はすばらしい!」
太祖は笑って「私はすでに都領を過ぎただろう」
そして、二人に命じてこれを食べた。このとき二人は粟飯を準備して勧め、太祖はこれに箸をつけた。そして二人は去らずに従い、皆と開国の功臣に列した。
太祖は、闊達濟時の量*4、仁厚好生の徳*5は天性の出で、功績は偉大だが、ますます謙虚だった。
そして普段から儒教の大切にし、かつて一門で儒者のつとめを嫌ったことはなく、殿下(李芳遠)*6にも就学を命じた。
殿下はこれを日々熱心に学び、読書を疎ないので、かつて太祖は言った
「私の志を達成するのは、必ずお前だ。」と、妃の康氏*7は殿下が読書する声を聞くたび、嘆息して「なぜ、私の子がこうならないのだ!」と言った。
この年、殿下は登第*8し、太祖は宮殿で拝し、感極まって涙を流した。そして、提学*9に任命され太祖はとても喜び、人に命じて官教*10を何度も読ませた。
太祖は、賓客を酒会するとき殿下に連句を命じ、そのたびに言うには、
「私と客が楽しんだのは、お前の力によるところが多い。」殿下が天子の徳を成就したのは、自らの天性と言うより実は太祖の勧学のつとめにしたがったからだ。
*1 毎度おなじみの一箭双雕エピソード。
*2 後の大将軍
*3 後の中樞院使
*4 小さいことに拘らず世を救いたいと思う気持ちの量
*5 仁に厚く生(人)を好む徳
*6 太祖の五男で李朝三代目の太宗李芳遠
*7 神徳王后 初代王妃 李芳蕃、李芳碩の母 この二子は第一次王子の乱で李芳遠に殺される。
*8 試験に合格して朝廷に出仕すること
*9 高麗史では従二品もしくは正三品の文官として名前が出てくる。副官に相当。
*10 四品以上に王が発行する任命書。
※ この部分は、太宗の正統性を記しているプロパガンダ。太宗は兄弟殺しと二度のクーデターを起こして王位に就いているので、その正統性を示す必要があるのである。すなわち太宗は勉学に勤め、儒を学び、徳を積んだが、それ以外の王子はそうしなかったので王になる資格がなかったと言いたいのだろう。
辛禑十一(1385)年乙丑、太祖は、禑王に従い海州*11で狩りをした。矢造りが新しい矢を進呈し、太祖は、積んだ稲の上に丸めた紙を適当に指すように命じ、之を射て全部当てた。左右が言うには「今日獣を射ると、ことごとく背中にあたるだろう」
太祖は平時も獣を射るときには右雁翅骨に必ずあてた。この日は四十匹の鹿を射て、すべてその背骨には当てた、人はその神ぶりに感服した。世の人が獣を射るときは獣の右を射るので獣は左側にいる。獣が右にいるとき、横に走り左に出てと獣の左を射るのだ。太祖が獣を追うときは、獣が左右どちらにいようともすぐには射ようとせず、必ず馬に鞭うち周り込んで獣が左に真っ直ぐ走っているところを射て必ず右雁翅骨に当てた。その時、人はくちぐちに「李公が百の獣を射ると必ず、その右に百中する」と言った。
禑王がかつて行宮において武臣たちに射ることを命じた。的に大きい黄色い紙をもちい、椀ぐらいの大きさの小さい的に銀でその中につくった。直径二寸ほどで五十歩の距離に置いた。太祖はこれを射ると、最後まで銀の的の中に当てた、禑王はこれを楽しん見て、灯りがともるまで続けた。太祖は良馬三頭を賜った。李豆蘭が太祖に言うには「奇才を多くの人に見せてはいけない」
*11 黄海南道海州
太祖が長湍で狩りをしたとき、五明赤馬*12に乗り、高い嶺の上を行った。嶺の下には絶壁があり、二匹のノロが左側の下を走っていたので、太祖はすぐその下に馳せ、しきりに馬に鞭をうつので、従者はみな色を失った。太祖は前のノロを射ると、正面に命中し斃れた。急いで馬を回して止めると、絶壁から数歩で立ち去った、人は皆驚き感服した。
太祖が笑って左右言うには「わたしでなければ、これを止められないだろう」
*12 五明赤馬 水滸伝で耶律得重が乗っていた馬 優れた才能を五つもつ赤毛の馬の意味か?《陣前左有一隊五千猛兵人馬,盡是金縷弁冠,鍍金銅甲,緋袍朱纓,火焰紅旗,絳鞍赤馬,簇擁著一員大將。頭戴簇芙蓉如意縷金冠,身披結連環獸面鎖子黃金甲,猩紅烈火繡花袍,碧玉嵌金七寶帶。使兩口日月雙刀,騎一匹五明赤馬。乃是遼國御弟大王耶律得重,正按上界「太陽星君」,正似金烏擁出扶桑國,火傘初離東海洋。》 ここで重要なのは修辞を「水滸伝」から採用していると思われること。水滸伝の現存する最古のテキストは16世紀なので、現存していない14世紀の施耐庵本を参考にした可能性がある。
太祖と崔瑩は情好が凄く篤かった。太祖の威徳がだんだん盛んになると、人に禑王にかまえさせようとするものがでてきた。崔瑩は怒り「李公は国の柱石だ、もし国に大事があるとき、誰を使わせれば良いのだ?」
将が賓客と宴会するたびに崔瑩は必ず太祖に言った。
「私は麺膳を準備するので、あなたは、肉膳を準備しろ」
太祖は「分かった」と言った。一日、太祖はこの為に、旗下の兵を率いて狩りをし、一匹のノロが高い嶺の下を走っていた。
地形は急峻で嶮しく、軍兵達はみな下に行けなかった。山底に曲がりくねっておりていき馬を回して集まると、突然、鏑矢が大きな音をたてている音を聞いた。上や下を探してこれを見上げると、太祖が、嶺の上から下に直接馬を走らせて、迅電のような勢いで、かなり遠くに居たノロを射て命中させて斃した。太祖はすぐに馬を引くと笑って、「この子の拳だ!」
崔瑩の旗下の兵玄貴命が、また軍兵の中いて、これをみずからみた。そして、その様子を崔瑩に伝えると、崔瑩はこれを久しく褒め称えていた。
太祖がかつて、松都の郊外で狩りをしていると、隠れているキジを見て、人に命じて驚かせて飛ばし、樸頭の矢で下から射ると命中して落ちた。その時、王福命と高麗宗親の一人が太祖の後に立っていたが二人は下馬して叩頭し祝した。福命にその矢を請われると、太祖と笑って言うには「矢が自ら当たるだろうか?ただ人(腕)にあるだけだ」
太祖が平時に木毬を作ると梨のような大きさだった。人に命じて、五、六十歩外から上に投げさせてこれを樸頭の矢で射ると、たちまち当てた。
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