『フィスト・ダンス』 第149回 「1974年、あの時代、今回は歴史のお勉強も!」

<1974年とは?>

1974(昭和49)年は、日本にとって特別な年だった。
前年10月の第4次中東戦争の影響によって「オイル・ショック」となり、日本の原油輸入に著しい制限が課されたのである。
中東戦争は、小国のイスラエルと、アラブ諸国連合の戦いで、これまで3次にわたる戦争では、いずれもイスラエルが勝っていた。
4次戦争も当初は劣勢だったが、逆転勝利を収めている。イスラエル、安全保障、国防では小粒ながら強いのである。
世界屈指の諜報機関の「モサド」をはじめ情報機関が発達し、安全保障に関するインテリジェンスは、アメリカのCIA、イギリスのMI6エムアイシックスにも劣らないほどのレベルだった。

この戦争のせいで湾岸の産油国は、世界各国に「踏絵」を迫っていた。イスラエルの味方か、我々アラブの味方か、はっきり言明せよ、と。
そして、味方でない国への原油輸出は削減し、終局的に禁止するとも声明している。この時の日本は現代以上に原油の中東依存度が高く、98%だった。。
しかも戦争によってOAPEC(オアペック アラブ石油輸出国機構)は原油価格を1バーレル2ドル50セント前後から10ドル、11ドル、12ドルに、どーんと値上げしてしまったのだ。
当時1ドルは308円であり、1971年8月15日のドルショック以降、1ドルは360円でなくなり、フロート制、つまり「状況によって変動するよ。」となり、やや円高基調、それでも1ドル290円から308円内外で推移していた。
ちなみ1バーレルは159リットルのことだ。
価格が4倍強となれば、多くの製品は原油を原料とするので当然、値上げとなる。
それ以前に日本はアメリカの子分で、一貫して「親イスラエル」だったので、アラブ諸国は日本への輸出量を削減し、原油自体が不足している。
おまけに、アラブ諸国は「日本よ、おまえは我々の味方なのか、敵なのか?」と、ぐいぐい迫っていた。

時の首相は「コンピューター付きブルドーザ-」の田中角栄かくえい首相である。この人の決断力と実行力は歴代首相の中でトップと言ってもいい人だ。
田中首相はニクソン大統領の名代みょうだいとして緊急来日した、キッシンジャー国家安全保障大統領補佐官と会談をした。
キッシンジャーは、「親イスラエルと宣言せよ」と威張っている。この人は、もともと日本人嫌いの親中国派のドンだ。こいつの一の子分が、中曽根・元首相である。
すぐあとに国務長官になったが、この補佐官も重要な重要なポジションで、世界各地を息つく暇もないほど飛び回り、政治に関心を持っていた筆者は、「こいつは影武者がいるのか!?」と思ったくらい神出鬼没の凄腕だ。

田中首相は並の首相と違って、「アメリカが石油を回してくれるなら親イスラエルと宣言するが、回してくれなければダメだ」とはっきり応じ、キッシンジャーは、日本なんぞ、なんでも言うことを聞く、犬コロだ、くらいにしか思ってなかったので、「なにいいいっ!」と怒っている。
が、田中首相、動じることなく、「どうなんだ?」と問うた。キッシンジャーは、「ノー」、と拒否し尚も親イスラエルを表明しなければ日本は困ったことになるぞ、と露骨に恫喝までした。
が、気骨ある田中首相は、「国民が困ることになるから、できん」と、はねつけた。
田中首相の政治のモットーは、「国民の生活を大事にするのが政治の使命だ」である。今の政治「屋」どもにきかせてやりたいものだ!
キッシンジャーは、それまで従順なポチと思っていた日本が逆らったので、以来、田中を極度に嫌った。
のちに田中失脚「ロッキード事件」はキッシンジャーが仕掛けた冤罪えんざいである。

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