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『天晴!な日本人』 第34回 小さな巨人、徹底した日本の国益至上主義の人、小村寿太郎(こむらじゅたろう)(1)

これまで、益より害を与える、反日の対応が顕著な外務省ですが、時代を遡れば、これぞ日本の外交官!日本の国益至上主義者!という外交官がいました。
それが小村寿太郎です。

小村が外務省に勤めたのは、1884(明治17)年6月、29歳の時でした。以後翻訳局ほんやくきょくを経て、駐清|《しん》臨時代理公使、外務省政務局長、駐朝鮮公使、外務省次官、駐米公使、駐露公使、駐清公使、外務大臣を歴任し、その都度、日本の国益を追究した有能、異能の外交官、国士です。
国士というのは、小村が自己の保身、出世など、寸毫すんごうも考えず、ひたすら日本にとって最善、それがダメなら次善の策を講じた人、「知行合一ちぎょうごういつ」、陽明学実践者だったからです。
常に政治家に対しても遠慮なく、日本の進むべき道を説いた人でもありました。小村の外相在任中(1901~1906、1908~1911)、日本の国際的地位は向上しています。
単に日本の国益至上主義という以上に、国際的な外交のバランスをも調整してきた人だからです。

小村は1855(安政あんせい年9月26日、日向国飫肥《ひゅうがのくにおび》藩(今の宮崎県日南にちなん市の下級藩士の6人兄弟の長男として生まれました。上に姉がいます。
父はひろし、母はうめです。母の梅の体調がすぐれず、母乳を与えることができなかったので、小村は骨細で小柄と言われていますが、大人になっても身の丈は150センチに満たないものでした。

そのぶん、父方の祖母のくまが厳しくとも愛情をそそいで育てました。毎朝、早起きし、読書をさせ、6歳から通った藩校の「振徳堂」に手を引いて連れて行っています。
小村は学校が始まる前に到着していましたが、始まるまで読書をして喜んでいたと言います。また、負けず嫌いで、剣の稽古では、他の子の何倍もやったとされていました。
成績は常に優秀で、優れた記憶力を持っていました。特に優秀なので、学費も免除でした。
1869(明治2)年、振徳堂の師範の小倉処平おぐらしょへいのすすめで、長崎に留学しています。この小倉のことを、小村は生涯敬愛していました。

外国と外国語について学ぼうとしましたが、師事したかったフルベッキが東京の南校なんこうに移っていたので、小倉の助力で大学だいがく南校に行くことになったのです。これは学力と品行に優れた学生を貢進生こうしんせいとして入学できたのでした。
1870(明治3)年のことです。大学南校は幕末・蕃所調所ばんしょしらべしょ、洋学研究所でした。漢学専門の昌平校しょうへいこうが大学東校とうこうと称していたのに対抗しています。
学力に応じて600人がクラス分けされる中、小村は上級クラスでした。どの教科においてもトップクラスの成績を記録しています。
その間、南校は開成学校(在学中に東京開成学校と改称)となり、小村は法学部を専攻しました。同級生には、後に昭和天皇の幼少時代に帝王学の教育を担当した杉浦重剛じゅうごう、駐米日本大使となった高平小五郎たかひらこごろうがいます。
杉浦とは生涯の親友です。高平とは、日露戦争時の講和条約交渉を共に戦った戦友になりました。
開成は1877(明治10)年に東京大学、1886(明治19)年に東京帝国大学となっています。

小村は在学中、海外留学させるように文部省に訴えています。恩師の小倉が早くから文部省に勤めていたこともあり、成績優秀者の留学が認められました。
1875(明治8)年、第一回文部省留学生として、アメリカのハーバード大学に留学しています。この時、11名が選ばれましたが、その中に鳩山和夫かずおがいました。
この人は、鳩山由紀夫の曽祖父で、法学部の首席だった秀才です。帰国後、弁護士、東京帝国大学教授の後、政治家になりましたが、大成はなく、子の一郎を早くから政治家にし、日本初の二世議員にしました。
ハーバード大学には一年後、金子堅太郎けんたろうが入学し、小村の下宿で共同生活しています。金子も日露戦争時、日本の正義をアメリカで宣伝した功績のある人物です。セオドア・ルーズベルトとは、本当に親しい間柄でした。

小村は成績優秀だったので、ニューヨークに出て、元・司法長官ピアポントの法律事務所で訴訟実習見習として勤務しています。小村は、アメリカの大学のレベルがヨーロッパの大学より低いので、実務を経験するため、事務所入りしたのです。2年勤め、合計5年のアメリカ生活を終え、イギリス、フランスを視察して1880(明治13)年11月に帰国しています。小村の英語の才能は日本にいる時から図抜けていましたが、この留学で、さらに磨きがかかったのでした。
学生時代に英文で綴った自叙伝じじょでんには既にこの時、「愛国心が強かったので」と記述しています。そして、維新の大業を、欧米に比べ、流した血が格段に少ないと賞賛していて、この頃から国粋こくすい主義者の片鱗へんりんうかがえます。
帰国した小村は真っ直ぐに恩師の小倉の墓参りに行きました。小倉は西南戦争で薩摩と共に起ち、戦死していたのです。小村は墓前で号泣したと言います。

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