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虎になってしまった男の話② vol.13

『山月記』
まさかの前回の続き。

前回は、私なりの考えを書いてみました。
そして思ったのが、他の人は
「どう読んだのか?」
ということ。
人それぞれの読みかたがあって、正解なんてないんだけど。やはり、気になる。

そこで、調べてみる中で、↓これが出てきました。(現代文なんですね…^^;無学…)

非常に勉強になりました。講座です。
授業です。
遠い昔の記憶…。遠い彼方の記憶…。

…はい!
おもしろい!おもしろかった!!
ただ…授業は第8回まであります。
20分✕8回=160分=2時間半以上!

私が気づかなかった、気づけなかったポイント。
これから、本を読んだり、映像を見るうえで、より深く読み解くために、勉強になった点をまとめてみます。

登場人物の対比
この物語の登場人物は、主人公「李徴(りちょう)とその友人「袁傪(えんさん)」
激しい人物として描かれる李徴。
そして、対する数少ない友人の袁傪。
袁傪は李徴に再会し、馬から降ります。
この馬から降りる描写が、袁傪の礼儀正しさ人柄を表現します。

・キーワードを意識して読む

月は時間の経過をあらわす。(残月、光を失った月など)それに重ねて李徴の心の変化もあらわす。

声という単語がよくでてくる。
「獸どもは己の声を聞いて…」
「叢中から慟哭の声が聞えた。」
「声は闇の中から頻りに自分を招く」
そう、李徴が虎に変わったきっかけも、李徴を呼ぶ声だった。

・文体の変化
冒頭、李徴の経歴や容姿の説明から会話へと変化していく。そして、李徴の告白へと
続く。
漢語や熟語多く、わかりづらい印象が、文体の変化により、柔らかい文章になったと感じることができる。

・一人称の変化
李徴が「自分」と言ったり、「おれ」と言ったりします。
「自分」のときは理性的な内容を話しますが、「おれ」のときは、野生的で、飾らない素直な自分の感情をさらしていると感じます。

・作者の人物像
作者を知ることでより、作品にある思想を理解することができる。
作者の中島敦は、33歳の若さでこの世を去ります。
「山月記」が発表されて、1年も経っていません。
最期の言葉は、涙をためながら
「書きたい、書きたい」
「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまいたい」と言ったそうです。

才能のない私は才能のないことを
悲しみながら
頭をたれて明るい街を
のそのそと歩いていた。

私はもう二十五だ。私は何かにならねばならぬ。
ところで、一体私に何ができる。
うわべばかりの豪語はもうあきあきだ。
なかみのない、ボヘミアニズムも、こりごりだ。
人に笑われまいとするきがねも、もう沢山だ。

感心したものには、大人しく帽子をぬげ、
自信ありげなかおをするのは止めろ。
自信も何もないくせに。
だが、それは結局、
自分の無能を人に示すことになる。
何ということだ、何と情けないことだ。一体。
才能がないということは、
才能のない男が裸にならねばならぬということは

— 中島敦「断片9」

まるで李徴そのもののような人です。

以上が私が授業で学べたことです。

中島敦について感じたこと。

自分のことを分かって欲しい。
自分という人間の存在に気づいてほしい。
魂の叫びが伝わってきます。

『評価は結果であって目的ではない』

生前より死後の方が評価された人です。
こんなに長く読み継がれて、満足しているのではないのでしょうか。

「いつやるか? 今でしょ!」でお馴染みの、林修先生による「山月記」の解説のなかで、
読みにくい、分かりにくい物語を「スルメ」に例えます。
噛めば噛むほど味が出る。アゴが鍛えられて咀嚼力がつく。プリンは甘くて美味しいけど一瞬でのどを通ってしまう。
よくかむ、何度も読むことでじんわりとわかってくる。硬質で難解な文章だけが備える魅力がある。

その通りです。
「分からない!」
ではなくて、
分かろう!
とする努力が大切ですね。

ただ、私はスルメよりもプリンのほうが好きです。甘党です。




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