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乱中日記(慶長の役の部分)をプロットしてみた

 李舜臣の「乱中日記」(東洋文庫から出ている訳本を参照)の1597年以降の部分をプロットしてみた(だが間違えて消してしまったので作り直した)

※ ちなみにナチュラルにヘイトスピーチが大量に混じっているのでその部分は穏当なワードに置き換えている。

 「乱中日記」の1597年の部分を読み解くことにする(旧暦。以下全て。この時代の日本と朝鮮の暦には1日ぐらいズレがある。その部分のすりあわせはしていないからズレがあるかも)また、日記は、移動しない場合、原則現在地を明記しないので基本的に○○に着いたと言う記述から現在地を推測しなければならない。

 文禄の役編もやりたいのだがこちらは一番重要な部分が欠落しているので出来ない(閑山島海戦の部分が欠落)それはともかく、敵前逃亡せず戦える人材が少なすぎるよ。

一覧中の* は乱中日記以外の資料から ※は注釈。

 1597年4月1日 李舜臣、釈放される。李舜臣は、牢獄に入れられていたのだった。文脈から漢城(ソウル)の牢獄に入っていたようだ。

※ 元均が左遷されていたが、逆に李舜臣が左遷された。その経緯の部分は欠文になっている

 4月5日 忠清南道牙山にある本家に帰る

※ 母親の葬式が行われたあと、公州(忠清南道公州)へ向かう。

 4月25日 南原に入る(全羅北道南原)

 4月27日 順天に入る(全羅南道順天)

 しばらく飛ばし。

 6月4日 陜川(慶尚南道陜川)に入る

※ しばらくここに居たようである。内陸にある。

*7月15日 漆川梁海戦 朝鮮水軍壊滅(元均が死亡) ちなみに「乱中日記」には元均に関する妬みや悪口が沢山書いてある。

 7月18日 李舜臣、元均らが戦死した事を聞く

※ いきなり水軍の大将がいなくなったので李舜臣が呼び戻された。

ここまでの図

牢獄から釈放

 8月3日 李舜臣の元に三道統制使に任命すると言う使者が来る。そのまま出発する。

 8月7日 順天に入る(兵士は逃亡済み)

 8月9日 楽安に入る(兵士は逃亡済み)

※ 不在の両班の家に、上がりこんで泊まっている。宿のない時代の両班の旅行はこうやって行われていたらしい(官僚が泊まれる駅があったはずだが)。ついでに勝手に農民の作物を徴発したり、盗んだりした下男を蹴り飛ばしたりしている。法には厳しかったようである。

 8月18日 会寧浦に入る

*8月19日 順天落ちる

 8月20日 梨津に陣を移す(ここから船上?)

 8月24日 刀掛浦(全羅南道海南郡北平面永田里)に入る

 8月25日 於蘭浦に入る

 8月28日 日本船八隻と遭遇。獐島に移泊する。
※この記述が怪しい

 8月29日 碧波津に入る

 9月2日 慶尚右水使裴楔が逃亡

 9月7日 日本船8隻於蘭浦に出現

 9月14日 日本水軍於蘭浦を占領

 9月15日 全羅右水営に逗留 

ここまでの図

三道統制使のお仕事

 9月16日 鳴梁海戦。全羅右水使金億秋が後退。中軍金応誠と巨済県令安衛も後退したので旗をあげ、船を横付けし、「軍法違反で今死にたいか、それとも戦って死ぬかどちらか選べ」(意訳)と脅すと死に物狂いに戦い始めたので、李舜臣艦も矢を射かけ日本船の将船(恐らく来島通総の船)と2隻を撃破し、馬多時(この人物には諸説あり)を討ち取る。ついでに30隻を攻撃したと言う。

※ 文禄・慶長の役を通じて大名クラスが戦死したのは来島通総だけ。

 ??(欠文)まで移動。夜に乗じて唐笥島(全羅南道新安郡岩泰面唐沙島)まで移動

 9月17日 於外島(全羅南道新安郡智島邑於義島)に移動

 9月19日 七山島(全羅南道霊光郡落月面七山島)に移動

 9月20日 古参島(全羅北道扶安郡蝟島面蝟島)に移動

 9月21日 古群山島(全羅北道群山市沃島面仙遊島)に移動

 9月23~27日 鳴梁海戦大勝の文をしたためる(24-26日は体調不良で寝ていた)

※ 全羅道一帯が征服されたので本土に上陸できず、離島をうろうろしていた様だ(ソウルとは船で行き来可能だった様だ)

 10月3日 法聖浦まで行く

※ 今の全羅南道霊光郡法聖里らしい。日本軍が居ないのを確認して上陸したと思われる。この地で10月8日まで情報収集していたようだ。

ここまでの図

鳴梁海戦からの北征

 10月9日 全羅右水営沖まで行き海南が日本軍に占領されていることを知る

*10月10日 海南の日本軍が康津に移動

 10月11日 安便島に移動(倭船は我々から逃げ回っていると書いている)

※ 注には全羅南道莞島郡所安面所安島とある

 10月13日 「海南の日本軍が康津に移動」したのを逃走したと記述。

 10月24日 明水軍が江華島に着いたと聞く。

 10月29日 木浦(全羅南道木浦市)の宝花島に移動(船を隠すのに都合の良い地だから)

 11月10日 長興(全羅南道長興郡か?)にいた日本軍が退去したと聞く

 11月22日 長興にいた日本軍が20日退去したと言う報告を聞く(かぶっている)

 11月23-28日 長興で勝利したと文をしたためる

※ 存在しない海戦

ここまでの図

王の凱旋

 翌年1月5日~9月14日まで欠文

 9月15日 このとき、明軍に吸収されており羅老島に停泊する。

 9月20日 柚島(全羅南道麗川郡栗村面松島)に至る(ここより順天城の戦い)

 10月6日 明軍、退却を始める

 10月10日 全羅左水営(麗水邑)に入る

 10月12日 羅老島に入る

 11月8日 順天倭城の日本軍が10日に撤退すると言う情報が入ったので帰路を遮断すると言う指令が入る

 11月17日 鹵獲品を明軍に横取りされたと言う報告を聞く。ここで日記は終わる

* 11月19日 露梁海戦

明史 鄧子龍伝
二十六年,朝鮮用師。詔以故官領水軍,從陳璘東征。倭將渡海遁,璘遣子龍偕朝鮮統制使李舜臣督水軍千人,駕三巨艦為前鋒,邀之釜山南海。子龍素慷慨,年踰七十,意氣彌厲,欲得首功,急攜壯士二百人躍上朝鮮舟,直前奮擊,賊死傷無算。他舟誤擲火器入子龍舟,舟中火,賊乘之,子龍戰死。舜臣赴救,亦死。事聞,贈都督僉事,世蔭一子,廟祀朝鮮。

 もしかして、巨艦三隻に陳琳と鄧子龍と李舜臣を乗せ、うち二隻が即殺。しかも鄧子龍の死因は味方の誤爆。あまりにザックリしているので日本や朝鮮の資料を見た方がよさそう(朝鮮王朝実録は嘘だらけなので無視の方向で)巨艦なのに舟になっているのが気になるが、

「征韓録」によれば、

小船で先出してきた鄧子龍が従卒二百余兵とともに討ち取られるのを救援に進出してきたところを和兵に囲まれ船を乗っ取られた

 ――とあるので巨艦ではなく小船に載っていたのだろう。「征韓録」の記録は、明史の「急攜壯士二百人躍上朝鮮舟」とも一致を見る。どうやら朝鮮の記録のみが改竄されていそうである。

露梁海戦

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