虎になってしまった男の話① vol.12
「山月記」
高校の教科書にのっているらしいのですが、まったく記憶にありません。
読書会の課題図書。
本を読むようになって、はじめての文学作品。
まずは、マンガ版を読んで内容を知る。
そして、原作版を読んでみる。
とても短い話。
なんとも、よく分からない。正直なところ。
主人公である李徴(りちょう)は、なんでこんな姿、虎になってしまったのか?
李徴が心情を語る場面。
自分の内面にある
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」
その結果、虎になってしまった。
そう李徴は考える。
要するにプライドが高いために、恥じをかきたくない気持ちがそうさせた。と
ここには共感する。同じだ。私と…!
私は変にプライドだけは高く、いじられるのはイヤ。てか、苦手。もっと言うとキライ。
しかし、私はプライドを傷つけられても、大勢の前で恥をかいても、
そして、そうなりたくないがために、自分の世界に逃げ込んでも、私は
虎にならない
確かに李徴にくらべて、私には才能なんてかけらもない。
私なんかとは比較にならないほどの、異次元の執念がそうさせたのか?
それにしても、なぜ李徴だけが?
理不尽すぎる。不条理だ。
試練は乗り越えられる人にしかやってこないという。
でも…トラでしょ…。
こればっかりは無理でしょ…乗り越えろってのは……。
いや、まて
…はたしてそうだろうか?
何も人間にもどることが、試練を乗り越える、というわけではない。
『運命を受け入れる』
という選択肢
物語の中で自死を考える李徴。
しかし、とっさのできごとに野生の本能が出てしまう。
ふとしたことで本能が出てしまう。
意識は無意識に勝てない。
野生(本能)で自死は考えられない。できないはず。
李徴は日増しに理性より、本能が多くなると語る。やはり、運命を受け入れなければならない。
李徴が思いを友に託した後、咆哮する。
この咆哮こそが、運命を受け入れた李徴の宣言と私は考える。
物語でも語られるが、家族よりも自己を優先する李徴。これも自分が姿を変えた理由だと語る。
李徴は不幸だったのか?
一見、救いようのない話にみえるが、そうではない。本能に従って生きる運命になった李徴は、幸せではないだろうか?
自己を優先しつつもどこかで家族が気がかりな李徴。理性を捨て本能のまま生きれば、もう家族のことなど考える必要はない。
虎として本能のままに生きればいい。
まさに、李徴の望む生き方だ。
物語の時点では本人も、気づいていないだろうが。
運命受け入れることで李徴は、
自由と自己実現を手に入れる。
ただ、完全に虎になった李徴に、自由を自覚する理性は残っていない。
以上が現時点での私の感じたことです。
ただ、
李徴はウサギでなくて虎でよかった。
最後に気づいたことがある。
そう、私と李徴の共通点。
コミュ障である。
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