『天晴!な日本人』 第88回 「グレート・エンペラーと称された、偉大な明治天皇」(3)
<民に寄り添う天皇の伝統>
民が守るべき第一は君主、天皇であるという『中朝事実』の核心に対し、天皇は常に民のことを考えています。ここまで民のことを考えている王朝は稀でした。
古来、第16代の仁徳天皇(在位313年~399年)は丘の上から民衆の家々を見て、炊事の煙が乏しいことから、貧しさを憂いて、3年間の租税を免除し、自らの宮殿の修理もやめました。
3年後、炊事の煙が多くなったことを喜び、あと3年間、租税を免除することにしましたが、宮殿にはあちこち綻びが見えていたのです。それでも民衆の暮らしを第一としています。
明治天皇も1873(明治6)年の皇居炎上から、何年も建築を許しませんでした。5年経って、やっと建築が始まったと言います。これは太政大臣の三条実美に、正式な勅語として出していました。人民の財産である税金を浪費して人民を苦しめるな、建築は急ぐな、という勅語でした。
浪費家の秋篠宮家、中でもわがままな佳子さんの別居では20億円以上が余分に遣われています。しっかり倹約している愛子さんとは天と地の差です!
明治天皇は、生涯で10万首の歌を作った人ですが、この歌にも民への思いがあふれていました。戦争になると、特にそれが強くなっています。
年へなば国のちからとなりぬ人をおほくも失いにけり
たたかいに身をすつる人多きかな老いたる親を家にのこして
かぎりなき世にのこさむと国のためたおれし人の名をぞとどむる
国のため心も身もくだきつる人のいさおをたづねもらすな
日露戦争中の1905(明治38)年1月19日の新年歌会始では、山梨県在住の、陸軍2等兵の妻である大須賀松枝の入選作
「つわものに召出されしわが背子はいづこの山に年迎うらん」
が詠まれました。明治天皇は心を動かされ、
「あらたまのとしたつ山を見る人のこころごころを歌に知るかな」
と返歌を作られています。
その年、天皇は、
いつの日か帰り来ぬべきいくさ人ねぎらわんとてやりし使いは
おおしくも連なりきつるあた船(敵船)を打ち砕きけりわがいくさ人
国のためいのちを捨てしもののふの魂や鏡にいまうつるらん
など歌を作っていましたが、民を思う心の深さに頭が下がります。
戦争が終わった後は、
「いかにぞとおもいやるかな戦いの終わりしのちの民のなりわい
国のためたたれずなりし民草にめぐみの露をかけなもらしそ」
と詠んで、民衆の暮らしが平穏であるように思いを巡らせていました。
天皇は、どこまでも民衆の安寧を願う存在だったのです。このような姿勢、信条は天皇が克己勉励して、君主としての自分を作っていた成果でした。
1911(明治44)年には桂首相に勅語を下賜し、医療・薬に恵まれない人々のために、金150万円!を賜わり、恩賜財団『済生会』を設立させました。
天皇は元田との間で、さまざまな書を読んでいますが、古代の君主の在り方を綴った『帝鑑図説』を特に好んだそうです。加えて、自分に至らぬところがあれば、諫言するように周囲に説き、諫言があった時には、穏やかに聞き入れています。
天皇が元田から学んだのは孔子の『論語』であり、忠義忠君愛国です。中には『孟子《もうし》』を学んだという書もありますが、誤りです。『孟子』の教えは、国と民の方が君主より重要で、民の思いによっては君主も変えられるという革命思想なので、あり得ません。
『孟子』が唱える君主は、「民を貴しと」するもの、それが王道であり、仁義の道としています。革命とは、命を革めるとも言い、古代からの中国の王朝の在り方を示しているのです。
日本の皇室は、万世一系の血統ゆえ、本物の王道と言えます。このような王室、王朝は、「えへん!」日本だけです!
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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
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