朝鮮王朝実録 総序(16)太祖 李成桂12

 威化島回軍を直訳すると「威化島で軍をかえした」と言う意味しか無いのだが李成桂一派によるクーデターをさす。これにより李成桂一派が事実上実権を握るのである。威化島回軍の原因は、明を攻めると言う無謀な命令をだした王にあるが、鴨緑江を越えた時点で大雨で足止めされ、そこで食糧が尽きると言う兵站軽視にもある。高麗軍は食糧収奪できる範囲でしか行動出来ないのだろう。

 そのうち、本部分はその前段階にあたる。まず林堅味一派を取り除き崔瑩が実権を握る。崔瑩も李成桂も武班なので、この時点で軍事政権になっているのであるが、そこから崔瑩一派と李成桂一派が仲違いを始めるのである。少なくと太祖実録はそう記述している。本来仲が良かったが対明政策で仲違いを始めたと。お得意の伝統芸能である。おしも明が本来中華の土地を明に返せと言う勅令にたいし高麗は再び北元に近づいていくのである。そして宗主国を決める為の醜い政争が始まるのである。本文では国王ではなく崔瑩に全責任を負わせている。

辛禑十四年戊辰正月。 時, 侍中李仁任用事, 其黨領三司林堅味、左使廉興邦、贊成事都吉敷等分據要途, 賣官鬻爵, 奪人田丁, 肆其貪虐, 公私匱竭。 太祖與崔瑩憤其所爲, 同心協力, 導禑除之, 三韓大悅, 道路歌舞。 堅味等誅, 以太祖守門下侍中。

 辛禑十四(1388) 年戊辰の正月。

 このとき侍中の李仁任は執政をし、その一味の領三司の林堅味、左使の廉興邦、贊成事都の吉敷らが要所の道を占有し、官爵を売り、他人の田畑や奴隷を奪い、貪り虐げたので、公私ともに窮乏した。太祖と崔瑩はその所業に憤り、共に協力し、禑王を導きこれを取り除いた。三韓は多いに悦び、道路は歌い踊った。林堅味らは誅され、そして太祖は、守門下侍中になった。

※ 侍中は高麗後期における丞相に相当する地位。高麗国王が大元ウルスの征東行省の丞相なので、国内に丞相に相当する職位をおけなかったのだろう。

二月, 太祖與瑩坐政房, 瑩盡黜林、廉所用之人。 太祖曰: "林、廉執政日久, 凡士大夫, 皆其所擧。 今但問才之賢否耳, 惡咎其旣往!" 瑩不聽。

 二月、太祖と崔瑩が政房に座ると、崔瑩は好き放題に林堅味や廉興邦のところにいた人を辞めさせていた。

 太祖は「林堅味、廉興邦は執政してからかなり日がたつから、ほとんどの士大夫(官吏)が、そこに居たのだ。今は、ただ才能のあるなしのみを問うべきだ。既に過ぎ去った悪事まで咎めるのだ?」

 崔瑩は聞かなかった。

瑩以前原州牧使徐信, 乃李成林友壻, 欲幷誅之, 太祖使人言曰: "罪魁已族, 兇徒已誅, 自今宜止刑殺, 以布德音。" 瑩亦不聽。

 崔瑩は以前、原州牧使の徐信が李成林の義兄だったので、これをともに誅殺しようとしたので、太祖は人を使わせて言った「罪はその一族の首魁のみあり、兇徒は既に誅殺されているから今は処刑するのをやめるべきで、徳の音を広げるべきだ」

 崔瑩はこれも聞かなかった。

太祖素重儒術, 雖在軍旅, 每投戈之隙, 引儒士劉敬等, 商確經史, 尤樂觀眞德秀 《大學衍義》, 或至夜分不寐, 慨然有挽回世道之志。

 太祖は普段から儒教の教えを重んじていて、たとえ、軍を率いて居るときでも、戦の間があると、儒者の劉敬らをよび、経史について話し合い、さらに眞德秀*1の《大學衍義》*2を読むのが楽しく、ある日は夜半まで寝ずにうれいなげき、世の道を元に戻す志をもった。

*1 朱熹の門人、詹体仁の弟子。要するに朱子学の徒
*2 眞德秀の書いた朱子学の本 朝鮮朱子学のベースになっているらしい。

初大明帝以爲: "鐵嶺迤北迤東迤西, 元屬開元所管軍民。 漢人、女眞、達達、高麗, 仍屬遼東。" 崔瑩集百官議之, 皆以爲不可與。 禑與瑩密議攻遼, 公山府院君 李子松就瑩第, 力言不可, 瑩托以子松黨附林堅味, 杖流全羅道內廂, 尋殺之。 禑得西北面都安撫使報, 遼東兵至江界, 將立鐵嶺衛。 泣曰: "群臣不聽吾攻遼之計, 使至於此。" 大明復遣遼東百戶王得明, 來告立鐵嶺衛。

 このとき、大明皇帝がこう言ってきた。

「鉄嶺*1につらなる北・東・西は、元は開元路に軍民の所管が属していたので、 漢人、女真、達達タタール*4、高麗はこれより遼東に属する」と

崔瑩は百官を集めてこれを議し、これをのむべきではないとした。
禑王と崔瑩は、遼を攻める密談を行うと公山府院君の李子松は崔瑩の家にいき、強くそれをすべきではないと言うので、崔瑩は李子松が林堅味と徒党を組んでいたとして、全羅道の内廂に杖流刑にしたが、しばらくして殺した。
禑王は、西北面の都安撫の使いの報告を得て、遼東の兵が江界*5に至り、鉄嶺衛をたてようとしていると聞き、泣いて言う「群臣が私の遼を攻める計を聞かないので、このようになったのだ」
明国は、また遼東百戸の王得明を派遣し、鉄嶺衛をたてることを告げに来た。

*3 咸鏡道と江原道の境界にある嶺
*4 恐らく水タタールのこと(黒竜江流域に住むツングース系諸民族)
*5 慈江道江界市

※ 水タタールはインターネットを検索してもでてこない。中公新書の「刀伊の入寇」を参考。

三月, 禑獨與瑩決策攻遼, 然猶未敢昌言也。 托言遊獵, 西幸海州。

 三月、禑王と崔瑩のみで遼を攻めることを決定していたが、まだ公言しようとはしなかった。狩りに出ると言い残し、西の海州に行幸した。

※ このたくらみに李成桂が参加していないと主張したいのである。

四月, 次鳳州。 謂太祖曰: "寡人欲攻遼陽, 卿等宜盡力。" 太祖曰: "今者出師, 有四不可。 以小逆大, 一不可; 夏月發兵, 二不可; 擧國遠征, 倭乘其虛, 三不可; 時方暑雨, 弓弩膠解, 大軍疾疫, 四不可。" 禑頗然之。 太祖旣退, 謂瑩曰: "明日, 宜以此言復啓。" 瑩曰: "諾。" 夜, 瑩入白: "願毋納他言。" 明日, 禑語太祖曰: "業已興師, 不可中止。" 太祖曰: "殿下必欲成大計, 駐駕西京, 待秋出師, 禾穀被野, 大軍足食, 可以皷行而進矣。 今則出師非時, 雖拔遼東一城, 雨水方降, 軍不得前却。 師老糧匱, 祇速禍耳。" 禑曰: "卿不見李子松耶?" 太祖曰: "子松雖死, 美名垂於後, 臣等雖生, 已失計矣, 何用哉!" 禑不聽。 太祖退而涕泣, 麾下士曰: "公何慟之甚也?" 太祖曰: "生民之禍, 自此始矣。" 禑次平壤, 督徵諸道兵, 作浮橋于鴨綠江, 又發僧徒爲兵。 加瑩八道都統使, 以昌城府院君 曺敏修爲左軍都統使, 太祖爲右軍都統使, 遣之。 左右軍共五萬餘人, 衆號十萬。 將出師, 禑醉日晏不興, 諸將不得拜辭。 及醒, 泛舟石浦, 至夕乃還, 飮諸將酒, 諸軍發平壤。 瑩啓曰: "今大軍在途, 若淹延旬月, 則大事不成, 臣請往督之。" 禑曰: "卿行則誰與爲政?" 瑩固請, 禑曰: "然則寡人亦往矣。" 有人自泥城來曰: "近遼東兵, 悉赴征胡, 城中但有一指揮耳。 大軍若至, 可不戰而下。" 瑩大喜, 厚給其人。 禑停洪武年號, 令國人復胡服。 常幸大同江, 張胡樂于浮碧樓, 自吹胡笛, 樂而忘返。 每出遊, 輒奏胡樂, 令倡優呈百戲。 瑩日領軍士, 出入吹笛, 君臣荒淫, 殺戮日甚, 百姓怨咨。 禑遣使賜諸將金銀酒器。

 四月、次に鳳州に行幸した。太祖に向かって言った「余は遼陽を攻めたいので、卿たちは力のあるかぎりつくせ」

 太祖は言った「今軍を出しても、無理な理由が四つの不可があります。小をもって大に反逆することが一つ目の不可。夏に兵を発することが二つ目の不可、国を挙げて遠征するとその虚に倭が乗じることが、三つ目の不可。暑くて雨が降るので、弓弩がくっついてばらばらになり大軍は疫病に冒されることが四つ目の不可です」

 禑王は、これを少し正しいと思った。

 太祖が退出したあと、崔瑩に尋ねた「明日、この言をもって再び問うのがよかろう」

 崔瑩は言った「了解」と。

 夜、崔瑩が入って言った「他言を受けいれてはいけないでしょう」

 翌日、禑王が太宗に「既に軍事を起こしており中止はできない」と語ると太祖は「殿下は、必ず大計をなそうとしますが、 西京に駐駕し、秋を待って軍を出し、穀物が野を多い、大軍の食が足りて、軍を進軍させることが出来るのです。今は、軍を出す時ではありません。たとえ遼東の一城を抜いたとしても、雨に降られれば軍は前にも進めず、退却もできません。軍の兵糧は欠乏し、土地には禍しかありません」と言った。

 崔瑩は言う「君は、李子松がどうなったか見ていないのか?」

 太祖言った「子松は死んだと言えども、美名を後に残している。臣らがたとえ生きていても、既に計を失っている何ができましょうか」

 禑王は聞かなかった。

 太祖は退出して涙を流して泣いた。

 旗下の兵が言う「公は、なぜ慟哭しているのですか?」

 太祖は「国民の禍が、これから始まってしまうのだ」と言った。

 禑王は次に平壌に行幸し、諸道の兵を徴兵するよう催促し、浮橋を鴨緑江に造り、また僧徒*7を兵として挑発した。

 崔瑩に八道都統使を加え、昌城府院君の曺敏を左軍都統使とし、太祖を右軍都統使とし派遣した。左右の軍は共に五万余人おり、兵十万と号した。

 軍が出ようとするとき、禑王は、不興で日暮れ前から酔ってたので将達は告辞を貰わなかった。そして酔いがさめると舟を石浦にうかべ、夕になると戻り、諸将と酒を飲むと軍隊は平壌を出発した。

 崔瑩は申し上げる「今、大軍が途中でもし少しでも伸びれば、大事が成功しないでしょう。臣が行きは監督します」

 禑王は「卿が行ったあと誰とまつりごとを行えばよいのか?」と言ったが、崔瑩は強く懇願した。

 禑王は「どうしても言うなら余もいくぞ」と行った。

 泥城から来る人がいて言う「遼東兵が近く、ことごとく胡*6を征するのに向かうので、城内には一指揮隊しかいません。大軍をもってすれば、戦わず降伏すでしょう」

 禑王は大喜びし、その人に報酬を沢山与えた。

 禑王は洪武の年号を廃止し、国民に再び胡服を着るように命じた。*8
いつものように大同江まで行幸すると、浮碧樓で胡楽を引き、自ら胡笛を吹いた、時間を忘れるほど楽しんだ。

 毎日遊びに出て、胡楽をひきかなで、役者に命令し、百戲をおくった。崔瑩も、日頃から軍兵を取り巻き吹を笛いて出入りして、君臣荒淫して日ごと殺戮が酷くなったので百姓は恨んだ。

 禑王は使いを派遣し、諸将に金銀酒器を贈った。

*6 ここの胡が指すのはモンゴルか。
*7 高麗において寺に所属するものは免税なのでそこまで挑発したことを示したかったのだろうか?高麗においては寺社が最大の奴隷主で地主なので寺社から人と土地を奪い、部下に配る政策が李氏朝鮮の廃仏の正体なのである。廃仏の目的は金銭的な利益なのである。それゆえ廃仏政策を行っていた太祖も世宗も晩年は仏門に帰依している訳である。
*8 明から北元に宗主国に切り替えたのである

※ 辞めない理由がどこかの大本営みたいな理由だ。李成桂が実際に反対していたのかは分からないが、反対していたと主張しないとクーデターの正統性がなくなるのである。

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