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『天晴!な日本人』第43回 剛毅朴訥(ぼくとつ)、仁(じん)に近しを体現した秋山好古(よしふる)大将(4)


そこで好古よしふるは森岡を誘って、在京の10人ほどの若い騎兵将校らに呼びかけ、騎兵研究と親睦を目的とした「騎兵(将校)会」を発足させたのです。
初期は月に1度の会合を開き、騎兵隊の充実、戦術の研究に励んだのでした。会合の中心は、好古と森岡ですが、好古は三カ条を制定しています。

一、騎兵将校たる者、軍装品の整備は常に万全にしておくこと
一、隊務に励み、体力をり、研究に専心して、兵科の向上に努力すること
一、実践躬行きゅうこうして、常に模範を示すこと

会合も充実した頃、好古に転機が訪れます。旧藩主の久松定謨ひさまつさだこと伯爵がフランスのサンシール士官学校に入学することになったので、その世話係に好古を、と白羽しらはの矢が立ったのでした。
もし、好古がフランスに行くとなれば当然、私事となり、肩に燦然と輝く金ピカの参謀飾緒とも、エリートコースとも別れることになります。
しかし、周りの者が予想したように、名利や出世に欲のない好古は、あっさりとそれを捨てて、旧主君のためにフランスに行くのでした。

<フランスでの好古>

1887(明治20)年7月に日本を出発し、9月5日にフランスに到着しています。世話係、正しくは補導役としていますが、おもむいたのは花の都パリでした。
その華やかさ、壮大さに好古は度肝どぎもを抜かれます。久松に従って、サンシール士官学校の聴講生となって通学することになりました。
好古には久松家から年額1000円の手当てが出ましたが、酒好きの好古、月末になると、パンとバターのみの暮らしになります。
その時は遊びもせず、勉強に没頭するのでした。この時、自分専用の馬も飼っています。
翌年には、陸軍の大物の山県有朋やまがたありともが訪仏し、好古も対面していますが、頼まれた、フランス高官あての届け物を盗まれるという大失態を演じてしまいました。おとがめはなかったものの、以来、山県との縁は薄いままだったようです。

1890(明治23)年、正月を挟んで、原因不明の高熱と倦怠けんたい感が続き、一時は危ぶまれたほどでしたが、やがて回復に至ります。この時、後遺症で髪の毛がごっそり抜け、以後、ハゲ頭になりました。
同年2月、陸軍省総務局長のかつら太郎から、それまでの私費留学を官費留学に改め、期限を同年4月から1カ年とすること、その間、フランス軽騎兵の戦術、内務、経理、将校以下の教育要領を研究せよ、との命令がありました。1カ年の費用は1600円でした。
久松伯爵も2年の教程を修了し、パリから220キロ南西のツールの歩兵連隊付になったので、好古の負担も大きく減ったのです。
好古には、陸軍省の配慮で、パリの北西110キロのルアンの騎兵隊勤務が用意されていました。

ヨーロッパの騎兵には、重騎兵・龍騎兵・軽騎兵の3種があります。前二者は人も馬も大きく、破壊力があり、襲撃が主目的です。
軽騎兵は軽小、敏捷びんしょうで捜索や警戒が主目的です。日本は歴史が浅いので軽騎兵から整備することにしたのです。
好古の留学中、鎮台を師団に改称、6つの師団に騎兵一大隊(300人)ずつ置くことになっています。

好古、大いに学び、演習には必ず随行しました。その時、水筒の中身はウイスキーです。この間、父の訃報も届いています。
弟の真之は海兵を卒業し、少尉候補生として外洋航海中で、父の死は真之がトルコのイスタンブールから知らせてきました。好古が旧主君の久松と帰国したのは、1891(明治24)年12月のことでした。

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