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【音楽】歌がいること、歌があること


「オリジナル」 ~歌い手&曲紹介~

本日2022年3月31日に配信リリースされた「オリジナル」という曲を紹介します。つい先ほどMVも公開されました。

歌い手はシンガーソングライターのTiny(ティニー)とWAMI。
どちらも普段はソロでギターの弾き語り活動をしています。

二人とも大柴広己氏のかつての特別ゼミの教え子で、現在は大柴氏が主宰する音楽レーベルZOOLOGICAL(ゾロジカル)に所属。ACADE MEIA(アカデメイア)という姉妹レーベルから2020年5月にデビューしました。二人はACADE MEIA配信ライブでコラボしたことはあったのですが、今回初めてデュエット用の曲として書き下ろされたようです。

シンプルな言葉を紡いだバラード。メロディも覚えやすく、二人の特徴的な歌声を通して歌がストレートに入ってきます。サビのハモりでは力強くメッセージを運んでくれます。

作曲及び編曲は大柴氏、作詞は三人の共作によるもので、かつて音楽活動をしていた友人たちに向けて書かれたということです。

「ある」と「いる」

歌詞の中で

「歌はいつでもそばにいるから」
「歌はいつでもそばにあるから」

とありますが、両者の意味について考えてみました。

学問上合ってるかわからないのであくまで感覚ですが、「いる」と「ある」は個人的にはこんな感じ。

「いる」
能動的に存在していることを知覚する。

「ある」
(意識しなくても)客観的に存在していることを知覚する。


「歌はいつでもそばにいるから」

この歌詞から感じ取れるのは、「誰か」が歌がそばに存在していることを積極的に知覚している、いきいきとした印象です。

通常「居る」を使う場合に主体は生物なのでしょうが、無生物でもあっても使えますよね。その場合、主体が動いている、または「誰か」が動いているダイナミックな印象を受けます。さらに「誰か」には好意を持たれている感じ、だから「誰か」というのは歌手や歌好きな人なのかなと想像しました。

「歌はいつでもそばにあるから」

一方、こちらは漢字にするなら「在る」でしょうか。歌という主体が「誰か」の好き嫌いまたは無関心・無意識にかかわらずそばに居続けている印象。誰であってもどんなことがあっても公平に、そこから動かずにじっとしている感じ。

私にとっての「歌」

かつて私にとって歌は前述の「ある」状態でした。
歌を歌うのも聞くのも嫌いなわけではないけど、どこか一線を画している感じ。趣味に「音楽鑑賞」と書いてもどこか取って付けたような。

それが2019年にライブに行くようになってから、歌が「いる」に変わってきました。2020年からコロナ禍で対面のライブはずっとお預けとなりましたが、代わりに配信ライブという選択肢ができ、歌に接する機会が増えました。この期間で歌がスッと生活の一部になった気がします。

この期間に運良く出会えたのがACADE MEIAのTiny, WAMI, Jerry Somic (※Tiny, WAMIと同期。現在活動休止中)でした。デビューから今後を追えるのも楽しいです。大柴氏とはもっと前に会っていますが、この期間で好き度がグーンと上昇しました。また、彼女らを通して他にもたくさんのアーティストも知ることができ世界が広がりました。

もうひとつの「ある」

話を「いる」と「ある」に戻しますが、実は「ある」には「有る」もあるんですね。漢字の通り、所有や物の有無を表します。生物に使うことはあまりないかと。

「歌はいつでもそばに有るから」

とするのは日本語的にちょっとおかしいかもしれませんが、「どんな時でも歌うことができる」という意味です。譬え身ぐるみ剥がされても、心の中にある歌までは奪われない、そんな感じ。

「居る」「在る」「有る」に決して優劣はなく、ただの状態の違い。意識によっては複数が同時に発生することもあるでしょう。

私にとって今は歌が「居る」状態ですが、もしこの先歌に興味がなくなってたとしても、もしくは忙しさ等で歌を意識できなくなったとしても、歌自体は「在り」続けます。「いつでも帰れる場所が在ることを知る。それはとても素敵なこと」そう思いながら「オリジナル」聞かせてもらいました。

最後に

最後に、彼女らの師匠である大柴広己氏の「ソングトラベル」という歌の一節を紹介して終わりにします。

音楽がなくても ぼくらは生きてゆける
だけど歌があれば ぼくらはつながれる

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