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『天晴!な日本人』第45回 剛毅朴訥(ぼくとつ)、仁(じん)に近しを体現した秋山好古(よしふる)大将(6)

1901(明治34)年10月、好古よしふるは大佐のまま、清国駐屯軍司令官に任命されました。駐屯地の司令官は、外交も民政も担当することになりますが、好古は意外にも外交・民政共に辣腕らつわんの人でした。

ここで好古、数奇な縁を持つことになります。同年11月に、直隷ちょくれい河北かほく省)総督の李鴻章りこうしょうが死去し、その腹臣だった袁世凱えんせいがいが総督になりました。

河北省とは中国北部、今の北京がある一帯のことで、李鴻章は清随一の大政治家です。列強の間では、「プレジデント・リー」と呼ばれ、老獪ろうかいな政治家として通っています。日清戦争後の講和会議での、清の全権として、伊藤博文ひろぶみと交渉した人物です。

袁は、後の辛亥しんがい革命で、全権を握り、大総統になった後、帝位に就こうとして失脚しました。清の最後の皇帝、溥儀ふぎを1912年に退位させたのも袁でした。

その袁が、自分の親衛隊の近代化のために教導を受けたのが、好古と陸士同期の青木宣純よしずみだったので、その縁で好古と袁を引き合わせたのです。この時の青木は大佐で、北京の公使館付・武官でした。
初対面で袁は、「列強が掌握しょうあくしている天津の行政権を回収したいので、御協力をお願いしたい」と好古に言いました。
好古は即座に了承しますが、袁は以来、好古に絶大な信頼を寄せるようになったのです。こうしたところは、対人スキルという技術ではなく、好古の持つ人徳、人間性ゆえでしょう。

1902(明治35)年6月、好古は少将に進級します。駐屯軍司令官の職は変わりませんが、翌年4月、騎兵第一旅団長を命ぜられました。これは真近に迫ったロシアとの戦争に備えた異動でした。
日本に戻る前に、好古は一仕事しています。それは、ロシアと清の密約の内容についての情報収集です。
ロシアが半ば恫喝するように、清に密約を迫ったという情報を得た好古は部下を呼び、真っ直ぐに袁のもとに、親書を持たせて向かわせたのです。
直接、清に尋ねるとは、通常なら考えられないことでした。密約とは、双方以外には秘密ということです。
それでも部下の将校は好古の親書を手に、半信半疑の思いでたずねました。

袁の歴史上の評価は、強欲、狡猾、二枚舌というもので、日本との外交においても、悪評高い「対華21ヵ条」を、最後通牒つうちょうつきで出してくれ、と、まんまと日本を悪者に仕立て上げた男でした。
これは清の国民を納得させるために、最後通牒にして欲しいと日本に要望しておきながら、いざそうなると、清の国民に、「日本は、こんなに強引で、ひどい国だ」と袁が声明を発したのです。「そうかい」と出す日本も、マヌケではありましたが。
溥儀を退位させる際も、潤沢な年金と、紫禁城(宮廷)での居住を約束しながら、あっさり破って追い出しています。およそ、誠実さとは遠いやからです。
その袁が、好古の親書を見ると、秋山将軍に嘘はつけない、とあっさり内容を話しています。日本は早速、この密約を潰しましたが、これほど好古の人徳には威光があったのでした。

密約には、ロシアが満州を独占しようという意図が働いていました。当時のロシアは植民地と冬でも凍らない不凍港確保のために南下政策をとっていた時です。
ロシアが満州に常駐となれば隣の朝鮮が脅かされ、日本の安全保障上の大きな危機となります。
最終的に日本がロシアに要求したのは、満州はロシアでいいから、朝鮮には進出するな、ですが、ロシアの回答は、「ふざけんな、朝鮮も俺の勝手だ」でした。
国力からすればロシアの言う通りですが、小国とはいえ、「遺憾いかんです」と引き下がらないところが、今の日本とは違います。人間の気骨、精神が今とは別の次元でした。

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