八十年戦争から産業革命まで

 産業革命までの連鎖を追ってみる。イギリスで産業革命が起きたのは複雑な連鎖によるモノで事象が一つ足りないと起きていなかったのかも知れない。ヨーロッパの他地域の産業革命は国家間、商人間の競争による結果なので結局のところイギリスから学ばないと発生しない。

 その連鎖を追ってみた。

 最初に働くほど見返りがあると言うインセンティブが無いと産業革命は起きない。その次に基盤になる技術蓄積。この辺りは、中世ヨーロッパで粉挽き水車やブドウ絞り器が普及していたのが大きい。水車を動力に利用するには歯車、カム、クランク、部品などの運動エネルギーのベクトルを変換する機械が居る。これらが無いと機械が作れない。最後に市場。市場が拡大しないと必要分以上作ると値崩れが起こるため儲からない。儲からないから既得権益者が新規参入を排除するので革命が起きない。さらに人力より機械の方がコストパフォーマンスが良くないと行けない。それから農業生産力。人口の90%が農民な時代だと働き手が見つからないが、多すぎると労働単価が安くなりすぎて機械に置き換えようとしなくなる。労働者の供給がちょうど良い範囲に収まる必要がある(労働力を奴隷で補っていた古代ギリシアやローマは奴隷労働を機械に置き換えようとするインセンティブが働かなかった)

  水車(古代ローマから)と高炉(モンゴル帝国から)は中世末期にはヨーロッパ全体に普及していたので産業革命の連鎖にはいれない。ちなみにイギリスには製鉄に欠かせない炭、鉄鉱石、石灰石の3つが存在したものの石炭は実用化されていない時代にはむしろ木炭が不足しており鉄の質も北欧産に比べて一段低いため輸入していたとか。なお1750年頃までまともに鋼は作れていない(東洋からの輸入に依存していた様である)


インセンティブ

1. イギリス王家は直接徴税出来る権利が割と少なく、関税や特許状によるものが大半を占めており農地からの収入が微々たるものだった様である。また金策にも苦労しており、14世紀頃まで国内商人より関税が取りやすく資本力のある海外の商人(北イタリア諸都市やハンザ同盟など)を優遇していた。

2. 15世紀に入るとイギリスは開封特許状により収入を得るようになる。流通業者や製造業者に与えられたこの特許状は、特許制度の原型になる。業者から特定の技術や意匠に対して独占的権利を与える代わりに手数料を取ると言う制度に変化する訳である。イギリス王室は権利の切り売りで収入を得ていたわけである(海賊にも出資していたようである)、同時期、毛織物産業の発達と共にイギリス商人が台頭し始め、国王もこの勢力を無視出来なくなり海外商人優遇を辞めざる終えなくなる(資本の蓄積)。

 イギリスに於ける市場拡大は毛織物産業の勃興によるものであり、従来フランドル地方に羊毛を輸出していたものだけだったものが毛織物をヨーロッパ全体に輸出する様になる(市場の拡大)

3. 経緯はともかくイギリスにおいては特許制度の確立により発明によるインセンティブが発生した(イギリスに於いては国王が権利を乱用すると議会によって修正される)

軽工業

1. 本来、毛織物の中心地はフランドル(今のベルギーあたり)と北イタリア。イギリスは羊毛をフランドルに輸出していた。そのため当時のフランドルはヨーロッパ内でも裕福な地だった。イギリスに於いては、14-15世紀頃ようやく毛織物産業が立ち上がる。この毛織物産業が産業革命の起点になる(第1次囲い込みの原因でもある)

2. 16世紀、オランダ独立戦争から、ポルトガルがアジア貿易から追い出されることになる。スペイン(同時期ポルトガルはスペインに併合されていた)とスペインと戦争しているオランダがする事は資金稼ぎと嫌がらせ。東南アジアの市場を荒らすのは理にかなっている。

3. ポルトガルとスペインが没落した後、その後釜をイギリスとオランダが海外派遣を競うが東南アジアではイギリスはオランダに競り負け、インドと西インド(南北アメリカ)に経営資源を集中していく。イギリスの貿易商品は香辛料からインドの綿織物(キャラコ)と清朝の紅茶になり、イギリス国内でのキャラコの普及が綿工業を勃興させ、紡績機と力織機の発明、産業革命へとつながる(法的理由で綿工業は毛織物より新規参入しやすかったらしい)

4. イギリス東インド会社は事業をインド・ペルシアとの交易に切り替えざる終えず、綿織物をインドから輸入するようになる。綿織物が普及し、イギリス国内でも綿工業が発達した。

 オランダがこの流れに乗れなかったのは軽工業が発達していたフランドル地方がハプスブルク家やブルボン家(カトリックサイド)に残ったからであろう(この時期のカルヴァン派弾圧により、フランスからスイスにユグノーの時計職人が移住し、スイスの時計産業を勃興させる)。当時のオランダの主産業は農業と商業で工業が発達していなかったと思われる。

 スペインは、金融商人を海外に追い出し資本的に自爆。フランスは、サン・バルテルミの虐殺とユグノー戦争で職人に逃げられる。ドイツはそもそも三十年戦争中で産業どころではない状況。北イタリアは分裂しており都市国家が多く、国内市場が小さく、余剰労働力の確保が難しかったと思われる。

5. 綿織物の需要が増えると糸と布の増産が必要になる。まず、飛び杼が発明され布の生産量が増加した。しかし、今度は糸が不足した。紡績機の改良で糸の大量生産が行われるようになると今度は布の生産が追いつかなくなる。動力元も人力から馬、馬から水車、水車から蒸気機関と変化し生産力がはね上がる。ただし糸に対して織機の方が機械化されるには時間がかかった。


蒸気機関

1. 古代からコーンウォールはヨーロッパ最大の錫の産地だった。そのためイングランドの一部では古代から鉱業が発達していた。

2. イギリスは中世盛期から急激に森林率が落ち込んでおり、高炉製鉄と木造船の需要が増えると木材の不足が顕著になる。一方、イギリス国内に炭田があり、経済合理性から木炭から石炭を利用する様になる。16世紀のイギリスは、木材をハンザ同盟などからの輸入に依存していたとされる。現代でもイングランドの森林率は10%前後であり、フランスやドイツの30%に比べると木材資源が非常に少ない。

3. しかし、石炭は不純物が多くそのまま使うと質の悪い鉄しか作れないのと大気汚染を引き起こす。鉄に関してはコークス製鉄法の完成を見ないといけない。また19世紀に入ると大気汚染を引き起こし始める。

4. 炭田開発が進むと深いところから掘り出しを行うので地下水をくみ出す必要が出てきた。そのため掘り出した石炭をそのまま使える蒸気機関による水汲みポンプが考案される。

5. 綿織物の機械化で水車動力が普及するが、水車動力は設置場所を選ぶ。そのため水車に変わる動力源が求められた。当初の蒸気機関は上下運動のみでエネルギー効率も悪くそのための改良が行われた。また水車動力の代わりに使うには上下運動を回転運動に変換する必要があった。

6. これらの機械を作るには工作機械が必要になる。それに関しては中世ヨーロッパにおいて水車、時計、印刷機などで蓄積されたノウハウが使われたのであろう。

人口に関して

 イギリスの人口が爆発的に増えるのは1750年以降、蒸気機関より後である。ゆえに本来、本稿では取り上げる話題ではない。1750年に570万だったイギリスの人口は1850年に1660万人なった。これは、ジャガイモ栽培の普及と農機具、肥料の性能の向上(産業革命の恩恵で品質の良い農機具が安く大量導入できるようになった)、クローバーの導入が大きい気がする(ノーフォーク農法?なにそれ)

 神話に於ける農業革命は、以下の3つの様である(BBCによれば)

・ 農場の大規模集約化

・ 家畜の品種改良

・ カブやクローバーの導入

 イギリスに於ける農業革命は、休耕地を牧草地にして放牧していた代わりに飼料を育成し、牧草地の草の代わりにその飼料を家畜に食べさせる事による年間を通じた肉・牛乳の安定供給および集約農業化である。ノーフォーク農法ではない。しかしこの手法では土地あたりの生産力は増えるが同時に人手も増えるため人口爆発するにはまだ遠いだろう。人の作業を機械に置換しないと人手は大きく減らない。また、カブよりクローバーの導入の方が小麦の収穫に寄与するだろう(マメ科のクローバーは窒素固定を行うためイネ科の作物にとっては肥料を堆肥している状態になる)カブは冬季の飼料用だろう。

 さらに1830年になるとグアノや硝酸塩などを輸入し肥料に使う様になり面積辺りの生産力が向上する。

 しかしながら18世紀前半の農業は、牛や馬を使い木製の鋤、鍬で牛耕、馬耕し、種まきは手作業、収穫も全て手作業である。脱穀はフレイルを使っていた訳で(武器のフレイルの原型)これで作業効率が上がるわけが無く、収量が増えたものの農作業に必要な人員はあまり増減しなかった可能性がある。

 なお馬鋤の材料に鉄が使われる様になるのは1850年以降である。どうやらイギリスの人口増加には農業革命以外に産業革命の恩恵による農具の品質向上、アイルランドの土地収奪、貿易(穀物輸入網)の拡大などが複雑に複合している様だる(イギリスのサイトを見てもイギリス人もよく分かっていない感じだった……)

 18世紀後半に入ると穀物用クレイドルや大鎌が導入される(これはアメリカの農業の話でイングランドに関してはよく分からない)農業の機械化はかなり遅く、1820年代に機械式の収穫機などが発明され、農業の機械化が進んだようである。鋼の工業化が1856年とかなり遅いのも理由ではなかろうか?これらの農業機械は当初馬を使用していたが蒸気機関、内燃機関と変遷する。

1510年 ポルトガル、ゴア占領

== ポルトガルがアジア交易を独占していた時代

1549年 フランシスコ・ザビエル訪日

1561年 スペイン・ハプスブルク家 フェルペ二世即位

1562年 フランス、ユグノー戦争

1568年 スペイン・ハプスブルク家に対するオランダ独立戦争が始まる

== スペイン時代 スペイン・ポルトガル同君連合時代

1580年 スペイン、ポルトガルを併合 (同君連合 ~1640年)

1581年 ネーデルラント独立を宣言(オランダ=ネーデルラントとベルギー=フランドルの分離)

1587年 秀吉、バテレン追放令

1588年 アルマダの開戦 無敵艦隊敗れる

1595年 オランダが東南アジアに商船を派遣

1596年 秀吉、禁教令

 バテレン浪人がフィリピンのルソン島に流れる。

1600年 イギリス東インド会社設立

1602年 江戸幕府開府、オランダ東インド会社設立

== イギリス、オランダ時代 ポルトガルがアジア貿易から追い出される時代

1609年 岡本大八事件、江戸幕府オランダ船に朱印状を発行

1612年 岡本大八斬首、禁教令

 オランダが浪人を傭兵として雇い始める

1613年 イギリスに平戸に商館を開設

1618年 三十年戦争(~1648年)

1623年 アンボイナ事件によりイギリスが東南アジアから撤退。平戸の商館を閉鎖。ムガル帝国に経営資源を集中させる → イギリス東インド会社の主力商品は、綿織物、紅茶に移行

== オランダ時代 イギリスがインドまで撤退した時代

1638年 オランダ、セイロン(スリランカ)の海岸部を制圧

1639年 江戸幕府、ポルトガル船を追放

1641年 オランダ、マラッカをポルトガルから奪取

1642年 イギリス、清教徒革命

1644年 明朝滅亡

1648年 ヴェストファーレン条約

1649年 クロムウェルのアイルランド侵略(~1653年)

1651年 イギリス、航海法(対オランダ法)

1652年 第一次英蘭戦争(~1654年)

1665年 第二次英蘭戦争(~1657年) イギリスが、南北アメリカのオランダ植民地を獲得。西インドに於ける三角貿易を確立。ニュートン、万有引力を発見。

1667年 フランドル戦争(フランス、スペイン)

1672年 第三次英蘭戦争(~1672年)、フランス、オランダ侵略戦争(~1678年) イギリス、王立アフリカ会社を設立。奴隷貿易を独占。

1688年 イギリス、名誉革命

1697年 イギリス東インド会社、清朝と茶の直接取引を始める

1701年 スペイン継承戦争

== イギリス時

1708年 ニューコメンの蒸気機関

1733年 ジョン=ケイの飛び杼(織機の高速化により糸が不足しはじめる)

1735年 コークス製鉄法の完成

1740年 オーストリア継承戦争。ハンツマンのるつぼ法(製鋼の走り)

1760年頃 アイルランドでジャガイモの栽培が普及する

1764年 ジェニー紡績機

1769年 ワットの蒸気機関

1770年 ベンガル大飢饉

1771年 アークライトの水力紡績機

1773年 イギリス、ベンガル大飢饉による東インド会社の窮状を救うため茶法を成立 → ボストン茶会事件

1775年 アメリカ独立戦争(~1783年)

1779年 ミュール紡績機(糸の製造が増えて、機織りが間に合わなくなる)

1784年 バドル法(銑鉄を加熱して錬鉄を得る方法)

1785年 カートライトの力織機

1789年 フランス革命(~1795年)

 このころ第二次囲い込みが始まる

1856年 ベッセマー高炉

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